1.初対面でこんにちは

 空。


「…………?」


 目に入ってきた光景は、青い空だった。

 雲は不定形で、泳ぐかのように空をさまよっている。


「……ここは」


 はっきりとしない意識のまま、身体を起こして顔を左右に僅かばかり動かし、周りを見回す。


 ……森、いや林のようだ。

 倒れている状態でも空が見える程度には木は低く、つい今まで身体を横たえ、そして今座っているのは草むらの上だった。


「んー……まずいな、何も分からない」


 ここはどういう場所で、自分は何者か。

 なぜこういう状況に陥っているのか、何が今起こっているのか。


 少しずつ回りだしてきた思考を巡らせても、何一つとして分からなかった。

 強いて分かっていることと言えば、つい今の今まで呑気に草むらの上で眠っていたことだけ。


「……とりあえず、立つか」


 よっ、と少し年寄り臭く息を吐きながら立ち上がる。

 そうして改めて見ると周りに樹木、そして足元の草むらという光景の中に自分が寝転がっていたことがなおさら不思議に思えてくる。


(……ピクニックに来てた、というわけではないよな)


 そんな平和的なイベントで来ているのならば近くに荷物があってしかるべきだが、生憎と辺りを見回しても何も見当たらない。

 と、その時。


「ん、水音がする……川が近くにあるのかな。それと……人の声か?」


 聴覚に感あり。

 右手の方角、その少し高い草葉地帯の先から、小さくはあるが水が流れる音と、その中に混じるかすかな鼻歌らしき声が聞こえる。

 それはすなわち、自分以外の人間がいるという事実。


(この土地の人なら、話を聞けば何か分かるかもしれない)


 いわゆる記憶喪失の状態である身としては、自身の情報につながるだろう存在は見逃せない。

 そう思い立った時には、既に足が動き出していた。


 背の高い草葉をかき分けながら、ほの暗い中を一歩、一歩と前へ進む。

 そうして前に進むたび、聞こえてくる音は大きくなり、自身の聴覚が間違っていなかったことを確信した。


 水音は強まり、川は確かに流れていることが分かる。

 そして、鼻歌らしき声は低い、男性のものであることが分かった。


(……友好的である、とは限らないか。もしかすれば後ろ暗い事情がある人かもしれない)


 そう、ここまではその人……男性が友好的、あるいは中立であることを前提に動いてきたが、世に疎まれる悪人である可能性もまた捨てきれない。

 目覚めてからこっち、緩みきっていた意識がだんだんと引き締まり、警戒心が芽生えてきたことを自覚する。


 じわり、と。手に汗が浮かぶのを感じ取る。


(もし、そうだとして。敵うだろうか……正直、自信はないな)


 記憶喪失の身だが、身体の感覚は凡人のものだろうという自信がある。

 相手に心得があるのなら、容易く鎮圧されてしまうことだろう。


 そう考えるうち、踏み出す足の歩幅は徐々に狭くなり、足音も自然と小さくなっていった。


 そうしながら、1、2分と経ったころ、


(! ……光が見えてきた)


 目の前に小さい、まばらな光が現れはじめた。

 すなわち、この草葉地帯の終点、音の発生源である川は目前ということ。


「……っ」


 それを認識した瞬間、身体は自然としゃがんでいた。


「フンフンフーン、フフフン。フーフフフン」

(声もよく聞こえる……何の歌だろう、これ)


 声の主もまたほぼ眼前にいるといっていい。ただ、偶然にもその姿は樹木の向こうに隠される形になっている。


(鼻歌を歌いながら、何をしているんだろうか。釣り……ぐらいしか思いつかないけど)


 その想像が当たっていれば、話し合いは成立し、実りある会話ができる可能性が高い。

 しかし、鼻歌を歌うという行為がカモフラージュで、実際は悪を成している可能性も捨てきれない。


 ……普通に考えれば、そんな低すぎる可能性は棄却するのが道理だ。

 それでも考えてしまうのだから、これは忘れている自分の性分なのだろうかと頭の片隅で自問する。


(音を立てず、慎重に……)


 しゃがみながら、一歩ずつ足を踏みしめる。体重をしっかりと乗せ音を殺し、息をひそめ、じりじりとにじり寄る。

 水音と声は既に大きかったが、一歩近づくたびにより鮮明に、重厚に耳に響いてくる。


 実際は分に届かず、しかし感覚としては数時間も経ったように思われたその時間の終わり。

 ついに努力が実り、目標の様子を窺うことができる距離まで接近することに成功した。


 さあ、あとは直に拝んでやるだけ──


「フンフフー……ん?」

(!!)

「……誰か、そこにいるのか?」


 気付かれた。

 思わず動きそうになる身体をすんでのところで制し、音は立てずに済んだ……が。

 それは今の今までも同じこと。さらに言えば水音もある。実際に多少音が立っていたとしても、鼻歌なんぞを歌っているのだからそうそう気づくはずがない。

 それなのに、気付かれた。声音に疑念が混じっていることからもそれは明らかで。


 ……つまり、相手は相応にその手の心得があるということ。


「……翔か? いや、アイツは今探索に出てるはずだしな……」


 逡巡しているうちに、眼前にいるであろう男は次の言葉を紡いだ。それを聞いたままに脳へと送り込み咀嚼をするまで一瞬。


(探索と、人名……? 他にも仲間がいて、何かの組織的行動をしている……)


 緊急事態に直面した思考が、推測を弾き出すのは即座だった。

 これが正しいとするなら、当てはまるのは事前に検討した可能性のうち"悪いほう"ということになる。


「獣か、人か……おい、お前が何者かは知らないがそっちに行くから待ってろよ」


 その言葉と同時に、足音が近づいてくる。それは、さながら死神の足音のようにも思えた。


(まずい、選ばないと……! 逃走か……対面か!)


 ただちに選ばなければならない二者択一。しかし、先ほど自分は凡人なのだと自覚したとおり、思考はまとまっておきながら迷い続け、行動に移せないでいる。


 時とは無情だ。

 その無益な瞬間を積み重ねている間にも足音は進み続ける。そして、ついに相手の頭部が視界に入りかけるところまで来てしまった。


(……っ、どうにでも、なれぇ!)


 決断は……、


「…………」

「…………」


 裸族との対面であった。



「え、ええと、その……」

「…………」

「はじめ、まして……その、本日はお日柄もよく……」



 ──この時の心境に曰く。


 どうにでもなれとは思ったが、こうなると思うわけがない、と。

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