如月の桜吹雪
白神天稀
如月の桜吹雪
また一年が過ぎ去った。去年の雪景色が、俺の脳裏でまだ鮮明に残っている間に。
二月の下旬へ差し掛かり、春の足音は存外早く歩み寄っていた。きっと卒業式では満開の桜が拝めることだろう。
志望大学に合格した先輩達はすっかり浮かれ、皆が卒業や新生活についての話に花を咲かせている。一方で俺はと言えば、何も決めていない。来年の今頃には進路も決まっているのだろうが、現時点では大学のことなんて一つも考えていない。
目の前のことに手一杯で、そんな先の話は考える気にもなれない。
鞄も何も持たないまま、制服一つを纏って公園に向かった。街中の小さな区画内に作られた寂れた公園。遊具もない、ただ枯れた桜並木があるだけの殺風景な場所。中学時代からほとんど景色を変えない秘密のサボり場だ。
ここにわざわざ通うのは、当然周りの大人にバレないというのはある。だがそれよりも俺は、公園のベンチで必ず待っているその人と他愛ない会話を交わすためだけに足を運んでいる。
「今日も来たねぇ。これで連続通勤17日目だあ」
その麗人は彫刻のようだった顔を綻ばせ、代わりに悪戯な笑みを浮かべて手招きする。後ろ髪を風で靡かせる華奢な体付きの彼女は、無邪気に頭を揺らして俺を誘う。遊ぶように、ふざけるように。
そんな彼女の態度には敢えて反応を返さず、俺は空いていたベンチの片側に腰を掛けた。横に並んで、彼女の顔ではなく木の幹だけをぼうっと眺めるようにして。
「こっちは来週に期末テストがあるんだ。現実逃避もしたくなるさ」
「不良生徒じゃないか! 全くこれだから今時の若い子ったら、勉強は真面目にやらないと損するよぉ」
余計なお世話だ、と言葉を吐き捨てると彼女はケラケラ笑っていた。そんな不良生徒を昼間から誑かすあんたの方こそよっぽど不良だ。
中身のない与太話だけがこうして延々と続く。暴投を投げる彼女と、それを適当にあしらう俺の、キャッチボールが成立しているのかさえ曖昧な会話。
「そういやあんた、来月誕生日だったよな? 今度でいくつだ」
「ちょっとぉ、年上の女性に年齢聞くのはご法度じゃなぁい?」
「別にそんな歳は変わんないだろ」
彼女は頬を膨らませたまま、拗ねた子供の真似でおどけながら答えた。
「21でーす。ホントなら4月からは大学四年生でぇす」
「やめろよ、そういうの……」
一定の間隔で刻まれていた会話が途絶える。質の悪い彼女の冗談に俺はそう返すことしか出来なかった。だが当の本人は俺を見て笑みを零すだけだった。
「別にこのぐらい何とも思ってないのに」
「俺が思うから、言ってんだよ」
彼女のこういう所が、俺は嫌いだ。他人にはとやかく言う癖に、自分のことはまるで他人事のように扱う態度が。デリカシーが無いのはどっちだと言いたくなる。
だがこの憤りに意味なんてない。力なく溜息を吐いて気を静めていた時、ふと
「今年の春は、長くなりそうなんだとよ」
「うん、知ってるよ。君といない時はニュースしか観るものないんだから」
「体の具合は?」
「正直、自分でもびっくりするぐらい良いね。今だったら全力で走れちゃいそうなくらい」
「痛みとかは、ないのか?」
「全くないね」
「そうか。それじゃあ……」
今聞きたくないそのことを、上がってきては抑えてきたその疑問を、俺は吐き戻すようにして口にした。
「あんたの左半身、今どのぐらいまである?」
子供が怪我を負った自分の足を見るように、彼女の身体の方へ恐る恐る目を向けた。
抉れたように欠損している彼女の半身が目に映り、俺の中では感情の汚泥が蠢いた。彼女の病衣は左肩から下がストンと落ちて、斜めにひっかかったような状態で着用されている。
彼女はシリコンで作られた右腕で空洞となった自身の体をなぞった。
「もう足と腕はないね。右もそろそろ限界。義手を取り付ける肩があるのも、たぶん明後日が最後かな」
これが彼女を蝕むもの。俺が知る中で最も残酷な不治の病。
──桜吹雪症候群。別名、八重桜病。
人体が四肢から徐々に崩れていき、桜の花弁のように散って風と共に消えていく奇病だ。崩れて宙に散りゆく肉片が桜のように舞う様と、温暖な春の季節にのみ病気が進行することからこの病は名付けられた。
病が臓器や肉体維持が不可能な状態まで進行すると、全身が一気に塵となって患者は散る。
無慈悲に消失していく肉体に対して舞い散る花弁はひどく美しくて、人々の心と共に患者の命を奪うのだ。
この難病に治療法はない。患者は春のない国へ移住、もしくは国の特別保護施設に入って病気の進行を遅らせるのが一般的だが、経済事情で彼女はそのどちらも得ることはかなわなかった。
毎年訪れる春によって身を削られ、命のカウントダウンが刻一刻と彼女に迫っている。日に日に減っていく彼女の体を目の当たりにし、その残酷さは嫌というほど俺にも理解出来た。
初めて会った時から彼女の病については知っていた。学校帰りに偶然公園を訪れた俺に、話しかけてきた彼女が全てを教えたからだ。初めて会う男に何の躊躇いもなく。
だがここで会い続けてる度に、その事実は嘘なんじゃないかと俺に錯覚させた。
病衣さえ目に入れなければ、彼女はただ面が良い女にしか見えない。肌の血色も鈴のような声音も無垢な笑みも、普通に生きる女の子であると思わせてくる。それを摩耗した彼女の体が否定する。
だからこうして目を合わさないために隣で話すだけしかしてこなかった。そんな馬鹿馬鹿しい方法で自分を騙し、目を逸らし続けてきた。
最初からこんなこと、分かっていた筈なのにだ。
「私、今年の3月に死ぬよ」
木の葉がさざめく音に紛れるようにして、彼女は突然そう告げた。
「なんとなく分かるんだ。もうあとちょっとだって」
他人事のように自分の死を語っている。諦めも悲壮もない、穏やかな表情で。その姿が1番、今の俺には堪えた。
「昔っからだけど、不思議と怖くはないんだよね。未練がないからかな?」
「……こんな事を聞くのは、ただの俺のエゴだ。聞いたところで何が変わるわけでもない。だけどだ」
また俺は、どうしようもない無意味な言葉を吐露する。
「何か無かったのか? やりたいこととか、行きたいところとか」
「うーん、この病気が発症する前から私って虚弱だったし、特に何もないんだよねぇ。趣味もゼロ、この人生はほんとに暇つぶしだったみたいな?」
「母親は? あんたを女手一つで育てたんだろ」
「私が死んだ後のためにビデオレターは作ったよ。死んだら悲しませちゃうけど、お母さんには前を向いてこれから生きて欲しいから」
死に対する彼女の姿勢は異様なほど合理的で、人間らしくなかった。一貫して彼女の死生観は客観的なもので、自分の感情といった要素の一切を含んでいない。排除しているのではなく、根本的な恐怖や悲哀が本質として欠落しているように感じてならない。
「なんでそんな平然としてられるんだ」
運命が決まっていて、それを受け入れるのであれば彼女の考え方は正しいのだと思う。あえて不安にさせる必要なんてないに決まっている。だがそれでも、疑念をぶつけずにはいられなかった。
「春、好きなんだよね」
思ってもみなかった返答に、俺は言葉を失った。呆気に取られていると彼女はいつになく真剣な顔をしてこちらを向いた。
「人は誰しも望んだ死に方が出来る訳じゃない。大切な人との突然な別れがあったり、未練があるから、人はそう簡単に死を割り切れない」
「……」
「でも私は、すっきりしてるの。このまま穏やかに、春の風になって消えることが出来る」
それをあたかも夢でも話すように、彼女は晴れ晴れとした顔で胸中を明かす。少女のような振る舞いを見せる麗人は暖かな風を受けながらそっと微笑んだ。
「好きな桜と一緒に風に乗って飛んでいくって、私は素敵だと思うの」
それはありのままの彼女の願いであり、そして変えることの出来ない不動の未来だ。そこに介入出来る隙間なんてものはなく、俺はただ隣で傍聴することしか出来なかった。
「あとそれに……」
彼女は思い出したように俺の方へ振り向き、満面の笑みを見せる。
「君が私を、覚えててくれるから」
それに対して何も返せる言葉が無かった。今更俺が何かを言ったところで、何も変わらない。余計なことをすれば、彼女の旅立ちの邪魔になるだけだ。
「……そうか」
「あっ」
彼女が声を上げたと同時に、体から桜の花弁が散り出した。無数に散る花弁は穏やかな風にさらわれて飛んでいく。
暖かな風が吹き抜けて、木の枝が擦れてカラカラ音を立てる。枯れた並木の枝先は一瞬にして春色に彩られた。快晴の空の下で、薄紅の花弁が巻き上げられて軌跡を描く。舞い上がった桜が空へと散って、やがて青に塗り潰される。
「ちゃんともうすぐ、春が来るよ」
俺は飛んでいく桜を黙って見ていた。毎年変わらず訪れるこの春に、少しづつ奪われていく。質量も、温度も、大きさも、その全てが儚く減っていく。
横目で見た彼女の顔はどこか清々しくて、もう既にどこか遠くにいってしまったようにさえ思わせた。頬を伝ったこの涙さえも、風に吹き飛ばされて流せない。暖かな春がそれを許さない。
こうしているしかない。春が終わるその時まで、じっと待っているしか。
この気持ちが恋心であると気付かぬふりをして、きっと今年も春を迎える。
如月の桜吹雪 白神天稀 @Amaki666
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