第5章 巡廻 ― Tokyo 1970 Ⅱ ―
第16話
教頭先生の職務復帰は、黄金週間が開けてからと決まった。
搬送された半日後には意識が戻り、精密検査の結果も異常なし。
ただ、倒れた日の記憶が不明瞭だ。
学校に到着したまでは覚えているが、校舎に入った後の記憶が無く、ステージ前で倒れていたことも全く覚えていないとのこと。
アルコールや薬の反応も無く、事件性も消えたことから、過労が原因と診断され、表向きは丸く収まった。
「さぁーて! 新しい所員を歓迎するぞ!」
教頭救急搬送事件から三日後。
ようやく『
黒板には、オリエンテーション時に所員が掲げていた横断幕が貼られ、段ボール製のコックピット三台が並べられている。
一戸と上野はそれぞれの部活に出ており、久住さんと蓬莱さんが二人の代理で出席している。
茶華道部も今日は休みで、蓬莱さんが「方丈先輩が気に掛かる」と言うので、久住さんも付き合ってくれたのだ。
ふたりとも、一戸と上野から借りた白衣を
「新入所員は25名。そのうち海外支部への派遣で欠席が6名。だが、総員で30名! 嬉しいぞ! 感動したッ……ううっ……」
教壇に立つ方丈日那女は、眼前に座る白衣姿の新入生にご満悦だ。
そして大判の白ハンカチを出し、眼鏡をずらして目に押し当てる。
教壇の上には、先生の私物のリーナちゃん人形が立たせてある。
セーラー服を着せ、ちゃんと白衣も着せているという芸の細かさだ。
「ううっ……本日は更に、スペシャルアドバイザーのパソコン部の部長も駆け付けてくれた!」
方丈日那女は先生の反対側に座る生徒を紹介したが、彼女は憮然と呟いた。
「……無理やり、引っ張ってきたくせに。部活オリエンテーションの時も、『正義に目覚めたパソコン部』とか勝手なこと言ってさぁ……」
「そう言うな、吉崎くん。我が研究所の所員が30名に達したら、協力すると約束したのは誰だったかな~?」
「……くっそー! 全く、モノ好きだらけだな、今年の新入生は!」
『吉崎
(はぁ~……この人も、ほっちゃれ先輩と似てる……)
成り行きで最前列に座った和樹は、横に座る四人を見た。
オリエンテーションに出ていた先輩たちで、三年生の『喜多野』さん。
あとの三人は二年生で『鶴内』さん、『山下』さん、『笹崗』さん。
そして後ろをチラリと見ると、同じクラスの『中里
昼食の時に、一戸が声を掛けた内気な生徒だ。
「さて、諸君。まずは……」
方丈日那女が声を張り上げた時、教室の後ろドアが開いた。
全員がそっちを見て……絶句した。
和樹は仰天して立ち上がる。
方丈日那女も眼鏡のツルに手を掛け、瞬きを繰り返した。
「……スケキヨくん?」
「はい……1組の上野です……」
スケキヨマスクを被った上野はリュックを背負っており、カクカク歩きで手近な椅子に座り込んだ。
ドン引き顔の
「……上野くん…なの?」
「はい……新入生テストで、国語が35点だった上野です…」
「分かりました、分かりました」
「……すみません、彼は体調が悪いんですっ」
和樹は、上擦った声を張り上げる。
「これから、彼を家に送って行きます。久住さんと蓬莱さんも家が近いので、一緒に帰りますっ」
……どう考えても、緊急事態である。
スクールバッグを肩に掛け、上野の手を取って大股で教室を出た。
久住さんと蓬莱さんもバッグを手にして、慌てて後を追う。
残された者たちは、声も無く見送るばかりだ。
「……ははは……今年は楽しくなりそうだな!」
方丈日那女は、腰に両手を当てて笑ってみせた。
「どうしたんだよ!?」
三人は、上野を囲むようにして廊下を歩く。
「……オレの顔が消えた…」
上野は、小刻みに震え声で
そしてマスクの顎の部分を
「部室に行く前に、違和感を感じてトイレの鏡を見たら……顔が消えてた……」
「のっぺらぼうを、他の誰かに見られたか?」
「分からん……見られても、イタズラと思われたかも……」
「醤油さしは持ってる?」
久住さんは、ブレザーのポケットから予備の醤油さしを差し出した。
「持ってるけど……効果が無くなったみたいだ……もう駄目だ……」
普段は陽気な上野の声は別人のように覇気が無く、足取りもフラ付いている。
「上野、しっかりしろ。とにかく、僕の家に行こう。校門前でタクシーを拾う」
「……もう、家に帰れねえよ……たひけて……」
「大丈夫だよ。みんなで考えよう」
上野を励ましつつ、四人はどうにか校門を出た。
幸いにも風紀担当教師の目には留まらず、スケキヨマスク姿の誰かさんを見た生徒たちも、くだらない悪ふざけだと思ったぐらいだろう。
四人は通り掛かったタクシーを捕まえ、久住さんは助手席に、他の三人は後部座席に座った。
「演劇部の余興かい? そのマスク取れないの?」
年配の運転手は、後ろをチラ見しながら聞いてくる。
「はい。脱ごうとすると、頬が引っ張られて痛いらしくて。私の祖母が看護師なので、ハサミで切って貰います」
蓬莱さんが機転を利かせて答えると、運転手は頷いた。
「そりゃ大変だねえ。そのマスクの映画を子供の頃に見たよ。ありゃ、怖かった」
そんな話を聞いているうちに、和樹のマンション前に到着した。
和樹は料金を払い、自宅に駆け込む。
幸い、エントランスの管理人室には誰も居らず、住人にも会わなかった。
ショックでフラつく上野をどうにか家に入れ、ソファーに座らせると、関係諸氏に連絡を入れる。
一時間後には、部活を途中退席した一戸がやって来た。
和樹のベッドに寝込むのっぺらぼうの上野を見て、険しい顔で腕組みをする。
「……『三途の川エキス』効果が全く無くなった、と言うことか?」
「そうとしか考えられない……」
和樹も頭を抱えた。
上野の頭の周りには、醤油さしが20個ほど転がっているが、のっぺらぼう状態が続いたままだ。
その醤油さしを、久住さんが連れて来たミゾレが前足で
「これも『悪霊』の仕業なの?」
久住さんは、眉をひそめて和樹を見る。
その時、スマホの電話の着信音が鳴った。
和樹は素早くスマホを取る。
「ああ、岸松おじさん。お久し振りです」
『大変なことになってるようだな。沙々子はどうしてる?』
「定時になったら、夕食を買って帰ると。今夜は……『
『宇野くんは?』
「一戸の家に行って、そちらで彼の見守りをしてくれます。蓬莱さんのお
『分かった。これから、そちらに向かう。今夜は、上野くんに泊まって貰いなさい』
「はい!」
和樹は力強く返答する。
闘うのは自分たちだが、大人たちが見守ってくれる。
周りに誰かが居てくれる。
支えてくれる人が居るのは、本当に心強い。
そして午後の九時半前。
準備は整った。
『土曜日に国語の追試を受けるから、ナシロの家に泊まって勉強することにした』と上野は自宅に電話を入れ、帰宅した沙々子も上野の母に話を繋いだ。
上野の母は恐縮して、何度も沙々子に礼を言った。
とにかく今夜中に、他者に上野の顔が見えるようにしなければならない。
和樹は、のっぺらぼうの上野と一緒に服を脱ぎながらも考え込む。
今回は『悪霊』が姿を見せた訳では無い。
何故か『三途の川エキス』の効力がパタリと絶たれたのだ。
ゆえに『
たが、出来ることをするだけだ。
「行くぞ、上野……」
和樹は、浴槽の真向かいに座る上野を見つめた。
上野は、無言で頷く。
和樹は上野の手を取った。
普段は強気な上野が、今回はかつて無いほど不安がっているのが察せられたから。
ミゾレも久住さんの部屋で待機し、一戸と
「……来た!」
和樹は、湯の感触が変わったのを察知する。
蓬莱さんが、自宅の浴槽に『三途の川』の水を引き込んだようだ。
その水が、こちらの浴槽にも流れ込む。
花の芳香が立ち昇り、頭の中に草原が浮かぶ。
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