第85話
「さて……我が背よ。何から話そうか?」
黄泉姫は、したたかな笑顔を浮かべる。
気持ち良さそうに首や肩を回し、入浴を楽しんでいる様子だ。
母を怯えさせたくせに、のんびりと寛いでいる――
それが腹正しい。
「……
和樹は探りを入れる。
黄泉姫が誰の妻であろうが、どうでも良い。
一刻も早く、ここから立ち去って欲しいだけだ。
だが――
「何だ、その引き攣った顔は?」
黄泉姫は、低く哄笑した。
「お主らの言うニセ者の私が、
「……そんなことを言うために、僕の前に現れたのか? 母や蓬莱さんを怯えさせて楽しいか?」
穏便に、穏便に――そうは思うが、黄泉姫の不敵な態度は和樹を苛立たせる。
挑発に乗っては、相手の思う壺だ――。
それが分かっていても、感情を制御するのは難しい。
黄泉姫も――そんな和樹を見てますます調子づき、さも愉快そうに笑った。
「ほっほっほっ……お主も、我らと共に暮らさぬか? お主の
「僕が行けば……その
「知らぬわ。邪魔なら消せば良い。所詮は、魂無き
挑発だと分かっていても、和樹は憤慨せずにいられない。
ようやく魂が解放された先達の四将たち――。
なのに、彼らの姿を模した
惨すぎる仕打ち――辱しめに、
王后さまは、「
二つの国を闇に堕とし、罪なき人々を犠牲の果てに求めたのが『愛する家族』だと言うのか――。
余りに理不尽で身勝手な行いに、次の句が出て来ない。
うち震え、唇を噛み締めていると――白い細い手が伸びた。
唇に触れた人差し指には、細い血の筋が付いた。
黄泉姫は、それを舌先で舐める。
「おやおや、血が出ておるぞ?」
「……触るな」
和樹は、黄泉姫を睨む。
まるで、直に唇を舐められたような悪寒に見舞われたから。
「触るな、汚らわしい」と言う所だったが、二の句は吞み込んだ。
相手が邪悪であろうと――その言葉を口にしたら自分も同類に堕ちる、と思った。
愛した人の似姿の女は、自分や友や家族に仇を為す存在だ。
それでも……言葉は選びたい。
遥か過去の自分は、そういう教えを受けて育った。
『近衛府の四将』は、月帝と国と民を護るのが務めだ。
他者を『汚れ』と罵るのは、己の誇りを貶める行為に他ならない。
和樹は深呼吸し、ドアの向こうで項垂れる母を思い、口を開く。
「帰ってくれないか? 現世では、貴女は本来の能力を発揮できない筈だ。僕がそうであるように」
「確かにな。だが、お主を
「……
「それは、我とは関わりなきこと。我は、お主と我が化身の娘に興味があるだけだ」
黄泉姫の答えは、和樹を惑わせた。
喫茶店に居た方丈日那女のニセ者と同席していたのは、こいつでは無いのか?――
「……私の夫の……消息を知っていますか?」
ドアの向こうの――母の細い声に、和樹はハッとした。
父は、『
その化身の黄泉姫なら、父の状況を知っていても不思議ではない。
「詳しくは知らぬが」
黄泉姫は、上目遣いに和樹を見た。
「あそこは、我にも出入り出来ぬ部屋だ。そちの夫は、小君と呼ばれる
――ああ、と言う母の嘆きが伝わった。
黄泉姫は浴槽の縁に手を掛け、ガラス戸に映る人影をチラと見る。
だが、一ミリたりとも油断は出来ない。
「ずいぶん親切だな。僕を
「……さよう。我も心外に思う」
黄泉姫は小首を傾げた。
「先も申したが、お主の母君を害する気は無い。
「……帰ってくれ」
和樹は繰り返し、黄泉姫の黒い瞳を見つめる。
これ以上、黄泉姫と話すのは闘いの益にはならない。
母への情の片鱗を見せたとは言え、闘いでは躊躇なく自分に向かって来るだろう。
蓬莱の尼姫の化身たる彼女は、『
「まあ……良い。我が背であったお主と
黄泉姫は鼻で笑い――その妖し気な姿は、たちまち浴槽の底に沈んで消えた。
浴槽には、バスタオルだけが揺れている。
和樹は急いで浴槽から出て、ドアを開けた。
母は、両手で顔を覆って泣いていた。
浴槽の湯からは、まだ強い芳香が立ち昇っている。
霊感の強い人間は、この水が苦手だ。
直に触れると、霊体が引き込まれる感覚に陥るらしい。
再びドアを閉めて、シャワーで体を洗い流す。
脱衣所のカゴに入れてある予備のバスタオルで体を拭き、シャツやハーフパンツを身に付ける。
濡れた髪にバスタオルを巻いてから――ようやく母を抱き締めた。
「……母さん……」
「……うん……うん……」
母は、息子の胸に顔を
黄泉姫の真意は知るべくもないが、彼女の口から出た父の状況は事実だと思いたいのだろう。
「……父さんは無事なんだよ……信じよう……」
和樹は、母に言い聞かせる。
そう――父の魂を解放するのも、闘いの目的の一つなのだ。
父と再会し、霊界に戻るのを見送りたい。
そのためにも、絶対に負けることは許されない――。
母を抱いてリビングに戻ると、テレビが点けっ放しだった。
母が観ていた歌番組の録画も終了し、ニュース番組にが流れていた。
そして、テーブルに置いていたスマホのランプが点灯していた。
見ると、久住さんからのメッセージだった。
【 ミゾレが大騒ぎしてた。何かあったの!? 】
和樹は嘆息し、母と並んでソファーに座り、返信した。
正直に伝えるしか手は無い。
【 黄泉姫が現れたけど、すぐ消えた。怪我は無いよ。後で、電話で詳しく話すよ 】
――翌日。
体調不良を理由に、沙々子は仕事を休んだ。
昨夜の出来事が衝撃過ぎて――無理も無い。
和樹も母が心配で、久住さんの通う予備校への護衛を迷った。
皆で相談し合った結果、今日の護衛は上野・月城・蓬莱さんに任せた。
黄泉姫の一件が久住さんに知れた今は、彼女公認の護衛であり、上野と蓬莱さんと共にバスに乗って予備校に登下校する。
一戸は、今日も部活で欠席だが仕方が無い。
ただし、部活が終わった午後三時には和樹の家を訪問すると言う。
そして、今日も何事も無く予備校通いが終わり――午後三時二分前に、一戸は和樹の家に現れた。
いつも通り仏壇に手を合わせ、お土産の菓子折りを供える。
彼の父親が経営するパティスリーで売っているパウンドケーキだ。
沙々子はケーキを切り分け、アイスティーを出す。
和樹と一戸はリビングのコーヒーテーブルで向き合い、一戸が話の口火を切った。
「久住さんは大丈夫か?」
「うん。蓬莱さんが来ていて、二人で勉強してる。母の体調もあるし、人が多いと迷惑だからって」
和樹が言うと、仏間の和室に座っていた沙々子はペコリと頭を下げた。
一戸も礼を返し、和樹に向き直る。
「敵の動きが激しい。向こうも焦ってるな」
「そう思うかい?」
「ああ」
一戸は頷く。
「『八十八紀の四将』の目的は、俺たちの抹殺だった。問題は、現世をウロウロしている先輩やお前のニセ者だ。奴らの目的は、我々の抹殺とは思えない。考え直せ。
お前のニセ者が、結婚情報誌を見ていた理由だ。あれは、やはり誰かのために、花嫁衣裳を用意しようとしたんじゃないのか?」
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