第84話

 またもやニセ者の方丈日那女が出現した、との一報に、和樹は嘆息を繰り返す。

 止むを得ず、久住さんにも詳細を伝えた――『黄泉姫』のことも。

 久住さんは驚き、半泣きで蓬莱さんの手を握った。

 彼女の動揺が収まるのを待ち、和樹は穏やかな口調で言い聞かせる。


「ひょっとしたら、先輩や僕たちのニセ者が、声掛けをしてくるかも知れない。奴らの霊気は強いから、醤油さしを持っていても安全じゃない。どこかに行こうと誘われても、付いて行かないで。そいつが、ニセ者と云うことも有り得るから。僕たちは、口では絶対に久住さんを誘わない。アプリかメールを使う。一戸たちにも、そう決めたと伝えるよ」


「……分かった」

 久住さんはミゾレをぎゅっと抱き、幼児のように神妙に頷いた。

 『桜夏祭』で見たステージ上での闘いは、決して忘れられない。

 古風な衣装で長髪を翻して闘う彼は――神々しかった。

 そして今の彼の表情は、毅然として逞しい――。

 

 


「今夜は、『三途の川エキス』を大量に補充しよう。頼めるかな?」

 和樹が訊くと、蓬莱さんは即座に頷いた。

 二人で同時刻に入浴し、蓬莱さんが『三途の川』の水を浴槽に引き込めば、和樹の家の浴槽にも流入してくる。

 それを確保すれば良い。

 和樹は手を伸ばし、ミゾレの額を撫でる。


「フランチェスカ、頼む。久住さんの家の芳香剤ボトルの量に注意していてくれ!」

「ニャン! ニャニャン!」

 ミゾレは前足を振る。

 

 ――大切な友達を護る。

 ――傷付けさせない。

 和樹は、決意を固める。







 そして夜の九時四十分。

 和樹は、母の沙々子の入浴後に浴室に入った。

 洗い場には、洗面器に入れた醤油さしを五十個と、百均で買ったガラス瓶を十個とシャンプーボトルが五個。

 ガラス瓶やシャンプーボトルは、あの後に自ら買いに走った。

 『三途の川エキス』は、出来るだけストックして置きたい。

 入浴の度に補充は出来るが、上野家や一戸家に配る分も必要だ。

 いくらあっても、充分すぎることはない。


 

 その前に――まずシャワーを浴び、ボディソープとシャンプーで汗を流す。

 浴槽に浸かり、温かい湯で筋肉がほぐれた所で作業開始だ。

 壁のフックに掛けてある防水時計は午後十時を指している。

 蓬莱さんも、浴槽に入っている筈だ。

 


(……来た!)

 浴槽の底から芳香が立ち昇り、和樹は気合いを入れた。

 湯触りが変わり、肌に染み込むような感覚に襲われる。

 幾度も通り抜けた『黄泉の川』から流れ込む水――。

 気を抜くと、底に引き込まれそうだ。

 頬をつねり、洗面器に入れてある醤油さしに手を伸ばしたが……



「……え?」

 ――思わず手を止めた。

 浴槽の底から、黒い筋が浮いてくる――まるで海藻のように。

 

「これは……!?」

 脛の辺りに、何かが絡む。

 そして、微細な泡が立ち昇ってくる。

 

(……敵か!?)


 異常を察し、浴槽の底を睨む。

 この浴槽は、すでに『異界』と化しているのだ。

 ここから出るべきだ、と判断して立ち上がろうとした時――。

 



百鵠びゃっこう……神る月より飛び立った白鵠びゃっこう……)


 頭の中で、女の高らかな声が響いた。


(忘れたか……そなたの『名』の一部を。我は忘れぬ……決して忘れぬ……)



 目の前に、飛沫が上がる。

 芳香は濃い霧と化し、狭い浴室に溢れる。

 しかしそれは数秒で晴れ、和樹の前に白と黒が立ち塞がった。


 額を貫く視線に吊られ、上を向く。

 そこには――少女の裸身がある。

 

 息を呑み、継ぎ、何度も何度も瞼を開け閉めした。

 少女の濡れた長い黒髪が、白い肌に貼り付いている。

 秀美な顔には、ねっとりとした妖艶な笑みが閃いている。



「……黄泉姫!」

 和樹は叫んだ。

 夢で見た『蓬莱の尼姫』と瓜二つで、『蓬莱天音』と姉妹ほどに似た顔。

 村崎家に現れたのは、間違いなくこの女だ、と確信する。

 しかし、この嘲るような雰囲気は尼姫や蓬莱さんには無い。

 黄泉姫は、ぺろりと舌を出し――すぐに引っ込めた。

 その舌先は蛇の舌を思わせ、口中に不快な苦味が溢れる。

 子供の頃に苦手だった、レザーの臭いを嗅いだ時を思い出す。

 

 軽い吐き気を覚えつつも、黄泉姫の顔に視線を固定しようと努めた。

 視線を下ろせば、見てはいけないものが目に入るから――。




「和樹! この気配は何なの!?」

 絶叫と共に浴室のドアが勢いよく開いた。

 霊感のある母は息子の危機を察し、後先を考えずに様子を見に来たのだ。

 そして――息子の正面に立つ少女に絶句した。

 少女の膝から下は浴槽の中だが、これ見よがしに身を晒している。

 恥じらいなど微塵も無い様子で、獲物の味を品定めしているような顔付きだ。



「和樹、こっちに来てっ!!」

 沙々子はペンライトを構え、絶叫した。

 少女の姿の『悪霊』に慄きつつも、怯みはしない。

 『桜夏祭』で必死に闘う息子を目の当たりにし、盾になる覚悟はしていた。

 殺されても構わない。

 息子を、自分の目の前で殺させる訳にはいかない――。




「母君か……心配は要らぬ。そちに危害を加える気は無い」

 黄泉姫は口に手を当て、余裕たっぷりに笑った。

「かつての我が(夫)の母君に害を為しはせぬ」



「母さん、大丈夫だから……入って来なくていいよ」

 ようやく我を取り戻した和樹は振り向き、母を落ち着かせようと試みる。

「彼女は『黄泉姫』……神名月かみなづきの恋人だった姫君の……化身だ」



「…………そうなの…?」

 沙々子は強張って歪んだ口をやっと動かし、声を絞り出した。

 しかし、構えは解かない。

 

「母さん、バスタオルを取って」

 母の悲鳴に近い叫びは、和樹に冷静さを取り戻させた。

 母を護らなくてはならない――。

 父が自分たちを護ったように――。


「…………はい……これ……」

 沙々子は言われるままに、青と白のツートンカラーのバスタオルを差し出す。

 

 受け取った和樹は、黄泉姫から顔を背けつつ――それを広げた。

「これを体に当ててくれ。落ち着いて話そう……玉花ぎょくかさま」


「……良かろう」

 黄泉姫はバスタオルを体の前に当て、浴槽に片膝を立てて座った。

 和樹は、ぎこちない笑顔で母を見て頷き、黄泉姫に向き直る。

 

 

 息子の決意を読み取った沙々子は無言でドアを閉め――脱衣所に座り込んだ。

 ペンライトを床に落とし、両腕で自分の肩を抱く。

 少女の霊体から放たれる『気』は、鋭い棘を思わせた。

 それが自身の霊体を刺激し、額に指を突っ込まれたような圧迫感が走る。

 だが、ここを離れるわけにはいかない。

 命を失う危険に晒されようとも、最愛の我が子の傍に――。

 沙々子は歯を食いしばり、浴槽の会話を聴き取ろうと『気』をそばだてた。

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