第10話 法門

『河を舟で渡るには渡し賃がいる。棺に入れる六文銭、今ではそれを描いた紙だ。だが……生前にその取引が済んでいたなら、話は早い。対価以上を要求する事も可能だろう。例え、戻る体がなかったとしても、『依代』に与えればいい。だがそれは……復活の為の供物として、だ』


『ここには……賽の河原がありますから、そこを使ってお迎えにあがりましょう』


 それは……神仏との境界……。


 神祇伯の目前で、大きく炎が膨らんだ。


「何してんだよっ……! 動けよ! 親父っ……! 膨らみ続けるだけの欲に、全てを閉ざさせるつもりか? 呪殺を望んだ者同士が、その願いを叶える為に……その結果が、あんたの境地を狂わせたんだろーがっ……!」

 回向は、そう叫びながら、檜扇を大きく振り翳した。

 目前に広がった火の玉から発せられる炎に対抗するように、振られた檜扇から炎が巻き起こる。

 互いに発せられた炎が、混ざり合う事なく反発し、激しく押し合う。

 あまりの炎の激しさに、蓮と僕も立ち上がった。


 羽矢さんの言葉が脳裏を過ぎる。


『最強の法をもって滅しなければ、滅する前に怨みを買うぞ』

 怨み……。

 ……最強の法……滅する……。

 それは当然、調伏するという事だ。


「回向っ……!」

 蓮の叫ぶ声に、僕はハッとする。

 大きく膨らんだ炎は、隙間などなく、羽矢さんと住職の姿を見せる事はなかった。

 そればかりか、火の玉から発せられた炎の勢いが強まり、回向を飲み込むようにも襲い掛かる。

「回向っ……! 念がお前に集中したぞ!」

 蓮の声に回向が答える。

「言われなくても分かっている! 初めからそのつもりだ……!」

 炎を押さえ付けようと振られる檜扇。それを回向が操る事で、回向が的になったのだろう。

 ……的……。

「蓮……的になったって……事ですよね……」

「ああ。霊山で羽矢が矢所になったのと同じようにな」

「矢所……それでは……」

 僕は、檜扇を振り続ける回向を見つめた。



光明徧照こうみょうへんじょう 十方世界じっぽうせかい 念仏衆生ねんぶつしゅじょう 摂取不捨せっしゅふしゃ

 炎の向こう側から、羽矢さんの声が聞こえてくると、回向が声を返す。

説一切法清浄句門せいっせいほうせいせいくもん 所謂そい

 そして……続けられた言葉は、秘められた本当の意味を伝えるのだろう。


設害三界一切有情せっかいさんかいいっせいゆうせい不堕悪趣ふだあくしゅ

 檜扇が風を巻き起こし、放たれた炎を煽る。

 炎を煽る風が、檜扇から放たれた炎を大きく膨らませた。

 回向は、そこで言葉を止めず、強い口調でこう口にした。


為調伏故いちょうふっこ


 当主様に答えた回向の言葉が、今ここで聞こえるようだった。


『生きとし生けるもの全てを害したとしても、害した事が『因』であり、『我』ではなく、その因によって全ての界を流転する。因を調伏して滅せれば、地獄に落ちる事はない……そうお答えします』



 更に続く回向が口にする言葉に、蓮はクスリと笑みを漏らした。

『抜粋して使ってんじゃねえ。手を抜いてんのか? やるなら本気でやれよ』


復説一切調伏智蔵般若理趣ふっせいっせいちょうふくちそうはんじゃりしゅ 所謂そい 一切有情いっせいゆうせい……」


 回向の口から流れる言葉に、神祇伯は驚いた様子でゆっくりと立ち上がった。

 回向がそこまで深く知っているとは思わなかったのだろう。

 それ程までに理解しているという事に、僕も驚いていた。

 だが、蓮も羽矢さんも、回向がそれ程までに力を得ていると分かっていた。


一切有情調伏故忿怒調伏いっせいゆうせいちょうふっこふんどちょうふく


「ようやく……」

 蓮は、回向を見つめながら呟いた。


「門が開く」

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