第115話
――方丈邸は以前と変わらず、落ち着いた佇まいを見せている。
塀の内側の、松の木の堂々たる枝ぶりが見える。
和樹は目を細め、緑の威容を眺めた。
松は、環境によっては数百年を生きる――。
父が遺した松の写真の横に、そうボールペンで記されていた。
父の書き文字を思い出しつつ門を潜り、玄関チャイムを鳴らすと――引き戸を開けてくれたのは、
白いポロシャツにデニムに、ベージュ色のエプロンを付けている。
その姿に二人は戸惑い、瞬きをし、見間違いではないかと目配せする。
「……その顔はヒドイなあ。こんにちは。エプロン、似合ってないのかな?」
「ああ、アイロン掛けを始める所だったんだ。君たち、突っ立ってないで入って」
「は、はい。こんにちは」
「こ、こんにちはっ」
二人は緊張しつつ、急いで玄関に入って靴を脱ぐ。
来客用のスリッパを自ら取り、大急ぎで履く。
「あ、あの、どうしてアイロンを?」
一戸は直立し、見上げて問う。
だが、返って来た答えは平凡なものだ。
「ただの手伝いだよ。昨夜から立て込んでるけど、家政婦さんに来ていただくことは出来ないからね」
「……でも……」
「手の空いている者が、出来ることをすれば良い。洗濯もアイロン掛けも料理も出来るから、心配は要らないよ。君たちは、明日もテストだろう? 早めに帰宅した方が良いんじゃないかな」
「はい……月城と幾夜様を見舞ってから帰ります」
和樹は、ペコリと頭を下げる。
「あの……月城はどこに?」
「廊下の一番奥の部屋だよ。日那女くんが付き添っている。飲み物を持って行くから、待っててくれ」
それを見送り――月城が居る部屋に向かう。
縁側廊下のガラス戸は開け放たれ、庭の草花の香りを運ぶ。
不意に――和樹の脳裏に、広い庭の景色が浮かんだ。
ここよりも、ずっと広い庭。
橘の木と松の木が立ち並び、大きな池があり、そこの手前で蹴鞠をした。
対の屋の御簾の内側では、若い女房たちが見物している。
御簾の下から、女房たちの色とりどりの
すると――御簾の隙間から、少女が顔を出した。
少女は、とても愛らしく……
「すまんな。見舞いに来てくれて」
――日那女の声が、過去の記憶の流れを断った。
気付くと、目前に彼女が立っていた。
紗の薄青色の和服を着て、髪はポニーテールにして高く結んでいる。
彼女が現れた瞬間を、和樹は見ていない。
庭を見ていた間に意識が呑まれ、少し『時間が飛んだ』らしい。
舌の奥を軽く噛み、意識が飛ばないように額に力を込め、訊ねる。
「……月城の具合はどうですか?」
「一週間は動けないだろうが……会ってやってくれ」
「……幾夜様の容体は?」
「……父を気遣う必要はない。家族と友達のことだけを考えろ。飲み物を持って来るから、待っててくれ」
二人は黙って見送り、教えられた寝室へと向かう。
その途中で、短い会話を交わす。
「……お前も勘付いてるよな?」
「……うん……先生のことだね」
和樹は頷いた。
一戸の言いたいことは分かっている。
それを確かめなけれはならない――。
縁側廊下に沿って、三つ並ぶ和室一番奥の部屋。
そこが月城の病室らしい。
二人は膝を付き、一戸はそっと障子を開けた。
中は八畳間で、床の間には『月を見上げる鶴』を描いた掛け軸が飾ってある。
障子の横の折り畳みテーブル以外の家具は無い。
他は、壁に紺色の羽織が掛かっているだけだ。
――月城は、中央に敷いた布団に寝かされていた。
額には濡れタオルが当てられ、傍らに水を張った木桶がある。
『黄泉の水』であると、二人は察した。
魔除け効果以外にも、傷の手当てにも応用できるようだ。
そして――部屋の隅に黒猫が蹲っていた。
二人を見ても動かず、鳴きもしない。
五月のパーティーの時に、庭に居た地域猫だと和樹は気付く。
ミゾレと遊んでいた猫だ。
二人は珍客に戸惑いつつも――血の気を失った月城の横に正座する。
息はしているようだが、人体と云うより陶器のように見える。
黒髪が、濡れたカラスの羽根のように、枕に広がっている。
和樹は掛け布団の下に手を差し入れてみたが――触れた手の先に温もりは無い。
落胆しつつ手を戻し、掛け布団を直す。
月城が深刻な状態にあることは明らかだ。
命に別条が無くとも、平静は保てない。
仲間がこのような状況にあることが悔しく、いたたまれない。
一戸はタオルを濡らし、額に当て直す。
仲間との不遇な別れは、もう味わいたくない……。
……障子の向こうから、足袋の摺り足の音が聴こえた。
一戸は障子を開け、日那女は少し腰を落として室内に入った。
彼女が持っていた盆には、三人分のプリンアラモードと紅茶入りのグラスが載っている。
それを折り畳みテーブルに置くと――三人はテーブルを挟んで向き合った。
小さなテーブルだから、距離は近い。
自然と、ひそひそ声にもなる。
「……月城が、早く治れば良いのですが……」
和樹は、横目で伏せる月城を見る。
そして『
わざと斬られるなど論外だが、それしか勝機を見い出せなかったのだろう。
彼の行動で『
上野――『
『
その信頼には応えられたが、代償の大きさに胸が痛む。
救いは、自分たちのニセ者たちを死なせずに済んだことだ。
彼らは、無邪気だっただけだ。
無邪気さゆえに、善悪の判断が出来なかっただけ。
リーダーの『
無用な殺生を避けられたのは、喜ばしい。
「……九月九日……予定を変えるつもりは無い」
日那女は、プリンアラモードの蓋を開く。
「ニセ
「分かっています」
一戸は、ストローで紅茶を啜る。
氷とガラスがぶつかる音が、涼し気に響く。
「月城が闘える状況であれば……ここで畳みかけないと、機を逃すでしょう」
「……だな」
日那女はスプーンで生クリームを掬い取り、口に運ぶ。
彼女は、至って平静だ。
だが――心配なことがある。
和樹は、それを切り出した。
「先輩……今日は欠席されましたよね。幾夜様の具合がよろしくないからだと思っていましたが……」
「ああ。色々と考えてな。……私は、明日『退学届』を出す」
「えっ」
「えっ」
和樹と一戸の声が重なる。
一戸は、身を屈めて聞いた。
「夏休みには、模試にも出ていらっしゃったでしょう? 進学されるとばかり……」
「夢を見ていたのだよ。醒めると分かっている夢を……。醒める一瞬前まで、夢を見ようと足掻いていた……」
日那女は手を止め、瞼を伏せる。
「普通に生きて、友人を作って、普通に大学に行こうとしていた……。だが、迷惑なことをしてしまった。私の代わりに、ひとりの中学生が桜南高の受験に落ちた。反省してるよ……。もう、繰り返さない」
「先輩……」
和樹の顔は強張り、スプーンに伸ばした手も止まる。
「……まさか、死ぬとか……そんなんじゃないですよね……?」
「……体を失う、と云う意味では正解だ」
日那女は微笑み、プリンの上のイチゴを頬張った。
「まあ、君たちが高校に入学して来るのを待ってた訳だが。そして、間もなく決着が付く。今度こそ付ける。だが、『ツケ』は払わねばならない。君たちの転生の場所を借りた『ツケ』をな。……この地の『
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