間章 偶蝉(うつせみ) ― 存在せざるもの その弐 ―
第57話
夏の盛りだった。
その家族はテーマパーク提携のホテルに二泊し、帰宅途中だった。
メロンパンが名物のサービスエリアで休憩し、車に戻る。
「レモネード、美味しい」
村崎綾音は、水滴の滴るカップに頬を付けた。
微かなレモンの香りと炭酸の弾ける音は心地よく、
「綾、もう一枚撮るね」
母親はスマホを構えた。
村崎綾音は微笑み、左手でVサインを作る。
画像の中の少女は愛らしい。
柔らかく渦巻く髪は生まれつきのものだ。
友人たちからは、若手女優の『三木瞳』に似ていると言われる。
長身では無いが、スタイルも良い。
自慢の愛娘を、父の祐一も母の香織も目を細めて見つめた。
くすみブルーのパフスリーブのトップス、白いクロップドパンツ、白いグルカサンダルのコーデが清楚さを醸し出している。
明日からは日常に戻るけれど、まだ中学校の夏休みは半分以上残っている。
中・高一貫教育の女子高に通学しており、来年には進学試験はあるが、学力に不安は無い。
今のまま勉強を続ければ、すんなりと高校に上がれるだろう。
親子は駐車場に戻り、パールホワイト塗装のセダンの自家用車に乗り込む。
後部座席の右シートにはテーマパークで買ったクマの縫いぐるみを座らせており、母親は助手席に座った。
綾音はレモネードをカップホルダーに置き、隣の縫いぐるみに話し掛ける。
「ひとりにしてゴメンね。さ、家に行こうね」
「シートベルトを締めたかい?」
ドアが閉まったのを確認した父親が訊ねると、車内に――不意に重力が掛かった。
車が急発車したように、背中が座席に押し付けられる。
視界が一瞬真紅に染まり、綾音と母は小さな悲鳴を上げた。
後ろから追突されたと思ったのである。
「うひゃはははははははっほ~♪」
奇声が響いた。
綾音は額を押さえ、咄嗟に右側を見ると――突然、首に腕を回された。
悲鳴を上げ、腰を揺する。
両親が振り返ると――見知らぬ少年が、娘の横に陣取っていた。
圧し掛かるようにして、娘の首に左腕を回し、右手に持った短刀を娘の頬に当てている。
「ののののののの~ん♪ 声を出すと、姫君の頬をプッツンコしちゃうよ~ん」
両親は青ざめ、震え上がった。
降って湧いたように少年は現れた。
ドアを閉めた時には、彼は車内には居なかった。
信じ難い光景に、頭がおかしくなったかと疑ったほどだ。
「……お……か……あ…さ……」
綾音は蒼白な唇を動かす。
自分の身に何が起きているのか理解できない。
正面のルームミラーには、歪んだ微笑みを浮かべた少年と自分が写っている。
「お父さま、この乗り物を動かして欲しいなっ♪ 楽しい散歩がしたい~なっ♪」
「……分かった……」
父親は喉を鳴らし、謎の少年の要求を呑む。
呑まざるを得ない。
大切な娘に、短刀が付き付けられているのだ。
木の柄のある刃物で、いかにも切れ味が良さそうな刃は銀色の光を放っている。
「えーと、次に何すればイイんだっけ?」
縫いぐるみを踏み付けて座る少年は、綾音の横に置いてあるスマホに気付く。
「ああ、そうでしたぁ~ん♪ お父さまもお母さまも、すまほを持ってますよねぇ? 僕にそれをくだちゃいちゃい♪」
「……は……い……」
母親はガタガタ震える手で、二台のスマホを差し出す。
警察に通報する手立ては
娘さえ助かれば、との親心だ。
「きゃはははははははは♪ あ~、何だかノドが乾いちったあああああ♪」
少年はレモネードカップを取り、ストローでグチュクチュ吸い込む。
「おぅあ~、
常軌を逸した眼差しの少年は、しかし綾音の首から腕を離さない。
だが、父親は若干の冷静さを取り戻していた。
かけがえのない愛する家族を守るために、怯えていられない。
ルームミラー越しに、少年の狂態を観察する。
少年は夏の制服姿のようだ。
半袖白ワイシャツに、灰色のズボンにネクタイ。
だが、ネクタイの締め方がおかしい。
襟に通して、固結びをしたように見える。
「……どこに向かえばいい?」
父親は少年に訊ね、カーナビを見る。
しかし、少年は首を真横に傾げる。
「うーん……
「……君の家はどこかな?」
父親は質問しつつ、サービスエリアを出て止むなく山道に入る。
高速に乗れば周囲の車が異常に気付いてくれるかも知れないが、後部座席の窓にはスモークガラスが嵌め込まれいる。
少年と娘の姿は、外からは見えないだろう。
少年はシートベルトを付けていないから、故意に事故を起こして停車する方法もある。
だが、高速では無理だ。
実行するなら、山道の方がいい。
それに落ち着いて話せば、彼も短刀を置いてくれるかも知れない――と淡い希望を持つ。
「私は村崎祐一だ。君の名前を教えてくれないかな?」
「あー、僕の家は『
少年は、カラになったカップを床に投げ捨てた。
胸ポケットから手帳を取り出し、母親の膝に放り、再び短刀を手に取る。
母親は、恐々と手帳を開いた。
それは生徒手帳で、少年の写真も貼られていた。
濃い特徴の無い顔立ちで、人に刃物を向けるような凶悪な人間には見えない。
写真下には、少年の氏名も住所も記載されている。
どういう訳か、母の『村崎七枝』の住所のすぐ傍だ。
横目で見た父親もそれに気付く。
広い日本で、この監禁犯の少年と肉親の住まいが近いのは偶然とは思えない。
この尋常ならぬ態度の少年が、北海道からこの関東まで独りで来れるだろうか?
あのサービスエリアに保護者がいた筈だが――
「
父親は説得を試みる。
娘と妻を車外に出したい。
せめて娘だけでも――と、頻繁にルームミラーを覗く。
娘の綾音は、ショックで放心状態のようだ。
手をだらりと下げ、俯いて動かない。
少年は短刀で綾音の髪を突きながら、眉を八の字に寄せる。
「あれれ? お父さまぁ、
「……車を止めて、ひと休みしよう」
父親は流れ始めた汗を拭い、少年に提案した。
このドライブが始まって30分以上経過している。
実は10分ほど前からエアコンを停止させ、外気だけを入れていた。
7月末の車内は、サウナ状態になりつつある。
熱中症の危険はあるが、少年にもキツい筈だ。
「ふぁ……お父さま、何か暑くないでちゅか~?」
少年は綾音に顔をくっ付け、左手でネクタイを外そうとする。
しかし固結びされたネクタイは解けず、シビレを切らせた少年は猫撫で声で言う。
「
しかし、綾音は苦しそうに荒い息を吐くだけだ。
「お父さま、玉花ちゃんが苦しそうだよぉ」
「車を停めて外に出よう。エアコンが壊れたんだ」
「……ふーん。じゃ、停めよっか」
少年はニヤリと笑った。
次の瞬間、周囲の景色が一変した。
前方を走る車も、舗装された道路も、道路脇の斜面も消えた。
フロントガラスの向こう――下に、緑あふれる森が見える。
母親が悲鳴を上げ、父親は無意味にハンドルを切る。
「きゃはははははははははははは! 俺様は大切な髪を削いで、こっちに来てやってんだよ! てめえらは人質になるんだよ!」
少年は哄笑した。
車は水平に、森に落下していく。
金属がひしゃげる音が鳴り、鳥たちが飛び立った。
木々の隙間に車は落ちた。
かなりの高さからの落下にも関わらず――車体は原型を
窓ガラスは粉々で、ドアは開いた状態でひしゃげていた。
しかし屋根は潰れず、シート周りも大きな破損は免れていた。
炎上もしなかった。
「……あ、暑かったよぉ~」
車の横に座り込む少年は、大汗を拭う。
「やっぱり牛車がいいな~。牛さん、牛さん、牛さん♪」
軽快に歌いながら立ち上がる。
人質どもは送り届けた。
誉められるのは間違いない、とニンマリする。
「きゃははっ♪
彼は車内を覗き込む。
肝心の『蓬莱の尼姫』の転生体の少女は、まだ此処に残している。
彼女を『
凡人の彼女の両親とは別格だ。
「……ん? あれぇ?」
シートに座っていた筈の少女が居ない。
土埃にまみれたクマの縫いぐるみが床に落ちているだけだ。
「あれ? あれ? あれれぇ?」
無人の車内に戸惑い、後ずさりする。
その首元を――短刀が貫いた。
彼は声も出す間も無く、前のめりに倒れる。
ほぼ即死状態だった。
倒れた体は、数回けいれんした後に動かなくなった。
紫色の炎が立ち昇り、それは亡骸を瞬時に焼き尽くし――彼の痕跡は消えた。
「……哀れな
衣服を血で染めた少女は――威厳ある低い声で呟いた。
左腕が奇妙な形に捻じれている。
骨折しているのは明らかだ。
少女は右足を引き摺りながら、助手席に近付く。
前輪の下に、彼の生徒手帳があった。
痛みを堪えて跪き、それを引っ張り出す。
彼の写真が貼られたページは破れていた。
彼の顔の左半分だけが、前輪の下に残されている。
でも――それが発見されたとしても、写真の少年の身元は分からないだろう。
「……中将さま……」
少女は囁き、愛しそうに微笑む。
生徒手帳を胸に押し当て――すると、その姿は忽然と霧散した。
現世の外で、暫し休息しなければならない。
黄泉の
傷付いた体を癒すには、時間が必要だった――。
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