序の章・参 玉花の姫君

第58話

 自分は曖昧な存在だ、と蓬莱天音は思う。

 自分には過去が無い。

 テーブルを挟み、ノートに筆記している久住千佳とは違う。

 彼女は天真爛漫な、良い友人だ。

 自分が『村崎綾音』と云う少女に憑依した異形と知っても、変わらぬ態度で接してくれる。

 さすがに、自分を含めた友人たちとの交流が重荷だと感じているようだが――それでも、耐えてくれている。

 身の危険を承知で、猫のミゾレを飼っている。


 彼女が、神無代かみむしろ和樹に『恋心』を抱いていることも知っている。

 そして、神無代かみむしろ和樹の遠い過去世の『神名月かみなづきの中将』と、自分の過去世の『蓬莱の比丘尼びくに』が恋人であったことも……うっすらと感じている。


 

 

 

 『蓬莱天音』の人生は――去年の冬に始まった。

 転寝うたたねから覚めたように目を開けたら――そこは飛行機の中だった。

 窓際の席に座っており、窓の外を灰色の雲が流れていた。

 隣は空席で、自分のスマホが置いてあった。

 通路を挟んだ向こうの席には、恰幅の良い中年男性と白髪の女性が座っている。

 断片的に聞こえた会話から、親子だと分かった。


 キャビンアテンダントが、乗客に飲み物をサービスしている。

 自分の前に来た時、彼女は「お困りのことはありませんか?」と云う。

 「大丈夫です」と答えると、彼女は微笑み、飲み物はどうするか訊ねてきた。

 リンゴジュースを頼み、受け取ると、彼女は隣の親子に声を掛ける。


 ジュースをひと口飲んでからカップをホルダーに置き、スマホを手に取ってみた。

 操作すると、画面には電子チケットが表示された。

 どうやら、自分は羽田空港で搭乗したらしい。

 行先は、北海道の空港だ。

 

 すると、自然と情報が脳内に溢れ出す。

 自分の名前は『蓬莱天音』。

 中学三年生だ。

 去年の自動車事故で、両親は死亡したと思われている。

 遺体は発見されていないが、崖から落ちた車が発見された。

 その状況から両親は亡くなり、遺体は獣が引き摺って行ったと警察は断定した。


 それから一年余り。

 父の親類宅で世話になっていたが、居たたまれずにそこを出ることにした。

 伯母夫婦は裕福で、二人の息子を溺愛している。

 夏が過ぎた頃から、自分が息子たちを挑発している『ふしだらな娘』だと詰め寄られた。

 そんなつもりは無いのだが――伯母の冷たい視線に、長くは耐えられなかった。

 ゆえに、北海道に住む祖母宅に身を寄せることにした――。


 

 蓬莱天音は、窓から遥か下を覗く。

 山々は白一色に染まっている。

 これから住む街も、そうだろう。


 腕時計を見ると、午後の二時半を差している。

 到着まで、一時間弱だ。

 眠いから、もう少し眠ろう――。

 残りのジュースを飲み干し、ヘッドレストに頭を預けて瞼を閉じた。






  ◇

  ◇

  ◇




 

「姫さま、お袖を整えましょう」

 お付きの女房が言い、玉花の媛君は両手を斜めに上げた。

 両脇に立つ女房たちが、その手首を水平に持ち上げ、広い袖の形を整える。


 今日は、月より使者たちが訪れる大切な日だ。

 王のひとり娘とは云え、裳着もぎ前の子供には出番は無い。

 それでも、晴れの装束『汗衫かざみ』に身を包む。

 

 白い単衣ひとえを着て、その上に萌黄色のうちきを五枚重ねる。

 一番下に着たうちきは濃い萌黄色で、上に重ねていくに従って薄くなる。

 五枚のうちきの上に着る打衣うちぎぬは、紫を帯びた紅色。

 その上に薄紫色のあこめを重ね、最後に薄山吹色の汗衫かざみを着る。

 袴は、白い長袴の上に桜色の袴を重ねている。

 腰より長い艶やかな髪は、はらはらと背に垂れている。


「まあ、大変に可愛らしい御姿でいらっしゃる」

 乳母の『二条の少納言』が、姫君の装束の裾を自ら整え、微笑んだ。


「ありがとう、少納言の君」

 姫君は首を傾げて感謝を述べる。

「でも、この装束を仕立ててくれた者たちのおかげだわ。感謝しなくては」

 拝礼するように、頭を少し下げた。

 糸を作り、紡ぎ、染色し、織り、仕立てる。

 多くの職人や女房たちの手を経て、この絢爛な装束が完成するのを教わっている。

 王族の装束の重さは、国の民の重さなのだ――

 ゆえに、民に敬意を払うことを一時も忘れてはならぬ――父王は、そう語る。


 十二歳になる姫君は、この国の春宮とうぐう(皇太女)であり、月の国の公主こうしゅ(帝位継承者)である。

 二つの国の王になるやも知れず、よって父王と王后は、娘のしつけには気を配った。

 

 王后と共に質素な牛車に乗り、町の様子や民の暮らしを見た。

 招いた薬師たちから、薬草の煮出し汁の作り方も教わった。

 尼僧の教えも聴き、写経もする。

 そうした中で――姫君は『癒しの力』を発揮し始めた。

 奇異なことに、傷病人に触れるとその痛みが消えるのである。

 血は止まり、膿んだ傷の下から健康な皮膚が現れるのだ。

 王后は若き頃、故国の『近衛府』で修練した身であり、ごく少数ながら『近衛府』の術士には『癒し』の力を持つ者がいたと云う。


 しかし、その力は幼い姫君が駆使するには、過ぎた力だった。

 よって姫君の力のことは極秘とされ、王と王后、姫君に仕える尼僧と数名の女房、そして王后の兄の月帝つきみかどだけが知っていた。




「日が高くなれば、御使者たちが到着なさいましょう」

 二条の少納言が目で合図すると、控えていた若女房たちが御簾みすを引き上げた。

 温かい風が吹き込み、廊下で待っていたわらわ四人が入って来る。

 四人とも、明るいすみれ色のお揃いの汗衫かざみを着ている。

 そのうちの二人のあこめは白で、二人は薄い桜色だ。

 お付きの者たちの衣装にも手は抜けない。

 主人の衣装よりも目立たず、けれど品よく見せなければならない。


「今日は貝合わせなどをして、ゆるりとお過ごしあそばされませ。今宵は、王さまも王后さまも、正殿での歓迎の祝宴にお出ましなさいます。明日にならなければ、お会い出来ぬでしょう」

「はい、少納言の君」


 姫君はハキハキと返事し、わらわたちは、姫君の周りに座る。

「お姫さま、とても綺麗です」

有明ありあけの君も、みんなも可愛いよ」

「はい。こんな素敵な汗衫かざみは初めて」

「綾織だよね、これ」

「思ったよりも動きやすいね」


 少女たちは装束の見事さに溜息を付きつつも、ふと疑問を口にする。

「ねえ、こんな綺麗な汗衫かざみを着せてもらったけど、あたしたちって御使者様たちとは会わないよね?」

「うん……御使者って男の人ばかりだよね?」

 撫子なでしこの君は、几帳の後ろを伺った。

 几帳の後ろには、女房と尼僧が控えている。

 姫君が呼ばない限りは出て来ないであろうが、こちらの会話は訊いている。



「せっかくだから遊ぼうよ」

 早蕨さわらびの君が、奥に置かれた四つの貝櫃かいびつの蓋を開く。

 大きな二枚貝の内側に絵を描いたものが二十個ずつ入っており、それらを並べて遊ぶのだ。

 描かれた絵は、物語の男君や女君、桜や梅の花など。

 それらを等列に裏に並べ、一枚の貝を引っくり返して対になる貝を当てる。

 当てた者がその貝を取り、最も多くの貝を取った者が勝ちとなる。

 

「じゃあ、並べよう」

 伊与いよの君が貝を取り、他の三人も身振りに気を付けつつ、貝を並べ始めた。

 姫君も袖を押さえ、みんなと一緒に楽しげに貝を並べる。

 一国の姫君ならば、女房達が並べるのを眺めているのが相応であろう。

 しかし、二つの国を背負う運命の下にある玉花ぎょくかの姫君は積極的だった。

 国の危機には、先頭に立たねばならない。

 あどけない姫君は気心の知れたわらわたちと、一時の子供らしい時間を過ごす。


 だが手にした貝の内側に描かれた絵が目に入り、ふと手を止めた。

 描かれていた絵は、御文を眺める男君の絵である。

 男君の脇に置かれた黒く細長い箱は、女君から届いた文箱のようだ。

 文箱には金色の雲が掛かれ、文箱の横には桜の花が添えられている。

 女君が記した恋文を読んでいるのだろう。


 何年も前の出来事が頭を過ぎる。

 月の国の祭りに招待され、牛車から偶然に見えた少年の姿だ。

 今の自分と同じ萌黄色の水干を着た少年――

 その装束から、月の『近衛童子』の剣士見習いだと聞いた。

「そなたらの牛車の護衛を務めたのだから、『近衛府の四将』候補かも知れない」と父王は言った。

 名も知らない少年だったが――思い出す度に、不思議と胸が騒ぐ。

 

「お姫さま…?」

 有明ありあけの君に言われ、貝を落としたことに気付く。

「ごめんね。落としちゃった」

 慌てて取り繕い、貝を拾って列を整える。

 

 

 優しい男君に求婚され、結婚すること。

 それは叶わない夢だ。

 万一、二つの国の王となれば――結婚はしないと決めている。

 花の国の血筋は、父王の兄弟姉妹の子供たちが継げば良い。

 月の国の血筋は、月の王帝御三家の誰かが継げば良い。

 

 王権を巡り、隙を狙う貴族が居ることは理解している。

 王権を巡る争いが起きれば、民にも災いが及ぶ。

 それだけは避けなければならない。


 十二歳の少女は、悲壮な決意を固めていた。

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