第7話 兼学

「どうぞ……お顔をお上げ下さい……」

 僕たちは、ゆっくりと顔を上げ始める。

 閻王が下界に来るとするならば、その姿は……。


 ……地蔵菩薩。


 そう思いが浮かんだが、その後に住職はこう続けた。

「ですが……中央の尊格を直視する目線を向けてはなりません」

 住職の落ち着いた静かな声に、道を開けるように左右に分かれた僕たちは、中央へ目線を置く事を避けて顔を上げた。

 その場に現した姿がどのような姿なのか、まだこの目に捉える事は出来なかったが、いずれ分かるだろう。


 ……ただ……。

 僕は、前にいる神祇伯の背中を見つめた。


『自らの手で……その目を刳り貫いたのだから』

 気が……重く感じた。

 そうせざるを得ない状況に追い込まれていた事は、身を切るに等しい事だ。

 魂を抜けば祟られる事もない……そんな考えに行き着いても、その考えに至った者、自らが行う事はなく、廃仏が行われた僧侶たちに行わせた。

 ……それが罪だというのは、あまりにも酷な事だ。だが、それを罪だと背負うのは、その目を刳り貫いた当人だけが抱えている思いであるだろう。


「瑜伽……こちらを前に坐して下さい」

「……承知した」

 神祇伯が壇の前へと動く。


 壇を間に、右に羽矢さん、左に住職が立っている。羽矢さんも住職も、共に黒衣のままだ。

 まるで……審理が始まるかのような緊迫感さえ与える。

 その裁きを補佐するかのようだ。

 そう思えるのも、羽矢さんと住職の前で、火の玉が留まっていたからだ。

 そして、僕たちとの間に火の玉がある事で、その境界が分けられているようにも感じた。

 ……これが……冥府の番人、死神の真の姿……そう思わせる事に息を飲んだ。

 羽矢さんも住職も、普段の表情とはまるで違う。

 何を思っているのかなど、誰にも悟らせる事のない無の表情は、その場の情にも左右される事などないだろう。


 しんと静まり返ったこの空間が緊張感を増していたが、バサリと翻る黒衣の音が、始まりの合図を告げた。

 羽矢さんと住職は、互いに向かい合うように坐すと、同時に地に手を付き、深く頭を下げる。

 羽矢さんと住職が頭を下げた事で、僕たちも倣って頭を下げた。

 そして、頭を下げた体勢のままで、住職の声が流れ始めた。


「界一切の諸天諸仏に礼拝らいはいし、奉る」

 ……諸天諸仏。


 パラパラと紙を捲るような音が聞こえた。

 この音……。

 鬼籍を捲る音が直ぐに思い起こされ、重なった。

 確かに住職は、壇の中央に坐す尊格を閻王にと、神祇伯に伝えた。そして神祇伯は、閻王の真言を唱えていたが……。

 本当に……閻王がそのままの姿で下界に……。


「……瑜伽。これを」

 顔を上げ、住職へと目線を向ける。住職は、鬼籍を手にしていた。

 神祇伯は、住職から鬼籍を手に取り、見始めた。

「……そうか……それで気がついたのか、奎迦」

「そこに記されるべき名はなく、記されるべきではない名があった……それは直ぐに察しがつく事」

 記されるべき名はなく、記されるべきではない名があった……。

「……成程。お前が全てを知っているのも、当然という訳だな……そしてそれは受け継がれている……か」

 神祇伯の言葉に、羽矢さんが答える。

「仏の道といっても方便は様々……その全てを藤兼家は知っている。元々は兼学寺院だったからな」

「……そうだったな」

 神祇伯は、そう呟いて深い溜息をつくと、鬼籍を開いたままで住職に返した。住職は、鬼籍を静かに閉じ、話を始めた。


「死して鬼籍に名が記され、記されたその名が直ぐに消える……。裁きの処へと導く事も出来ず、行き先のない魂は神号を与えて神とする……それもそのはずです。それでは……中央の尊格に礼拝を」


 僕たちは、中央の尊格へと目線を向けた。


 ……これは……。


 住職は、静かな口調でこう続けた。


「裁くお方がいなければ、裁く事が出来ないのですから」

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