乙女まっしぐら(乙女からは逃げられない)

 静かな湖の上で彼女の好きという一言が、妙に大きく聞こえた。


 ミコは湖の上に立っているかのように飛んでいる。

 まるで背中のピンク色の蝶の羽が、ピンク色に染まった湖の水面に妖しく映っていた。

 それは神秘的でもあり、どこか儚さも感じられる。

 俺、アリス、ガリアさんとカエデさんは並んで、彼女の姿を様子を見つめる。

 黒い羽根だった時は、ミコは頭を抱え苦しみながら暴れていた。

 でも今はそんな様子は少しも見えない。

 その静かさが、逆にイヤな予感を加速させる。


 腰に差している剣を、もうアリスに渡してしまうべきだろうか。

「み、ミコ様!元に、戻られたのですか」

 ガリアさんが身動きをしないミコに向かって、話しかけた。

「ミコ、目を開けて、何か言って!」とアリスも横で、足を前後に開き、戦闘状態を維持したままで言う。

 アリスもこの異常な光景に、まだ気を緩められないのだろう。


 好きと言う言葉。

 その言葉はきっと俺に向けられているのではないかと、思っている。

 感情が強化されてしまうのならば、それはきっとその感情も強化されてしまうのではないか。


「ミコ!」

 俺は声を張り上げて、ミコの名前を呼んだ。

 すると「修平」とミコが口を開く。

「良かった!無事なんだな!」

 しかし俺の問いかけには答えず、「好き」と言って、普段はしたことのないような満面の笑みを浮かべ

 ながら、両手を広げて俺に向かって飛んできた。


 それは恋人同士であるならば、ただの抱き着くような動作でしかない。

 だけど俺がレベル1で、ミコが邪悪龍ディアボロすらも簡単に屠る力を持っているとなると、話は全く別次元の問題となる。

 まるでロケットのような加速で、一瞬で俺の目の前まで近づいていた。


「危ない!」

 アリスが引っ張ってくれなかったら、俺はミコにひかれて死んでいたかもしれない。

 よろけて、地面にしりもちをつき、目の前をミコが猛スピードで過ぎ去っていく。

 命が助かった、その代わりに肩が急に引っ張られて痛むが、必要な代償だと思おう。

 ミコは空中で旋回し、空で振り向いている。

 その目はまっすぐに自分を見ていた。


「ミコ!あんな速度で新川にぶつかったら、新川が死んじゃうじゃない!ねえ、聞いているの?」

 アリスの声にも気づいていないように、まったくミコはアリスに視線を向けない。

 頬を染め、俺だけに潤んだ瞳を向ける。

 まるで俺以外を認識していないかのように。

 ガリアさんもカエデさんも、ミコを不安そうに見上げている。

「好き」とミコが言う。

 その声が引き金となったのか、背中の蝶の羽が一際大きくなった。

 ミコの身長の2倍以上の大きさとなった蝶の羽をはばたかせて、ミコは森の木をなぎ倒しながら飛ぶ。

「新川、逃げなさい!」

 アリスは俺の前に立ちふさがり、ミコを受け止める。

 しかし受け止めきれずに、地面を削りながら背後に引きずられていくので、俺は咄嗟に横へ転がりぶつかるのを避けた。

 そして転がるようしながら、俺はミコへ背を向けて、尻尾を巻いて逃げ出す。

 どこへ逃げればいいのか分からないまま森の中を走る。

 木の根や滑りやすい草や落ち葉の中を、転びそうになりながら逃げるが、すぐに背後からバキバキと木や枝を折る音が聞こえてきた。

 暴走したミコが迫ってくる音だ。

 まるで戦車のようだ。

 すべてをなぎ倒しながら、押し進む戦車。


「伏せて!」

 アリスの声に従って、転ぶように地面へ伏せた。

 身体に痛みが走る。

 そして俺のすぐ上を風を切りながら、ミコが通り過ぎて行く。

 風が吹き荒る。

 身体がその風で浮き上がりそうになり、必死に手近な木の根を掴む。


 ドンとぶつかる音が真上でした。

 見ると、アリスがミコの身体を横からタックルして吹き飛ばしている所だった。

 俺の上を通り過ぎたミコが、旋回して俺に向かってまた急降下してきたのをアリスが横から邪魔をしたのだろう。

「立って、走って」とアリスが俺の首元を猫の首を持つのように掴んで、俺を立たせる。

 吹き飛ばされたミコは既に立ち上がり、俺を見つめていた。


 俺はその目から逃げるように、回れ右をして走る。

 ミコとは恋人になったはずなのに、その恋人から逃げる羽目になるなんて。

 たとえ暴走しているとはいえ、こんな風に背中を向けて逃げるなんて。

 俺は恋人失格だ。


 しかしどうすればいいんだ。

 湖の力で憎しみの感情から解き放ったのは良いが、その代わりにこんな俺に突撃するだけの女の子になってしまった。

 話しかけても全く聞く耳を持たないし、ステータス面でも俺たちが束になってもかなわないだろう。

 何とかアリスが守ってくれているが、それもいつまで持つのだろうか。


「考えろ。何か、手はないのか。ミコを元に戻す手立ては」

 きっとあるはずだ。

 助ける方法が。

 走って、走って、走り続けるが、背後のアリスとミコの攻防の轟音からは逃げられない。

 アリスがミコの動きを逸らしてくれているが、いつまで持つか分からない。

 その前に、ミコを元に戻す手段を探さないと。


 森の中を走りながら、周りに役に立つものがないか探す。

 しかし走れども走れども、木や草といった自然あふれるものしか見当たらない。

 当たり前だ。

 ここはエルフの隠れ里から離れた森の中なのだから。

 ただエルフが木の実や山菜を取りに来るような何でもない大自然の一部でしかない。

 里へ戻ったとしても、黒いミコやディアボロの影響で里のほとんどが壊滅状態で、何か役に立つものなどないだろう。


 後は、何が残っているんだ。

 エルフたちは強化魔法に魔力を消耗して動けないらしい。

 もっとも動けたとしても、ミコの動きを止められることなんてできない。

 他には、ユグドラシルもディアボロもすべて、今の状況を打開できそうにもない。


 他には、何か……。

 考えても考えても、もう俺にはミコを止める手立ては見つからない。

「くそっ、くそっ!何か、何か……」

 血眼になって、何もないと分かっている森の中をさがす。


 腰に差している剣が、ガチャガチャと主張している。

 肝心な時に役に立たないのが苛立つ。

 この剣はまったく俺の力にはなってくれない。


 轟っ!


 強い風が吹き荒れ、背中を押されて俺の足は少しの間地面から離れた。

 背後を見ると、森の木が倒されて空が見えるようになった隙間から、ピンク色の羽が見える。

 逃げる時に見た時よりもはるかに大きい。

 羽の長さはすでに森の木を超え、山よりも大きく見える。

 そしてミコの身体が大きすぎる羽に押しつぶされそうにも見えた。

 本当に苦しくはないのだろうか。


 その時、ガリアさんがミコに必死に声を掛けている言葉が聞こえてきた。

「もう、おやめください!これ以上、そのような膨大な魔力を使えば、いかにその魔法でもいつかは尽きます」

「ミコ様っ!」

 カエデさんのミコの名を呼ぶ声も聞こえてくる。

 しかしミコにその言葉は届いていない。


 羽を大きく羽ばたかせる。

 それだけで周囲の木々はミシミシと音を立てて、幹の半ばから折れていく。

 きっと俺があの場にいれば、この木と同じ末路をたどるだろう。

 宙に浮いたミコと視線があった。

 嬉しそうに無邪気な笑顔を、俺に向ける。

 ぞわっと身体に怖気が走った。


 そして俺に向かって飛ぶ。

 ドン。

 アリスがミコの腹に蹴りを入れて、ミコは制御を失い、どこかへと吹き飛んでいく。

 どこかでドォンと地面が揺れる。

 ミコが地面に落ちた音だ。

 だけどあんなものはミコにとっては、何でもない些事だろう。


 すぐに追ってくるはずだ。

 逃げ場もない、いつまで逃げれば良いのかも分からない逃走。

 アリスがいなければ、俺はたちまち肉塊になってしまう、命をかけた逃走だ。

 そう考えて、俺はぞっとする。

 一歩間違えれば死ぬ、終わりのない逃走という事を意識して、俺は気力が折れかけた。

 俺の体力は無限ではないし、アリスだって無敵じゃない。

 ミコを傷つけることなんてできないし、解決策などない。


 八方ふさがりの中、俺は俺が死ぬまで逃げ続けなければならないなんて。


 足が止まって、一気に疲れが襲ってきた。

 がくりと膝が落ちる。

 足が震え、そして重い足枷をつけられたかのようにひどい倦怠感を感じる。

 いつの間に、こんなにも足を酷使していたんだろうか。

 呼吸もこんなに苦しかっただろうか。

 俺はスーパーマンではない。

 ただの一般人だ。

 しかもただの運動も対して得意ではない。

 そんな人間が全力で走り続けていたら、こうなるなんて自然なことだ。


 ドゴン!

 音がして、そちらを見るとミコが青い空を舞っている。

 もう空の半分に届くかと思うほどの大きさに羽が大きくなっていた。

 そしてその中央にいるミコは俺を見つけ、俺に向かって急降下してくる。


「なに、足を止めてるのよ!」とアリスの俺に向かって文句を言う声が聞こえた。

 そして俺の代わりに交差するように、ミコへ飛び出し、その肩を掴んだ。

「ぐぅううぅうううううう!どっせぇい!」

 ミコを投げるように、軌道を逸らす。

 そして俺の近くに着地したアリスは、腕を奇妙な方向に曲げていた。

 いや、腕が折れている。

 それだけ今のは無茶をしたのだろう。


「大丈夫かよ!」

「私の心配をするくらいなら、足を動かしなさい!」

 アリスが俺に怒鳴る。

「早く動きなさい。そうすれば、私も楽になるから」

 顔を痛みでゆがめながら、それでも俺を叱咤する。

「分かった」

 棒になったような足を無理やり動かして、走り出す。

 どこへどれだけ行けばいいのか分からないまま走る。


 身体はもう悲鳴を上げていた。

 何時間走ったのだろうか。いや、もしかしたら何分、何十分くらいの時間だったのかもしれない。

 アリスとミコの攻防の音に追われながら、走り続ける。

 そしてきゃあとアリスが女の子らしい悲鳴を上げて、俺の横を吹き飛び、目の前の木の幹にぶつかって止まった。

 アリスの身体中は切り傷や打撲痕ばかりになっていて、非常に痛々しい。

 まだ動こうとしているけれど、身体の痛みに負けて、アリスは立ち上がれずにいる。

 ついに均衡は崩れてしまった。


 振り向くと、ミコは空を飛び、変わらず俺を見つめている。

「好き」

 その言葉だけがミコを突き動かしていた。

 俺を守ってくれる人はいない。


 もう逃げる場所なんてなかった。

 だからせめて自分ができるだけの努力をしよう。

 アリスの前に立ちふさがって、両手を広げる。

 レベル1がレベル6000を守るなんて、ほとんど意味がない。


 だけどただ逃げて、その果てに死ぬくらいなら、こうした方が格好がつく。

 それに……。

 恋人の好きと言う思いに対して、逃げてばかりじゃいけない。

 死ぬとしても、ミコを受け止めて死んでしまおう。


 ピンク色の蝶の羽は、いよいよディアボロの巨体やユグドラシルよりも大きくなっていた。

 それが俺への愛だとしたら、少しばかり誇らしい。


 蝶の羽は一際大きく引いて、そしてミコの身体は俺に向かって放たれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Lv1の剣 豚野朗 @Tonno_Hogara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ