第36話 色法

 神祇伯を真っ直ぐに見る羽矢さん。その目から逸らす事なく受け止める神祇伯だったが、手にした檜扇を下ろす事はなかった。


 羽矢さんの手には、住職から渡された魂が光を揺らめかせていた。

 神祇伯の手が大きく振られ、檜扇が風を切る。

 灯籠の明かりがバチバチと火花を散らしたが、僕たちに影響を与える事はなかった。

 真っ赤に色を見せていた灯籠の明かりが、色を落ち着かせて、辺りを仄かに照らしていた。

 神祇伯の足が一歩、歩を踏むと、回向が羽矢さんを庇うようにも前に動く。その動きにちらりと目を動かす神祇伯は、直ぐに羽矢さんへと目線を戻し、それ以上、歩を進めはしなかった。


「……見えるのか」

 神祇伯の言葉に、羽矢さんは答える。

「界を説いたからな……つまりはくうだ」

 羽矢さんの言葉に、神祇伯は不快に顔を歪めた。

 羽矢さんは、笑みを見せながら、言葉を続ける。

「全ての事物は縁起を説く。因縁によって生起するならば、一切は他に依りて存在する……」

 全ては……他に依りて……か。

 羽矢さんの視覚が戻った事に僕はホッとしたが、これは呪いを解いた訳ではない事は分かっていた。


 羽矢さんの目線が回向にちらりと動くと、回向が口を開いた。

「一切の事物には実体がない。だが……実体がないという事が一切の事物であるという事でもある。そうだよな?」

「『我が器を処とし……境界を定める』か。回向……お前がその存在を示したという訳か」

 神祇伯は、ふっと鼻で笑うと、回向の言葉の後をそう続けた。


 ……呪いが掛からない状態に変えたんだ。

 実体がないものに呪いは掛からない。そして、呪いが掛からないという事が全ての事物となる。

 だから僕もあの時……。

 羽矢さんと回向へと目線を向けたまま、思い返している僕を蓮が振り向き、クスリと笑った。

 僕の手に重ねられた蓮の手が、僕にその手の感覚を強く伝えた。


「…… 一人で……」

 回向の口調が変わった。

 言葉を詰まらせる回向。震える声が、苦しさを伝えてくる。

 ……回向……。

 錫杖を握る手を握り締めて、言いづらいそうにも俯く回向だったが、苦しさを声と共に吐き出すように言葉を続けた。


「一人で……何やってんだよ……たった一人で……抗うなど……無理に決まってんだろ」


 神祇伯は、表情を変える事はなかったが、回向の心情が伝わったのだろう、向けていた檜扇をそっと下ろした。

「……奎迦」

 住職へと向けた目線に、神祇伯の意図を読み取る住職は、頷きを見せる。

「……承知した」

 住職は、神祇伯と本殿へと向かった。

 僕たちも住職と共に本殿へと歩を進める。


 布に包まれたままのその姿は、光を放ち続けている。

 住職は、その光を前に座すと、経を唱え始めた。

 僕たちは、住職の背後に座し、その様子を見守る。


 ……住職でなければ……開扉出来ない。

 その意味が露わになる。

 その姿を隠さねばならない理由を含めて……。

 住職が経を唱え続ける中、少しずつその姿が捉えられる。


 埋められているものだと思っていた。

 光さえも届かない深く暗い場所で。


 ……僕は……。

 その姿がそこにあった事に、無量の思いを抱えた。



『神木を過ぎて門を抜けると神社があった。その神社には、仏の像が置かれていたんだ』

『その神社に置かれていた仏の像がなんだったか……覚えていますか』

『ああ、覚えている。阿弥陀如来だ』


 痛ましくも傷だらけの……阿弥陀如来の像。


『界一切の諸仏に礼拝らいはいし奉る。例え身が苦の中にあろうとも、本願の元に進む道に悔いはない』

 ……羽矢さん……。

 羽矢さんへと目線を向ける僕に気づく羽矢さんは、笑みを見せて頷いた。


 もうそれ以上、傷が深くならないように守られていたんだと……僕たちはその真意に辿り着いた。

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