ただここには夢があり、そして

とめつま乖離

1.希望なき世界

 ─西暦2034年─


 例えば、これは地獄だ。

 およそ、人の想像できる範疇、その言の葉として紡ぐことができるとすればまず誰もがこう言うだろう。


 真紅に染まり、無数の影を落とす空。

 煙と炎逆巻く、人の文明の残骸。

 四肢とも呼べぬ形で慟哭と絶叫を繰り返す肉塊。


 ──これを、誰が我が世界と思うのか。


「……くそ」


 何度吐き捨てたかもわからない呟きは、鉄の香りとともに汚れた大気へと溶け込んでいった。

 地面についた手は、衰弱した体躯を支えることに限界を覚えるかのように震えだしている。


「第二司令所……ダメだ、連絡がつかん」

「さっきの『空鯨』、見なかったのかい? ……いつもどおりの自爆がその方向だっただろ?」


 背後では、通信機に応答がないことを確かめた青髪の巨漢に、呆れを混ぜながら粗野な金髪女が指摘をしている。

 その顔には黒じみた赤が滲み、決して小さくはない切り傷があった。


「……放棄、か」

「ま、そうだろうな。10分前の通信で撤退コードが聞こえたし、後ろのヤツらはもう準備を終えてそうだ」


 呟きに、青髪が反応する。


 放棄。その対象は、もちろんこの戦場のことだ。

 戦闘と呼べる様相を呈していたのもつい先刻までの話で、ある存在の登場で戦闘は蹂躙へと変わった。


 地上を薙ぐ、あらゆる存在を否定するかの如き数本の光条。

 それらを口から無造作に吐き出した、タコにも似た敵対巨大生物。

 目は肥大しきって枠からはみ出し、蠢動を続ける長い6本の足の鋭い刃のごとき先端には、少なくない数の人間が突き刺さっていた。


 それは、現状人類が殲滅を是とする敵対種の中でも特に強大で、最優先に排除しなければならないモノ。


 元々拮抗、いや僅かに優勢を保っていた人類の戦局は、たったそれだけの存在の登場によって劣勢を振りきって地獄へと変じた。


「……」


 撤退だ、撤退するしかない。それはごく自然で、かつ合理的な結論だ。

 戦争において、全戦力の3割の被害を被れば戦線は機能しなくなる。それに倣えば、3割など優に超え過半にすら至っているだろうこの状況では撤退、敗走こそが最も理に適った判断であることは幼児にすらも理解できることだ。


 命あっての物種、生きて再起を図るべし。


 ──そうして、人類は敵に自分たちの領土を明け渡してきたのだ。


「鎮痛剤も切れたし、オーバーヒーリングキットもねぇ。……ついでに弾も切れて、タマなしの死体がそこらじゅうにってな」

「笑えるわけないだろ、バカグマ。センスも面白みもないってんだよ」

「そりゃまた失礼、っと。……んじゃ、俺らもご相伴に預かるとしますか」

「……何やってんだい、さっさと退くよ『隊長』。急がないと、アタシたちまであいつらの餌食になっちまうよ!」


 片膝と手を地面についたまま動かないことにしびれを切らした女が言う。

 彼らのような者がこの世界において正しく、模範的な人間だ。

 無益な犠牲を避け、情報を持ち帰り次へと繋げる。

 それが、正しいことであり大前提。



 ……では、いつその成果が表れる?


 これをいつまで続ければ、人類は勝利を手にする?

 あとどれぐらいの犠牲を出せば、ヤツらを殲滅できる?

 そのための手段は、時間は、余裕は……どれほど残っている?


「……ダメだ」

「は……?」


 口をついて出たのは、一言の拒絶だった。


「……ここで。今、この場所で、この時から」


 意識はすでに朦朧としていた。酷い熱に浮かされているかのように視点が定まらず、視界はぼやけていく。

 頭の奥に電流が奔っているかのようで、耳にはチリチリとその音が聞こえる。

 口いっぱいに広がっていた生温かさも鉄の香りも消えていた。

 身体の震えはその勢いを増し、力を込める場所さえ迷わせ今にも倒れんばかりだ。


 それでも言葉を紡ぐことに支障はなく、冥々とした中にただ一つの明瞭な思考があった。


 そうだ。


「奴らに、報いてやるんだ……そうしなければ」


 視界が明滅する。

 急に地面が迫り、何かが身体にぶつかったような感触を覚える。

 次の瞬間には、ただ漆黒だけが知覚にあった。


 そして、前のめりに倒れ、まさに意識を手放そうとしているのだと。

 そう理解することさえしないまま、彼は心の中に言葉を残した。



 どうか、目覚めないでくれ。

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