第64話
あまの いざなみの ほうらいの るりこ――。
この『名』を聞いて、アトルシオは仰天した。
貴人は、本名を明かすことは無い。
地方領主の嫡男の自分の名――『ヤクトラ・ジオ・アトルシオ』も通名である。
『ヤクトラ氏族のアトルシオ』の意味で、本名はもっと長い。
が、現在それを知るのは、自分と父と祖父母と地元の高僧ぐらいだ。
中流士族に相当する自分でさえ、本名は秘匿されている。
セオやアラーシュの本名も知らないし、訊ねるのは非礼とされていた。
なのに――ここで
どういう字を当てるのかは不明だが、音の感じからして、かなり古い時代の神話的な『名』だ。
『大いなる慈悲深き御方』への信仰が広まる以前の、原初的
「御使いの『
白衣の老人に促され、アトルシオは大いに焦る。
本名を名乗ることに抵抗はあるし、この場でつっかえずに言える自信が無い。
同時に、随行の者が後ろに下がっている理由を察した。
彼らに『本名』が聞こえないように、との配慮なのだろう。
そして儀礼を司る三者が顔を布で覆っているのは『顔無き者』、即ち『人に非ず』と云うことだ。
彼らは、儀礼の間だけ『原初の神』の使者となるのだ――。
そして、自分が『名』を捧げねば、儀礼は終わらない――。
それを悟ったアトルシオは、薫る風を吸った。
肩の力を抜き、言い間違えぬように頭の中に『名』を浮かべる。
それを二度繰り返し、前を見据えて囁いた――
「我が名は……『ヤクトラ・アルシエル・アトル・ラニシャなる、神
――
かくして、山門の向こうにおわす『古き原初の神』と姫君に名を明かした。
自分たちは、得も言われぬ絆で結ばれたのである。
『名』を知ることは、呪詛的には『その人の運命を支配する』とされるからだ。
姫君は二歩進み出て、弓と矢を差し出した。
アトルシオも二歩前に出て、それらを受け取る。
弓は思うよりも軽く、けれどずしりと体に響く。
代々の射手たちの『祈り』が折り重なっているのだろう。
姫君は元の場所に戻り、畳に座して御山に向かって平伏した。
老人の脇に居た男二人が山門の前に行き、
続いて、左右の扉を押し開いて行く。
門が開くにつれて風向きが変わり、髪が後方に吹き上げられる。
老人はアトルシオの脇に移動し、門の奥に向かって平伏した。
大きく開いた山門の向こうには、御山に続く道が在る。
男二人も老人の脇に移動して平伏した。
山門の向こうは、人とは相容れぬ『異界』である。
アトルシオは両足を開き、弓を構え、矢を
『異界』に集う『邪』を白き矢で絡め取り、封じる儀礼なのだ、と奇しくも悟る。
弦を限界まで引き絞り――無心で射た。
真っ直ぐに放たれた白き矢は『異界』の『邪』を引き寄せ、突き進み、人の目から消える。
アトルシオも『古き神』の厳かな意思を感じ、自然と平伏し、崇め奉る。
二人の男は無言のうちに速やかに、扉を閉ざした。
随行の男たちが、『邪』を打ち負かした証である『
姫君は立ち上がり――続いてアトルシオも立ち上がった。
二人の巫子は顔を見合わせ――大役を果たした安堵感に微笑を交わす。
身から血を流さぬ者が巫子を務める理由を、アトルシオは何となく理解した。
男でも女でも無い者だけが、原初の神の世界に干渉できるのだ、と。
二条の少納言に呼ばれた
廊下に座り、軽く咳払いをし、一礼をする。
「
「……こちらに参られよ」
部屋の内より、
この五十を超えた
お仕えした王后と運命を共にする覚悟である。
ゆえに、聞かずとも王后も中にいらっしゃるのは分かる。
思った通り――中には、
三人とも畳の上に座り、経典を並べて身の回りの整理をされている。
受戒された王と王后は墨染の僧衣だが、姫君は柿色の小袿に薄緑色の袿を重ね着ていらっしゃる。
姫君の横に置いた籠の中では、仔猫の
そして――奥の几帳の横には、白い狩衣姿の老人が居る。
顔には深い皺が刻まれ、左目の眼球が白く濁っている。
漂う気色から、五年前の『
使いの二条の少納言は「姫君がお呼びです」と言ったが、御父君と御母君が同席していることに驚きも失望もしなかった。
自分たちは恋人では無いし、幼き日に甘やかな思い出を分け合っただけの間柄だ。
月の内乱で、この国に逃れて来てからも、二人きりで話はしていない。
にも関わらず――あの『
互いの『名』を知り、五十年連れ添った男と女に優る結び付きを得たと、密かに自負している。
「王君さま、王后さま、姫さま……お招きありがとうございます」
そして少し向きを変え、奥の老人にも同様に挨拶をする。
「楽の音が聞こえました。雅を忘れぬことは良いことです。心が落ち着く……」
王后が言う。
「だが、琵琶の音にも笛の音にも迷いがありますな。迷いなき音を聴きたくて、呼んだのですよ」
「はい……?」
「
王に指摘され、
その通りだが――答えようが無い。
誓いを交わした仲間が、何も告げずに
闘って死ぬことが誉れ、と父から教わっていた自分には――侮辱に等しい行為だと映る。
自分たちの助命を願い出るためとしても――残虐非道な
近衛府の四将たるもの、誇りを捨てて生き延びることは無価値だと思っている。
「……彼は、我らをの助命を願い出たと思われます……」
自分たちを匿ってくれた王や王后に顔向けできぬ行為に思えるからだ。
しかし――
「……人の世は、何かと引き換えに成り立っているのだよ」
王は、数珠に触れながら微笑みなさる。
「民が泥と汗に塗れて働き、税を収め、貴族や王族は権威ある暮らしを保っている。それ故に、王たる私が……今、民と国のためにできることは命を捧げることなのだ。それが正しいか否かは判らぬが……王の命と引き換えに、民の命を救うのが我が国の遣り方だ」
「王君さま……」
「
「……それ…は……!」
指摘されて、初めて思いに至った。
自分たちの助命懇願のために投降した、までは考えたが、そこで止まっていた。
闘わずして死ぬ無念、八十八紀の四将や
「……ご指摘……ありがとうございます……」
こんな単純なことに気付かなかったとは、何と愚かだったのか――。
「王君さま……我らは……誤解したまま、最期を迎えるところでした……」
「若き日の先走りは難あれど、いつかは実に変わるものだよ……彼を待ってあげられるな?」
「はい、王君さま……そこが、どんな場所でも……彼が戻って来るのを待てます…」
顔を上げると――玉花の姫君も、御袖で目を拭っていた。
姫君も心配していたのだろう――。
大切な人を悩ませてしまったことが恥ずかしく――悔やまれる。
「……手間が掛かる
老人が自ら肩を揉みつつ、憎まれ口を叩く。
「あの……
「いかにも。我は禁忌の地に在る『黄泉の泉』の『
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