第9話 帰命

 火の玉の火花が小さくもパチパチと音を放つ中、住職の言葉が静かに流れていく。


「中尊を閻王に……その壇を目に浮かべ、己自身と一体とする……。瑜伽。それが成せた事は、お前は力を失った訳ではないと分かるだろう。無論、その力を捨てた訳でもなければ、捨てさせられた訳でもない。閻王は、全てを知っている。それは無論、この世で起こった事の全てをだ」

「なればこそ、これが果報だと言うか……? 奎迦。お前のように冥府との繋がりを持てる者も、全てを知る事が出来るだろう。だが、この世では、人の思惑など、防ぎようもなく、争いが起きる。欲界とはよく言ったものだ」

 神祇伯は、そう答えると、苦笑した。

「ならば……」

 住職の低く、落ち着いた声が、ゆっくりと流れた。


「この欲を、断ち切ってみればいいのでは?」


 住職の落ち着きのある声とは真逆に、火の玉が弾けさせる火の粉が激しくも飛び散り始めた。

 飛び散る火が勢いを増し、羽矢さんと住職の姿まで隠してしまった。

 神祇伯の間近で上がる炎が、飲み込むように襲ってくる。

 微動だにせず、炎に巻かれそうになる神祇伯に、回向が立ち上がった。

「何してんだよっ……! 動けよ! 親父っ……! 膨らみ続けるだけの欲に、全てを閉ざさせるつもりか? 呪殺を望んだ者同士が、その願いを叶える為に……その結果が、あんたの境地を狂わせたんだろーがっ……!」

 回向の声にも神祇伯は、動きを見せない。まるで、襲い掛かってくる炎に自ら飲み込まれるように、じっと座ったままだ。


南麼三曼多伐折囉赧なうまくさんまんだばぎらだん 戦拏摩訶路灑吒せんだまかろしゃだ 薩破吒也そばたや 吽怛羅迦うむたらきゃ 桿漫かんまん

 回向は、真言を唱えると、檜扇を炎へと向け、大きく振った。


 ……この真言は慈救呪じくじゅだ。

 霊山で羽矢さんが唱えていた真言、慈救呪と同じ……。不動明王の慈救呪だ。

 真言には、一字咒いちじしゅといった短いものと火界咒かかいしゅといった長いものがあり、その中間にあるのが慈救呪だ。

 それは、慈悲を持ち、生きとし生けるもの全てを救う……全てを救うという意が込められたもの。


 僕の目線が、炎の向こう側にいる羽矢さんの方へと向いた。

 炎が揺れ動く隙間から、羽矢さんの姿が時折、見える。

 回向の方へと視線を向けている羽矢さんは、クスリと静かに笑みを漏らしていた。

 ……羽矢さん……。


 揺れ動く炎。その度に羽矢さんの姿が見え隠れする。羽矢さんの方へと目線を向け続ける僕。その目線に気づいたのだろう、羽矢さんと僕の目線が重なった瞬間、羽矢さんは、クスリと笑みを漏らし、そっと口元に指を立てた。

 ……秘密……。


 あ……。

 あの時……羽矢さんが慈救呪を唱えた時の高宮との会話……。


『お見事ですね……藤兼さん。既に正体を見抜いていたという事ですか』

『俺が……お前を追う為だけにここに来たと思うか?』

『私も……あなた方をここに来て頂く為だけに来たと思っていますか?』

『俺は、荒魂を見せる化身の正体を、本来の境地に戻す為に来た。お前はそうだな……』


 僕は、ゆっくりと高宮を振り向いた。

 高宮の目線は、回向へと真っ直ぐに向いている。

 回向を見つめ続ける高宮は、その姿を捉えながら小さく二度、頷いた。


『生死即涅槃はくうを説く。生死がなければ涅槃はない。涅槃がなければ生死もないという事だ』


 高宮は、檜扇を振る回向を見守るように見つめながら、静かに呟いた。


「私は……私の命一つで済むのなら……失う事に恐れなど何もありませんでした」

 高宮の言葉に、蓮も高宮へと目線を向けた。

 僕たちの目線に気づきながら、高宮は言葉を続ける。

「その願いが叶うなら死んでもいいと思う事に……報われるものなどないと知らされるのは……」

 少し間を置いて流れたその言葉が。


「遺された者なのでしょうね……」


 胸を締め付けた。

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