続・第8章 偶 ― むくろ ―

第36話

「顔色が冴えない御様子。夜は眠れていらっしゃいますか?」

 神鞍月かぐらづき殿は手前に腰を下ろし、御正室である玉花の上さまにお声掛けする。


 すると、亜夜の君が答えた。

「奥方さまは、最近はお食事が進まず……お薬湯やくとうなど、お勧め申し上げているのですが……」


「それはいけない。では、山海の珍味や果実など、お取り寄せいたしましょう」

「お心遣い、感謝申し上げます」


 亜夜の君は頭を下げ、言葉を濁し気味に言う。

「恐れながら、奥方さまの御親御さまの件ですが……」

「……遠慮なく申せ」

「奥方さまは、御親御さま方にお会いすると、少しお元気になられます。出来れば、もう少し間を置かずにお逢い出来ればと……」


「承知した。では、母君をお傍に召し上げよう」

 神鞍月かぐらづき殿は、快諾した。

「あの方々も、こちらの暮らしに慣れて来たようだ。玉花さまも、母君とお過ごしになれば、心も慰められましょう」


 しかし玉花の上さまは、無言で神鞍月かぐらづきを見つめたまま。

 絵物語に描かれたように、動かない。

 ただ微笑みを浮かべたまま、ひな人形のように座っていらっしゃる。

 その笑みには、幾許かの暗い影が映っているが――。



「では、亜夜の君。玉花さまのお世話を頼みますよ。私は、客人たちに挨拶をせねばならぬゆえ」


 神鞍月かぐらづき殿は女房たち三人に後を任せ、部屋を出た。

 寝殿を出て廊下を渡り、東の対舎に向かう。

 今宵は、親友の羽月うづき殿が方違かたたがえのために、この邸を訪れているのだ。


 方違かたたがえは、外出の際に悪い方角を避けるために行う。

 占いで目的地が凶の方角と出た場合、その目的に向かう前に別の方角にある場所に泊まり、翌日に改めて目的地に向かうのである。

 羽月うづき殿も、今宵は神鞍月かぐらづき殿の御邸に泊まられるのだ。


「久し振りだな。羽月うづき

 客用に設えた部屋に入ると、羽月うづき殿は変わらぬ笑顔で迎え入れてくれた。

神鞍月かぐらづき、突然押しかけてしまって申し訳ない。奥方さまの御加減が優れないと聞くのに」

「何を言ってるんだ。来てくれて嬉しいよ」


 神鞍月かぐらづき殿は膝立ちで擦り寄り、親友と抱擁を交わす。

 今宵は、親戚の火名月ひなづき殿、三神月みかづき殿も同席している。

「お邪魔しております。我らもお招きいただき、かたじけのうございます」

「いや、人は多い方が楽しい。遠慮せずに楽しんでくれ」

 

 恐縮する二人に笑顔を振りまき、羽月うづき殿の向かいに座る。

 すると、お仕えするわらわ三人が食事と酒を運んで来た。

 置かれた高坏たかつきには、酒杯と肴の皿が並ぶ。

 澄んだ酒、干し肉、焼き蛸、干し梅、びわ、ゆず、柿、栗、かい餅。

 それらに塩や酢などを付けて食べる。


 この東の対舎の表にも池があり、四人は水鏡の月の美しさについて語り合い、酒と食事を楽しんだ。

 春の夜風は心地良く、やがて火名月ひなづき殿は、しょうを奏で始めた。

 深々たる宵闇に、しょうの高らかで済んだ音が静やかに溶け染みる。


「春は花の色が鮮やかなれど、虫の音が無いのが物足りなくも感じます」

 三神月みかづき殿は、扇で拍子を打ちながら庭を見る。


「では、弟たちを呼びましょう。笛など合奏させましょう」

 神鞍月かぐらづき殿は立ち上がり、自ら呼びに向かう所存だ。


「夕刻に、庭の裏手から笑い声が聞こえたよ。蹴鞠けまりたしなんでいたようだ。心許した友との遊びは格別なのだろうな」

「まったく、とっくに元服げんぷくしたというのに……子供じみていて。恥ずかしいよ」

 神鞍月かぐらづき殿は苦笑いしつつ退室し、廊下を一回りして裏に回る。

 設えた客間の反対側の部屋で、弟たちは過ごしているのだ。



 部屋に面した廊下の御簾みすは下ろされていた。

 御簾みすに手を掛けると、何やら泣き声が聞こえる。


 神鞍月かぐらづき殿は御簾みすを持ち上げ、その内側に置かれていた几帳きちょうの薄絹をめくり、室内に入った。


 「あにうえぇ……」

 立て障子の前で泣いている如月きさらぎが、真っ先に目に飛び込んで来る。

 薄橙色の狩衣かりぎぬ姿の彼は三角座りをして、両手で目をこすり、幼児のように号泣していた。

 「あ、あにうえ……が、ぼくので、かってにあそぶんです……」

 

 見ると、神名月かみなづき雨月うげつが、床に置いたお面を前に、はしゃいている。


「うえのくんので、してる……ひどいよ……」

 泣きじゃくる如月きさらぎの足元には黒い小型犬が座っていて、クンクンと鳴いている。


「うっせーな、お前もやれよ。如月きさらぎ

 神名月かみなづきは鼻パーツの穴に指を突っ込み、グルグル回す。

 それを見た雨月うげつは左目パーツをグリグリ握り、神名月かみなづきをたしなめた。

「やめろよ。鼻の穴が広がったら可哀想じゃないか」


 すると如月きさらぎの泣き声は、ますます激しくなる。

 神鞍月かぐらづき殿は眉の端を吊り上げ、怒りを押さえ付けて訊ねた。

「……水葉月みずはづきは、どこだ?」

「うしろでねてる……ううっ……たすけてくれない……」


 覗くと、立て障子の後ろに敷いた畳の上に、水葉月みずはづき狩衣かりぎぬ姿のままで寝そべっていた。

 布製の猫の玩具を抱き、枕元には木彫りの馬の玩具を置いている。

 と気持ち良さそうに寝息を吐き、周りの喧騒など耳に入らぬ様子だ。



「……神名月かみなづき雨月うげつは、笛を持って付いて来い。お客と合奏せよ」


 神鞍月かぐらづき殿は命じた。

 名指しされた二人は顔を見合わせ、舌打ちし、持っていた顔パーツを放り出した。

 如月きさらぎは半泣きで、お面と顔パーツを拾い集める。


 それを嘲笑う神名月かみなづきは、右手を上げて元気よく言った。

「でも僕たち、リコーダーしか吹けませーん」

「……何でもいい。私に恥を掻かせるな」

「はい、神鞍月かぐらづき様」

 

 雨月うげつは真っ当に返答し、部屋の隅の棚からリコーダーを二本取る。

 一本を神名月かみなづきに渡すと、ドレミ音階を奏でてみる。

 神名月かみなづきも、リコーダーの穴を押さえ、息を吹き込むが……プピョッと云う変な音が出た。

 

「あーれぇー?」

 神名月かみなづきは再度試すが、ブピッと云う調子はずれの音しか出ない。

「変だなー? もう一回っ」


 しかし、ここで神鞍月かぐらづき殿の眼に雷鳴が走る。

「このクソガキが! まともなことが出来んのかぁーーーーっ!」


 腰に差していた太刀を抜き、神名月かみなづき狩衣かりぎぬの襟元を掴んでうつ伏せに引き倒し、首の後ろに太刀を突き立てた。

 肉を貫く手ごたえと、床板の割れる音が響く。

 如月きさらぎはお面を抱えて尻で後ずさり、雨月うげつは涼しい顔で音階を奏で続ける。

 立て障子の後ろから、猫の玩具を抱いた水葉月みずはづきが這い出て来た。


 鬼の形相の神鞍月かぐらづき殿は、串刺し状態の神名月かみなづきの背中を何度も何度も踏み付ける。

 神名月かみなづきの潰れた呻き声が上がるが、歯牙にもかけない。

「ふざけやがって! 何でお前たちは、いつもそうなんだ!? 何度作り直しても、まともな奴がいない! この、クソが、クソが、クソがあああーーーっ!」



 ……やがて神鞍月かぐらづき殿の額に汗が滲み出し、ようやく足を止める。

「忌々しい奴らだ! 笛ぐらい、まともに吹きやがれ! 土偶どぐうどもめが!!」


 几帳きちょう御簾みすを乱暴に開き、部屋から出て行く。

 足音が遠ざかるのを待ち――水葉月みずはづきは正座して、猫の玩具に語り掛けた。

「怖かったねー、美名月みなづき。今度は、お馬さんで遊ぼうね」


「かみなづきのせいだよ……あにうえにしかられた……」

 如月きさらぎはグズりながら、お面に顔パーツを嵌め込む。

 黒い小型犬は、しきりにお面のニオイを嗅いでいる。


「うげちゅ……太刀を抜いちぇえ……」

 神名月かみなづきが呻き、雨月うげつはリコーダーを立て障子に投げ付けた。

 立ち上がり、太刀の柄を握って引き抜くと、用済みとばかりに投げ捨てる。

「リコーダーが下手だなあ、神名月かみなづきは」


 雨月うげつは彼を抱き起し……首元の裂け目を覗く。

「おもしれー。穴が開いてるうぅ! ぎゃははははははははははははは!」

 裂け目に指を突っ込み、大声で笑う。

 笑い声を聞いた水葉月みずはづき如月きさらぎも、目を見開いて笑い出した。

「ははははははははははははははは!」

「ひゃははははははははははははは!」


「ひどいよ~、三人とも……ふははははははははははは!」

 神名月かみなづきも笑う。


「きゃははははははははははははは!」

「ふぁははははははははははははは!」

「ははははははははははははははは!」

「ぶぁははははははははははははは!」


 四人はひざ詰めで座り、互いの顔を見て、ひたすら笑い続けた――。

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