後編

 二人と一匹になった一行は、北へと歩を進めました。周囲から緑の姿が消え、辺りはどんどん寒くなっていきます。空からちらほら白い物が降り始め、辺りが白銀となった頃、フェリックス達は氷で覆われた砦に辿り着いたのです。

 出迎えたのはどこまでも続く白い長い氷のドレスに亀のショルダーガードをつけた女魔法使いでした。フェリックスはとても驚きました。病的なまでに肌の白さを増し、美しさに磨きが掛かっていますが、彼が一目惚れした少女に違いありません。

 魔法使いは冷気でフェリックス達を威嚇します。凍えるような冷たい風がフェリックスの肌を切り裂き、肺を刺します。咳き込む少年の脇を駆け抜け木こりが斧を振り上げましたが、氷の女王の息吹に遥か彼方まで吹き飛ばされてしまいました。

 唸るトトの傍らに魔法使いが歩み寄り、細い手を伸べました。トトががうと吠えて噛みつきましたが、彼女は痛がる素振りも見せません。しかも何と言うことでしょう。トトがそのままの姿で凍ってしまったのです!

 氷付けになった仔犬を胸に抱いた魔法使いが、静かにフェリックスの元に歩いてきます。呆然とそれを眺めたフェリックスはやっとのことで口を開きました。


「君は……君は何故泣いてるんですか?」


 そう、彼女の頬にはきらきらと光る涙の結晶が絶え間なく転がり落ちていたのです。

 彼女は無言で目を伏せるとフェリックスに手を伸べました。そして彼女の掌からこれまでの比ではない凄まじい冷気が発せられたのでした。



 フェリックスは自分の名を呼ぶ声で目を覚ましました。目の前にあったのは、泣きそうな表情を浮かべた鈍色の顔でした。大事な仲間の木こりです。

 魔法使いに吹っ飛ばされて気絶した木こりでしたが、気付いた時には辺り一面氷で覆われており、その中央に氷付けのフェリックスを発見したのです。何とか一人で助け出したものの、中々目を覚まさないフェリックスに心配で途方にくれていた所でした。


「トトと魔法使いはどこですか?」


 聞くと木こりはマントの前身頃をそっと開き温かな腹部から氷付けの仔犬を取り出しました。トトは目を覚ます気配がありません。次に木こりは少し離れた所を指し示しました。それは氷の岩場にただ一つ悠然と孤立する巨木でした。目を覚ました時には魔法使いの姿は既になく、代わりに訪れた時にはなかった巨木が忽然と現れていたと言うのです。

 木こりはトトを抱え、まだ足元の覚束ないフェリックスを支えながら歩き出しました。光輝く氷の世界をやっとの思いで抜け、肌を刺す大気が優しい温かさを持ち始めると、歩き詰めだった彼らは初めて腰を下ろして休むことができたのです。


「木こりさんありがとう。もう僕も一人で歩けます」


 言ってからフェリックスは気付きました。木こりの顔色が変わっています。そして体のバランスも何だか変です。ブリキの部分が変色し、いつもより一回り大きくなっています。

 凝視するフェリックスの前で木こりは微笑むと、ゆっくりと横に倒れて行きました。がしゃん。固い音を立ててブリキが地にぶつかり、手足がバラバラに割れました。フェリックスが顔色を変えて木こりの体を抱き寄せると、ひび割れた頭の一部がぽろりと落ちていきます。


「フェリックスさん、私もここでお別れのようです。代わりに私の斧を持っていって下さい。きっと役に立ちますから」



 フェリックスは泣き叫びました。泣いて泣いて泣いて、辺りが月の光で満ちる頃、そっと木こりを横たえ斧を担ぐと、静かに足を踏み出しました。冷たく動かないトトをしっかり抱き締めて。

 岩場を越え、丘を上り、辺りの景色はぐるぐると変化していきます。

 フェリックスは一人です。一緒に歩いてくれる仲間は今やもういません。不思議な魔法使い達もいなくなりました。彼の向かう先にいるのはただ一人。


「オズ……」


 少年は躓き転びました。腕に抱えていたトトの体がころんと転がり落ちます。少年は仔犬に手を伸ばし──後僅かの所で届かず大地に手を落としました。少年の体も心も限界でした。

 倒れ伏す少年の周りをひらりひらりと光の粒が舞い落ち、少女の姿を象ります。光と共に現れた少女は透明なエメラルドグリーンの瞳で少年を見下ろしました。


『──貴方の望みは何?』


 少年は泣き濡れたどろどろの顔でゆっくりとその姿を見上げました。


「僕? ……僕の望みは……家へ帰る、こと」

『帰る? 貴方を待つ少女を置いて。倒れた仲間達を置いてただ一人帰ると言うの?』


 少年が目をしばたたかせると、新しい涙がころんと滑り落ちました。


「……君は誰?」

『わたしはオズ。全ての源流、全ての終焉。全てを司る者』

「僕は君と同じ名同じ姿の女の子を知ってる。彼女はどうしたの?」

『彼女はわたし。わたしはオズ。この国はわたし。全てはわたしの一部』

「君が? でも皆は……」

『わたしがいれば再び始まる。産まれ、躍り、狂い、散る。永遠に終わらないわたしと共に』


 少女の言葉に呼応するように左手からライオンが、右足から木こりが、髪から案山子が産み出されます。再び現れた彼らは少年の目の前に降り立つと、変わらぬ微笑みを浮かべ少年に手を差し出しました。


『さあ行きましょう。美味しいお茶とお菓子が貴方を待ってる。彼らと共にこの国で楽しく過ごしましょう』


 しかし彼らが歩を進めて近寄ってくると、少年は泣き笑いのような顔で首を振りました。しゃらりと首筋で軽い音が鳴ります。


「違います。僕が会いたいのはこの人達じゃない。僕が会いたい人達は、もうここにはいないんです」

『どういうこと?』

「わからない? そっか。じゃあ君はきっと……ずっとひとりで淋しかったよね」


 少年は彼らが見向きもしなかった灰色の塊を見て、首筋の鎖を握り締めました。

 それはライオンの牙を器用な案山子が加工してくれた首飾りでした。彼らの心はここにあります。それに優しい木こりが、出会い頭でも小さな姿を見逃さなかったライオンが、常に注意深い案山子が地に倒れ伏したトトの姿を見逃すなんてありえない、少年の知る彼らだったら絶対にある筈がないのです。

 少年は焦げ付いた案山子の帽子を取り出しかぶりました。そして首飾りから手を離すと放ったままだった木こりの斧を握り締めました。

 少年の視線はよく知る仲間の姿を通過し、背後のオズに注がれます。


『ここは永遠に楽しく暮らせる所。貴方もきっと気に入るのに』

「僕が僕の思う通りに進めるように、皆は助けてくれたんです。だから僕は立ち止まらない。皆の思いはここにある」


 帽子が輝き、首飾りが震え、斧が火花を飛ばします。


「僕はッ! 帰るんだ────っ!!」


 叫んだ少年は斧を振り下ろしました。それは型も何もない力任せの一撃でした。誰にも届くはずのない意味のない斬撃です。

 しかし少年の咆哮に共鳴するかのように火花が弾け、大気が震えたかと思うと、辺りを光の奔流が埋め尽くしたのです。






 しばらくして少年は、自らの視界が戻っていることに気付きました。周囲が足元も見えない暗闇だったので、少年はいつまでも光に目がやられたままだと思っていたのです。

 しかし彼の周囲には本当に・・・何もありませんでした。オズも、大切な仲間の姿をした誰かも、青い空も緑の大地も花も鳥も蝶も。何一つなくなっていたのです。

 呆然と魂が抜けたように佇む少年の耳にカチカチと硬質な音が聞こえてきました。少年にはそれが何だかすぐにわかりました。


「トト……トトだね」


 少年の差し伸べた両手にふわりとした毛並みの感触が伝わってきました。ぎゅっと抱き締めると温かくて、太陽の匂いがします。

 少年はしばらく黙って仔犬を抱き締めていましたが、ざらりとした感触が頬を撫でると口許を綻ばせました。


「うんそうだね。帰ろうトト。僕達の家へ」


 少年は仔犬を降ろすと歩き出しました。光の見えぬ暗闇の中をカチカチと鳴る爪音だけを頼りに。

 少年には前を行く小さな姿すら見えませんでしたが、彼の目に迷いはありません。

 暗闇が少年の姿を完全に覆い隠してしまう頃、その軌跡を辿るように小さな蛍火が四つゆうらりと飛び、ふつりと消えていったのでした。






「フェリーックス! おはようお寝坊さん。お陽様は真上で笑っているわよ!」


 よく通る元気な声でフェリックスは飛び起きました。目の前に太陽の光を背にした叔母さんの呆れ顔がありました。


「よくこんな所で居眠りなんてできるわね。顔を洗って手伝いにいらっしゃい」


 笑って立ち去る叔母さんの後ろ姿を呆然と見送った少年は、きょろきょろと辺りを見回しました。

 そこはフェリックスが厄介になっている叔父夫婦の牧場でした。フェリックスはその小屋の前でうたた寝をしてしまっていたのです。

 向こうの方には叔父さんの姿も見えます。遠くて見える筈がないのですが、フェリックスにはいつもの帽子をかぶってやれやれと笑う叔父の表情がはっきり見えました。

 その隣に大型犬が寄り添っています。彼はいつも通りくわりと欠伸をしながらお腹を空かせていることでしょう。

 いつも厳しいことを言う叔母さんだって、本当はとっても優しくて涙脆いのを知っています。

 そう。皆フェリックスの大切な家族ですから。

 向こうの方から子供達が走ってくるのが見えます。先頭にいるのは大好きなドロシーでしょうか。後ろには元気いっぱいの男友達や頭が良いのを鼻にかける男友達、ちょっぴりミステリアスでフェリックスがドキッとさせられる女友達もいます。

 皆みんな、フェリックスのよく知る大好きな人達です。そう。少年の大切な人達はこんなに近くにいたのです。

 フェリックスは嬉しくなって傍らを見下ろしました。仔犬が尻尾を振って見上げています。


「トト行こう!」

「わん!」


 仔犬がエメラルドグリーンの瞳をキラリと輝かせ吠えると、少年と共に元気に走り出しました。

 空は穏やかな眼差しを向け、大地は優しい息吹で包みこみ、少年達の帰還を歓迎したのでした。








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オズに気に入られた少年と、危なくてがめつくて空腹で優しいお供達 蒼生ひろ @aoi_hiro

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