第86話
一戸はアイスティーを啜り、和室に座る沙々子を横目で見た。
彼女を気遣っているらしく、言葉を選択しつつ話す。
「前に……書店でのニセ者の目撃情報について、話し合ったよな。上野だったかな。ニセ者は、自分の彼女に花嫁衣裳を着せたいんじゃないか、と言った。それは、おそらく正しい。月城も先輩もそう思った筈だ。だが、誰も口には出せなかった……分かるな?」
「……そうかもな……」
和樹は俯き、バターとバナナの香りが漂うパウンドケーキを眺める。
あの場には、久住さんと蓬莱さんも居た。
ニセ者の自分が、誰かにウェディングドレスを着せようと画策している――。
そう察しながらも、無意識に知らぬ振りを貫いた。
そうすれば――誰をも動揺させないと思ったから。
久住さんは、大切な友達だ。
隣に住んでいて、一緒に登下校して、宿題をやって、遊んで……
その思い出の一つ一つが、玉石のように煌めいている。
そして蓬莱さんは、遠い過去の恋人が持つ『力』を託された人だ。
短い生涯で、ただ一人の想い人だった姫君。
御手に触れることも無く――それでも愛し合った。
その御方は、今も『
その古き血筋ゆえか――死ぬことも許されず、『
それが果たされた後は……
「肝心なのは……」
一戸は沈着な声が、巡る想いを止める。
「ニセのお前が、誰に花嫁衣裳を着せようとしているか、だ」
「それは……」
「……奴は、どこで久住さんを知ったと思う?」
一戸は率直に斬り込み、和樹は息を止め、沙々子は腰を浮かした。
「奴らは、頻繁に現世に来ていた。ニセのお前は、どこかで久住さんを見て、歓迎せざる欲望を抱いた……」
「そんな……」
「あのニセ者どもは、『
「それで……」
「お前がその御神木を通して、知らず知らずニセ者の意思を感じ取っているのかも知れない。だから、久住さんを心配して護衛をしている」
一戸は、厚切りのパウンドケーキをフォークで倒し、カットして口に入れた。
「残る謎は、先輩のニセ者と喫茶店で同席していた女だ。先輩のニセ者は『桜夏祭』にも現れ、今度は喫茶店とは……現世の生活に馴染んでいる。どこで資金を調達したのやら」
「あの……」
沙々子が、不意に口を挟んだ。
「私が、そのニセ者の居場所を占ってみましょうか? 当たるか分からないけれど」
「ありがたい申し出ですが、それを受けることは出来ません」
一戸は言葉柔らかに、丁重に断った。
さらに座布団から降り、背筋を伸ばして沙々子と向き合う。
「今以上に闘いに関わり、
彼は床に指を付き、深々と頭を下げる。
その堂々とした態度と説得力のある物言いは、成年の風格がある。
前世で『近衛府の大将』を務めたのは伊達ではない。
和樹は「さすがな…」と惜しみない称賛を贈りつつ、母に体を向けた。
「そうだよ、母さん。僕たちは闘いを終わらせて、父さんを助け出すから。見守ってくれるだけで充分だよ」
「ありがとう……二人とも……」
沙々子は、目尻を拭った。
子供たちの成長が、嬉しく頼もしい。
役に立てないのが
「そうだ。昨夜の残り湯を詰めて置いたんだ」
和樹は、テーブルの下からカゴに入った醤油さしとガラス瓶を出した。
「とりあえず二十個と、こっちの瓶も。カゴごと持ってって」
「助かるよ。ありがとう」
一戸は、笑顔で受け取った。
「俺は、明後日は部活が休みだ。その日に全員で対抗策を練ろう」
「予備校は?」
「その日の夕方が初日だ。だから大丈夫」
「大変ね。体を壊さないようにね。デラウェアを持って来るから、食べて行って」
沙々子は夫の遺影に微笑みかけ、リビングを横切ってキッチンに向かった。
そして――久住さんの予備校通い四日目。
和樹は、今日は護衛団に加わった。
他は、いつも通りの面々である。
明日は、久住さんの講座は休みだ。
みんなで上野家に集まり、久住さんを護る手段を練る。
久住さんには、『ニセ者の
「ニセ者の自分たちが声を掛けるかも知れない」と注意はしたし、それ以上を口にするのは憚られたからだ。
それに追加の醤油さしも、エキス入りシャンプーボトルも渡した。
あとは、外出時の警戒を怠らないようにすれば良い。
家族との自家用車での買い物は、岸松おじさんに追跡を頼んだ。
もちろん、和樹も同乗する。
和樹のニセ者をどうにかしないと安心できない。
黄泉姫いわく「
攻撃は最大の防御、とは言うものの、こちらから『
親切にも敵が少数精鋭で攻めて来て下さっているのに、自分たちのニセ者と
そうなれば『コンティニュー』となり、また五十年後に再戦となる。
それは許されない。
和樹は、ドーナツショップの席から予備校を睨む。
「怖い顔するなよ」と、上野は牽制した。
しかし、彼も憮然と同じ方向を見上げている。
月城も蓬莱さんも無言だ。
一戸の推測を聞いた三人も緊張している。
敵が、久住さんに目を付けている。
その敵は神出鬼没で、どこから現れるか分からない――。
「あと三分か……」
上野は壁の時計を見た。
「そろそろ出るか?」
「そうだね」
和樹たちは計ったように立ち上がる。
いつも通り会計し、いつも通り店を出る。
今日も、夏らしい快晴だ。
蓬莱さんは麦わらハットを被り、目を細める。
背中に垂れたカールした髪が、緩やかに揺れる。
和樹も目を細め、歩道を斜め横断しようとした。
歩行者専用道路なので、車は通らない。
「……おかしい!」
月城の緊迫した声が耳を突いた。
「……敵が中に居る!」
「何だって!?」
上野が叫んだ。
「予備校の中か!? どこだ!?」
「五階……五階の窓が歪んで視える! あの時と同じだ! 教頭が取り憑かれた時と同じ視え方だ!」
月城は目を凝らす。
彼の目には、五階部分の窓がグニャリと斜めに捻じれて映っている。
「俺たちは忘れてた! 学校には、もう一体の『悪霊』が居た! 教頭に取り憑いた奴の他に、もう一体!」
指摘され、三人は「あっ」と口を開ける。
以前、方丈日那女も言っていた――もう一体、居ると。
なのに、忘れていた。
強敵との戦闘が続いていたとは云え、迂闊にも程がある。
しかも、久住さんは「五階で受講している」と言っていた――。
「俺が行く!」
月城は、予備校隣のビルに走る。
彼は、自在に異界に身を沈めることが出来る。
だが、ここは人目が多すぎる。
異界への移動は、傍目には人間が消失したように見えるのだ。
だから、人目に付かない場所を探す。
「僕も行けるな!?」
和樹は追いながら訊いた。
一戸と共に『霊界』に引きずり込まれた時、現れた月城は上野を連れていた。
その予想は的中し、月城は答えた。
「一人ぐらいならな!」
そして、予備校五階の教室では――
講習が終わり、講師に礼をし、生徒たちは立ち上がる。
久住千佳も参考書やノートを仕舞いながら、顔見知りとなった生徒たちに挨拶し、教室を出た。
すると――廊下に、クラスメイトの中越さんが立っていた。
久住千佳は少し驚き、目を
「あれ? 中越さんも講習に通ってたの?」
「うん。今日だけの『お試しクラス』でね。無料だから」
「……そう言えば、そんなのあったね」
久住千佳は思い出す。
予備校のHPには『人数限定・無料のお試しクラス』の項目もあった。
「中越さんは、何の科目を受けてるの?」
「物理。まあまあの成績だったけど、不安だから」
「そっか……どうだった?」
「先生が結構イケメン。この街出身の元北大生だって。授業も解りやすかったかな」
「そうなんだ」
「ねえ、ちょっとトイレに付き合って」
「いいよ……」
久住千佳は、何の気無しに振り向いた。
すると……廊下も教室も無人だった。
空気が、いつもよりもひんやりと感じる。
みんな、帰るのが早いな――と思いつつ、中越さんとトイレに向かう。
トイレは、廊下の突き当りだ。
トイレも無人だった。
中越さんはリュックを荷物棚に置き、個室に入る。
久住千佳も紺色のトートバッグを置くと、向かいの鏡に向き合った。
入学前に切った髪は、肩に届くぐらいに伸びた。
前髪は眉より下でカットしているが、もう少しカットして眉を出そうか――と前髪をいじってみる。
「ちぃ・か~・ちゃあああ~ん」
鏡の中の自分が――波のように揺れた。
直後――その後ろに、半袖シャツ姿の
久住千佳は、目を見開く。
一瞬で分かった。
後ろに立つ少年は、自分の幼なじみでは無い。
同じ顔・同じ姿をしていても、その表情は彼とは似ても似つかない。
半年の間に逞しく成長した彼。
それでも優しい笑顔は、幼い頃と変わらない。
両親を愛し、友達を尊敬し、必死に闘う彼の面差しは、鏡の中には無い。
「ナシロくん!!」
久住千佳の叫びが、『異界』に響いた。
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