第77話
一戸は、午前六時に目が覚めた。
普段より、一時間遅い起床である。
学校の朝練は週二回だが、それが無い日も自宅で素振り・筋トレをしている。
書道をする日もある。
心身を鍛えるのは、厳格な祖父の意を汲んでのことだ。
早く居なくなれ、と思うことも多々あるが――厳しい生活は、奇しくも闘いの役に立っている。
首を回すと、上野が仰向けに寝ていた。
口を少し開け、タオルケットは蹴り落とされて下に落ちている。
昨日の戦闘で疲弊して爆睡しているようだ。
一戸は自分のタオルケットを掛けてやり、そーっと起き上がる。
昨日の『桜夏祭』終了後には後片付けと『後夜祭』があり、月城家に帰宅したのは午後九時過ぎだ。
大豆ミートカレーライスをいただき、入浴し、四人は二部屋に分かれて就寝した。
今後の話し合いをする予定だったが、和樹と上野は体が悲鳴を上げていた。
かくして、月城の『母親』の勧めもあり、素直に寝むことにした。
――ベッドを降りた一戸はスリッパを履き、リビングに向かう。
キッチンでは、薄山吹色の着物に割烹着姿の女性が庖丁を使っていた。
ミディアムロングの髪は一つに纏め、白い三角布で頭頂部を覆っている。
料亭の若女将、と云う風情だ。
「おはようございます」
姿勢を正して深々と頭を下げると、その人は振り向いてくれた。
「おはよう……もう、目が覚めたのですか?」
月城の『母親』を名乗る、かつての『
昨日、助け船を出してくれた御方である。
市長夫妻と教育長を引き連れて学校を訪れ、事を丸く収めてくださった。
あの後、客人一行は茶道部部室に招かれて薄茶でもてなしを受けたのである。
お高めの、白小豆の水ようかんである。
市長夫妻と教育長は「今日は、一般客として来ただけ」と言いつつ、満足そうに学校を後にした。
以前に救急車と警察が介入する事件が在っただけに、校長と教頭が胸を撫で下ろしたことは言うまでもない。
和樹たち一行が起こした騒動も、全員の反省文提出だけに留まった。
ここに来て、『月城の父親が市会議員』設定が役立つとは、何が起きるか分からないものである。
「
王后は楽しそうに手際よく、インゲン豆を斜め切りにする。
「豆腐の味噌汁、里芋とインゲン豆の煮転がし、出汁巻き卵、焼き鮭、海苔に納豆に漬け物。これでお腹いっぱいになる?」
「充分です……手伝います」
「ありがとう。じやあ、鮭を焼いてくれる?」
王后は、手際よく卵を割っていく。
「でも……天音さんも誘わなくて、良かったんですか?」
過去世に置いては、二人は実の母娘だ。
自分たちを招くより、彼女と水入らずで過ごすべきだと思う。
しかし王后は、首を軽く振った。
「顔を見られただけで充分よ。それに、お祖母さまと暮らしているのでしょう。今の御家族を大切にしてくれる方が嬉しいもの」
市長一行は、一般客を招いた教室での茶席も見学している。
その際、彼女と王后は顔を見合わせていた。
二人は数秒間見つめ合い、けれど無言ですれ違うに留まった――。
「夫も来られたら良かったのだけれど……月の血を引く者でなければ、あそこから出られない。今回は抜け出せたけれど、次は無理でしょう」
「
一戸は冷蔵庫から紅鮭の切り身を出してグリルに入れ、王后は卵をかき混ぜつつ答える
「私たちの魂は、御神木に囚われています。ゆっくり話がしたかったけれど、刻限が近付いています……」
「では……今のうちに、お聞きしてよろしいでしょうか。我々のニセ者と、御神木は関係があるのですか?」
一戸の核心を突いた質問に、王后は頷く。
「
「……
「残念ながら……でも上野くんの『顔』は、
「……そうでしたか……何しても取り返します!」
「
「理想……?」
「気心の知れた友、愛する弟とその友人たち、そして妻の居る平穏な生活を欲しているのです。権力と異能を手に入れ、二つの国を滅ぼした男が最後に求めるは、細やかなる幸福……」
「妻……?」
一戸は、思わず顔を上げた。
「
念を押すように語尾を強めて訊くと、王后は――調味液と卵液を混ぜつつ、低い声で呟いた。
「
よもやの答えに一戸は仰天した。
だが同時に、「やっぱり……」と納得する自分がいる。
過去世の記憶は未だにおぼろげだが、月の宰相となった
しかし人外と化した後も、姫君のニセ者を造って妻にしているのだろうか。
この震撼の事実を、上野と和樹に打ち明けなければならない――
一戸は、菜箸を宙に浮かせたまま立ち竦む。
「……
王后は、鋭く隙の無い眼差しを向ける。
それは『近衛府』で厳しい修練を積んだ剣士のそれだ。
「そして
「その御言葉、肝に銘じます……」
菜箸を持った腕を下げ、恭しく礼をする。
『
親友の暴走を止めようと試みて、身を犠牲にした男性――
その心深い先達が、狂気の心を伴って敵に回る。
無念すぎる事態に、気道に鉛を押し込まれた心地がする。
王后はフライパンに軽く油を塗りつつ――警鐘を鳴らす。
「もうひとつ、言って置かねばならぬことがある。
「……彼が、自身の身のことを隠しているのは察しております……」
「……彼は、身をもって過ちを償う覚悟であろうが……彼は『黄泉』を漂流している期間が長すぎた。ひとつの体に魂が永く留まるのは、転生に関わる」
「それは、どういう意味でしょうか……?」
「彼は、今も半身を『黄泉』に置いているに等しい。身が傷付いても、簡単には死なぬが……『
「……そんな……!」
「本人は、それを本望と考えている。そなたらが彼を赦そうとも、彼は自身を赦してはおらぬ」
「どうして……」
一戸は、手で目を覆った。
学校で過ごしている時も、彼が一歩引いているとは感じていたが……
「……彼は仲間です……!」
紅鮭を引っくり返し、一戸は力強く宣言した。
「自分は『八十九紀 近衛府の大将』です。目の前で、仲間を死なせはしません!」
「そなたもな……」
王后は、卵液をフライパンに流し入れる。
「頼む……誰も死んではならぬ……」
「はい……!」
一戸は鼻を啜る。
対面式キッチンの正面――リビングの大きな窓の外を、雀たちが横切って行った。
四十分ほど後、一戸は茶碗や箸をキッチンテーブルに並べていた。
ご飯も炊き上がり、残るは味噌汁に豆腐を入れるだけである。
「それにしても……月城が、四人分の食器を買い揃えていたなんて」
色違いの端を並べつつ、感心してテーブルを見回す。
「……おはよう……」
声に振り向くと――姿を現したのは、月城である。
白Tシャツに、ワークパンツを履いている。
「……おはよう。調子はどうだ? 疲れは取れたか?」
一戸は、ねぎらいの言葉をかけた。
月城はキッチンを見回し、ポツリと聞く。
「王后さまは……お帰りになったのか?」
「ああ……。五分ほど前に。用意していただいた朝ご飯を食べよう」
「そうか……二人を起こしてくる」
月城は、満ちている味噌汁や煮転がしの匂いを嗅ぎ……回れ右をした。
その後ろ姿を眺めつつ、一戸は唇を動かす。
「……バカ……」
その声は、誰にも届かない。
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