第17話
湯を満たした浴槽に入った蓬莱天音は、後頭部を壁に預けて心を落ち着ける。
浴槽は狭く、一人が浸かるだけが精一杯だ。
マンションの室内も劣化が進み、結露で壁紙が剝がれている箇所がある。
日々の生活にも、余裕があるとは言えない。
それでも幸せだ。
自分を孫として扱ってくれる女性と暮らし、和やかな毎日を過ごしている。
時に出現する『悪霊』との闘いは心が痛むが、いつか終わる日が来るだろう……
「天音ちゃん、大丈夫?」
和樹の母の沙々子が、半袖シャツにショートパンツで洗い場に入って来た。
風呂イスに腰かけ、畳んだバスタオルを膝に載せて、心配そうに見守る。
「ごめんなさいね。私は『三途の川』の水が混じったお湯に
「いいんです、おばさま。そこに居てくださるだけで、安心できます」
蓬莱天音は微笑み、そして天を仰ぐ。
「『三途の川』の水を呼びます……私に触らないよう、気を付けてください」
瞼を閉じ、胎児のイメージを描く。
温かな羊水に身を委ね、心を委ねる。
寄せる波のように、異界を流れる水が浴槽に流れ込む。
魂は水に抱かれ、果て無い海の底に引き込まれ……
「……違う……!」
蓬莱天音の声が浴室に響いた。
両手で湯をすくい、感触を確かめる。
「……おかしい……私だけ、行けない!」
「天音ちゃん、どうしたの?」
「おばさま……和樹くんも上野くんも一戸くんも潜行したようですけれど、私だけが『そこ』に行けないんです。いえ、ミゾレも行っていないかも……」
「男の子たちの霊体だけが、その場所に移動したってこと?」
「はい……そこは、『
蓬莱天音は浴槽の底を見つめ、彼らの気配を探った。
人の眼では捉えられない『異界』を、彼女の瞳は探る。
彼らの魂が危機に陥っている感じはしない。
だが、見失うなど在ってはならない。
彼らは、かけがえの無い大切な仲間だ。
「……あれ……?」
和樹は声を上げ、立ち止まった。
夕焼けの空は、燃えさかる
「……うまっ」
上野がシガレットチョコの下部を摘まみ、中身を絞り出して口に入れる。
「
歩みを止めた自分に、一戸が声を掛ける。
和樹は、慌てて二人を追いかけた。
二人は、肩を並べて話をしている。
「市川は、大学受験するんだろ?」
「ああ。お前は家業を継ぐんだよな」
「しがない電器屋だけどな。兄貴と一緒にやってくつもりだ」
「幼稚園から一緒だったのに、高校を卒業したら、それぞれの道か……」
一戸は振り向いた。
「
「うん……まずは、父さんの知り合いの洋食屋さんで修行するよ。でも、高校に入学したばかりなのに、もう卒業後の話なんて……
……言ってから、強烈な違和感に気付く。
自分の名字は『
『
そして彼らは……
和樹は駆け出し、二人の前に立つ。
学生服の胸に、名札が付いている。
『上山』と『市川』……そして、自分の名札は『
……そんな筈は無い。
三人とも、名字が違っている。
何より、三人とも学生服を着ている。
一戸は学生帽を被っている。
手には革製のカバンを持って……
見回すと、周囲の風景がまるで違っていた。
舗装された道は狭く、車二台がすれ違うのは難しそうだ。
歩道との車道の境目も無く、自分たちのすぐ左にはブロック塀。
道を挟んだ向こうは、生垣が続いている。
そして向かっている先には、団地が見える。
あそこに、自分たちの家がある……。
その時、突然トラックが和樹の背後に出現した。
タイヤの音も、ブレーキの音もしなかった。
一戸は、二人を押し出そうとした……
「……あれ……?」
和樹は声を上げ、立ち止まる。
空には薄雲が掛かっており、隙間から薄青い空が見える。
「ここって……どこだ? 『
脇に立っていた上野は、顔を撫でつつ言った。
自分の顔を取り戻すために、みんなで『幽体離脱』を試みた筈だ。
だが頭上に夜空は無く、巨大な月も見えない。
以前の潜行で冬の海に出た時も在ったが、あの時は戦闘用の衣装だった。
一戸も辺りを見回し、自分たちの身なりに首をひねる。
「おかしい。なぜ、学生服を着てるんだ…?」
そして胸ポケットの膨らみに気付き、入っていた生徒手帳を取り出した。
「……これは……?」
呆然と生徒手帳をめくる一戸を見て、二人も胸ポケットの手帳を取り出す。
中を開き見た和樹は驚愕した。
手帳の主の名は『
『
上野も自分の生年月日が記されたページを見つけ、青い顔で呟いた。
「オレの名前は『上山昌弘』で……昭和30年って、西暦何年だ…?」
「……俺の祖父が生まれたのが、昭和30年だ……今年で65歳になる」
一戸はザッと計算する。
「65歳マイナス15歳で、50だから……今は西暦で1970年か…?」
「でも、蓬莱さんもフランチェスカも居ないよね……」
和樹の声の震えは、次第に大きくなる。
「僕たちの名前も違うし……それに住所も……」
「……二人とも、東京に親戚が居るか?」
「居ねえよ……」
上野が答えた時、背後で黒い乗用車が止まった。
降りて来た黒いクラッチバッグを持った黒ワンピース姿の女性が、三人の脇を通り過ぎる。
その容貌を見た三人は、息を呑む。
先輩の『方丈日那女』に、非常に良く似ていたからだ。
齢は20代後半に見えるが、10年後の彼女を想像すれば、ピタリと符合する顔だ。
三人は、思わず後を付ける。
この不可解な世界で、彼女が一筋の糸に思えたからだ。
しかし彼女は気付かない素振りで、ゆっくり前進する。
いや、実際に気付いていないのかも知れない。
ひょっとしたら、自分たちは『見えていない存在』なのかと不安が
三人は女性の後を追い、団地の敷地に入った。
舗装された道沿いには、いくつもの花壇が設置されている。
だが周辺は、制服姿の学生や黒服の大人たちで溢れていた。
テレビの中継車まで停まっている。
和樹は、キョロキョロと辺りを見渡す。
方丈日那女に似た女性を、いつしか見失っていた。
傍に佇むセーラー服の女生徒たち五人が、号泣している。
「ひどいよ……こんなのって……」
「行こう……ちゃんと見送ってあげよう……」
「行けないよ……足、動かない……」
女生徒のひとりが倒れ込み、悲鳴が上がった。
気付いた黒服の女性たちが女生徒の肩を抱きかかえ、近くのテントに連れて行く。
「……これ……僕たちの……葬式だよ……」
和樹は思い出す。
突然現れたトラックが、真正面から突っ込んで来た。
一戸が自分たちを押し出そうとしたが、間に合う筈も無かった。
間に合ったとしても、似た体格の同級生二人を押し出すなど無理だ。
「僕たちの……前世の僕たちの葬式だよ……間違いない……。見たんだ……僕たち、トラックに跳ねられて死んだんだ……」
「……嘘だろ……」
嘆く和樹の声に、上野は駆け出した。
一戸も後を追い、和樹もフラフラと走る。
団地の集会所入り口に掲げられた三本の名木には、三人の名が書かれている。
花輪も並んでいる。
間違いなく、三人の告別式が行われている。
それを見た上野は、膝が崩れて座り込んだ。
一戸は、呆然と立ち尽くす。
しかし傍を通る誰もが、三人には気付かない。
和樹は、恐々と集会所の中を覗き込んだ。
白い花で囲まれた大きな祭壇には、遺影が三つ並んでいる。
読経がしめやかに響く中、祭壇手前の献花台の周りには、献花の順番を待つ人々が列をなしていた。
遺族と思われる人々は、その脇のパイプ椅子に座り、黙礼を繰り返している。
「……ここを出るぞ……」
一戸がささやいた。
「え?」
和樹は思わず抗議の声を上げ、遺族席を見る。
あの中の誰かが、自分の両親の筈だ。
「ナシロ……あそこに居るのは、俺たちの家族じゃない……!」
一戸は、毅然と事実を言い放つ。
沈痛な面持ちの上野も……
「……そうしよう……行くぞ、ナシロ……」
「……でも……」
「……行こう……居て……どうなるってんだよ……」
「……そうだね……」
……和樹は、消え入る声で同意をした。
彼らの言う通りだ。
あの家族たちが愛しているのは、自分たちでは無い。
前世の家族の顔を確認することに、何の意義も無い。
ましてや、自分たちの姿は彼らには視えない……。
言いようのない感情に揺さぶられ、後ろ髪を引かれ三人は集会所を離れる。
和樹は何度も振り返り、目をこすった。
名前も分からない、顔もよく見えなかった家族でも……傍に近寄りたかった……。
そして団地を後にした三人は、木に囲まれた公園を見つけ、ベンチに座った。
砂場やジャングルジムでは、小学生たちが楽しそうに遊んでいる。
野良猫の親子が、足元を通る。
そうした無邪気な姿に、僅かに心が慰められる。
けれど、気持ちの整理は付かない。
自分たちは、確かに21世紀を生きている。
だが、その50年前に生きていた自分たちは、事故で死んだ。
今の自分たちと同じ年齢の、同じ時期に……
「……なあ……オレたちってさ、『
「うん……たぶん……」
上野の問いに、和樹は低い声で答える。
「それってさ……オレたちは
「……残念だけど……」
「……やっぱ、そうなんだよな」
上野は苦笑いし、カバンからシガレットチョコの箱を取り出し、開いた。
「おい……チョコの本数が減ってねえよ。便利だねえ」
そして人差し指と中指の間にチョコを挟み、口元に近付け、遠くを見た。
「なあ……オレたちってさ、大人になったことってあるのかな……?」
沈黙していた一戸は固く目を閉じ、顔を伏せた。
和樹も、両手で口元を覆った。
溢れる涙が止まらない。
転生の果てにある現実は残酷だった。
自分たちは『少年』を繰り返している。
敵に勝たない限り、『大人』にはなれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます