序の章・四 神名月の中将
第61話
真昼である。
なれど、白々とした月は宙空に浮いている。
彼方の御山の青い稜線を押し潰すが如くに。
表面に刻まれた無数の岩穴は、我が手で描いたかの如くに鮮明に見える。
『
王宮の無血開城を明日の夜明けに控え、都の民の五人のうちの四人はすでに都から去った。
残りの民は、王都と運命を共にしようと残留を決意した者たちである。
老いた者や病に冒された者が殆どで、皆が髪を断ち、『大いなる慈悲深き御方』の弟子となった。
戒を授けた僧たちは、弟子たちの首に墨染の布を掛けて袈裟とした。
墨染の衣が足りず、止む無しの措置である。
それでも弟子たちは喜び、現世を去る覚悟を決め、魂の安寧と後世の幸福を祈る。
王宮の『
王と王后もすでに受戒され、今日も都大路を御車で回っておられる。
御車を見た民たちは無言で手を合わせ、祈祷を唱える。
御車の内の方々は、もはや俗世の王にはあらず。
けれど善良なる王の御世は穏やかで、その思い出と共に世を去りたいと願うばかりである。
「姫さま……姫さま……」
「どうか……お傍に置いてくださいませ……!」
嗚咽が『
庭に用意された牛車を前に、廊下で四人の若き尼僧が泣き崩れている。
しかし――
「私を困らせないで。早く、北の尼僧院に……」
姫君は言葉を詰まらせ、袖で顔を覆う。
四人の尼女房たちの嗚咽は収まらない。
姫君は数珠を握り、深々と頭を下げた。
「ちょうど十年……今まで仕えてくれて、ありがとう。尼にしてしまって……ごめんなさい……」
「いいえ……いいえ!」
四人は悲しみの余り、立つことも
彼女たちは姫君の嘆願で受戒し、尼僧院に逃れることとなったのだ。
術士となった
月の帝都全体に根の如く術を張り巡らせ、抗いの意志を持つ者たちを捕らえて処刑していると聞く。
四人の女房たちを逃がしても、その先は分からない。
それでも、少しでも王宮から離れた所に逃したい――
受戒した者なら、殺害される危険は減るかも知れない――
その一心からの決断である。
四人とも身寄りの無い孤児だった。
赤子の頃に『悲束院』と云う困窮者施設に捨てられていたが、その話を耳に止めた王后付きの尼僧が四人を引き取り、後に姫君のお付きとしたのである。
「ありがとう……今までありがとう……どうか生き延びて……」
姫君は顔を隠そうともせずに庭に敷かれた畳に降り、四人に手を差し伸べる。
墨染の水干姿の老いた侍従たちが、錦絵の描かれた箱を四つ、差し出した。
「これを……貝合わせの御道具……」
あれから五年しか経っていないのに、この変わりようが信じられない。
「
かつての名で呼び、微笑む。
侍従たちが四人の手を取り、牛車の
入り口の
牛車は軋む音を立てて、進み出した。
姫君は袖を濡らし、薄い土埃を上げて離れ行く牛車に手を合わせ、なつかしい日々を振り返る。
人形遊びをし、貝合わせをし、物語を楽しみ――
この現実こそが、悪い夢としか思えない。
そう、自分たちは覚めない夜に囚われてしまった……
姫君は泣き腫らした顔を伏せ、とぼとぼと母屋に上がる。
控えていた二条の少納言が
「王君さまと王后さまが、間もなくお戻りになられるとの
「……分かりました。お戻りになられたら、呼んでください」
姫君は顔を上げ、自分の部屋に向かった。
部屋は寒々しく、大きな岩屋のように感じる。
残っている女房は、二条の少納言と昔から仕えている尼僧、老いた侍女が三人。
幼なじみの四人は常に傍に居り、他にも二十人が侍っていた部屋――。
物寂しさに打ち沈んでいると――
「ミャ……ミャア…」と鳴き声が聞こえてきた。
籠に入れた白い仔猫を、老いた侍女が運んで来たのである。
王宮も人の出入りが激しく、隙を縫って入り込んだ仔猫が池の傍に倒れているのが発見されたのだ。
「
姫君は名付けた仔猫を抱き上げ、頬ずりした。
発見されたのは七日前である。
病気に掛かっていて、瞼が腫れ、背中の毛も抜けていた。
だが姫君が世話を始めると毛の抜けも止まり、乳粥を舐めるようになった。
姫君の『癒しの力』が自然と湧き出たのだろう。
尼女房たちに預けたかったが、まだ仔猫は巧く歩けない。
ここに仔猫を置くのは不安であるが、世話を続けることに決めたのだ。
やがて母后の女房が部屋を訪れ、仔猫を二条の少納言に託し、姫君は父王と母后の待つ部屋に移動する。
部屋に行くと――父王と母后は畳に座していた。
後ろには僧が二人、尼僧が一人付いている。
反対側には、三人の若者が控えていた。
姫君が入室し、畳に座ると――三人は黙礼した。
しかし、もはや王族と臣下を隔てていた
王后の後ろに几帳が一台あり、姫君はその後ろに腰を下ろす。
「……顔を上げよ……」
王が口を開き、二人までが顔を上げたが――
「王君さま……どうか、この
額を床に付けたまま、鬱々たる声で言う。
「我が兄の狂気から始まったこと……お慈悲をお持ちあそばすなら、どうか……」
「慌てなさいますな……
王后は。穏やかに微笑んだ。
「
「……王后…さま……」
温かな声に頷され、
中央に座っていた
その様子を見て、王も安堵して頷いた。
彼らの絆が、糸の幅ほども揺らいでいないのが感じられたから。
だが、恥ずべきことはあると――
「……王君さま……
仲間の思いを汲み取れず、狡猾な
夜になると、奇妙な気配を感じた。
如月は「兄の気配のような気がする」と言ったが、彼も憔悴していて、それ以上は判別できなかった。
その五夜後に、
城門を護る衛士は、彼が門の外に出るのを見ていた。
彼を信じ、身を案じ、五夜待ったが――戻ってこなかった。
さらに十夜が過ぎ、『
そして、
そこには『王都を無血開城すれば、町を焼き払うのは止めよう。
従わぬ理由は無かった。
『術士』は月の民ならではの能力者である。
それに抗う
月から逃れて来た者の中では、
それも
王后の侍従を務めていた
『八十八紀の四将』も討ち死にし、武力に劣る『
「そなたらには、心より感謝する。先達の四将ともども、この国に尽くしてくれた。本意ならぬ結末となろうが……」
王は、我が娘を見た。
自分と后が生き残るのを
だが――
『こちらは、
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