猫と傘と、天空の亡霊

 この町の雨は、止むことがない。水はけが悪いわけではないものの、降り続く雨は常に道路に水たまりを作り、外を歩こうという気持ちを萎えさせる。とはいえ窓から伺う外の景色は常に見通しが悪く、部屋の中もまた薄暗い。無機質な建材が剥き出しになった部屋の中で、壁にもたれる和装の人影が一つ。いや、そのシルエットは微妙に人とは違う形をとっていた。頭の上にとがった耳。顔の横に見えるのはヒゲだろうか。目はどうやら閉じているようだ。物音をたてずただじっとしているそれは、まるで雨音に聞き入っているようでもある。

 頭の上の耳が、ぴくりと動いた。ゆっくりと、その目が開く。かつては扉があったのかもしれない長方形の穴の方に、二つの瞳が向けられる。穴の向こうの壁が薄緑色に照らされている。猫の顔がふう、と息を吐いた。

 扉があれば少しは勢いが和らげられるだろうか、と、考えても仕方のないことがふと浮かぶ。

「猫の人!」

 いつからこの、体のあちこちに面発光素子をちりばめた、コーティングを剥がした金属ボディの若者に懐かれたのだったか。いつから猫の人などという奇妙な名で呼ばれるようになったのか。つい先日のような気もするし、遙か昔だったような気もしてくる。ただ、かつてはこういった風体の若者が何人もつるんでいたものだったが、一人減り二人減り、いまではこの面発光素子を散りばめたやけにぴかぴかと光る若者だけがかつてのスタイルを貫いている。もしかしたらもう若者と呼べるような年ではないのかもしれないが、猫にとっては今でも子供たちの内の一人である。

「相変わらず派手に光ってるな」

「まあな、アイデンティティってやつさ。ほら、猫の人これ好きだろ?」

そう言うとかつてのメタル者はオイル缶を差し出した。

「100%化学合成だってさ。カガクもゴーセーもよくわかんねーけど」

むしろこの町では部分合成の方が入手困難だろうが、そんなことは知る由もない。

「……べつにこれが好きなわけではないのだが……」

そう言いながら猫はオイル缶を片手で受け取る。

「猫の人いつもそう言って、最後の一滴までしっかり舐めるじゃん?」

器用にふたを開けると、どこから出したのか傷だらけの金属の杯にオイルを注いだ。

「そりゃあ、せっかくの油だからね」

缶を床に置き、杯を目の高さに掲げる。

「それにしても、よく溶けている」

「お、わかるかい?」

声のトーンはさほど変わらないが、嬉しそうにあちこちを点滅させている。

「今が一番良い具合かもしれないね」

ボディの溶け具合を見て猫が言う。

「そうだなぁ、もう少しいけるかなとは思うけど、この辺でやめとくのが安全かな。もう若くないし、無茶は良くない」

「子供がやけに落ち着いたことを言うじゃないか」

ちびり、と杯からオイルを飲むと、目を細める。

「猫の人はずっと子供たちって言ってたけど……まあいいか。そうだな、こんなナリしてる間はまだまだ子供だ。もう少しぐらい無茶してもいいか!」

「で、いい具合だから見せに来たのかな」

扉のない四角い穴の向こうから声がした。

「相変わらず傘の人は部屋に入らないんだな……じゃなくて、そうそう。忘れるところだった」

すっ、と光量が下がる。

「てるてるストリートって覚えてるかい」

口元の杯が止まる。

「思い出せと言われりゃ思い出せる程度には、ね」

そこにいた雨降り小僧と驚天砲を思い出す。とはいえあれは一瞬雲を晴らしただけだったし、破壊された通りもあっという間に修復されて何事もなかったようにすべて元通りになったはずだ。

「そりゃよかった。俺もすっかり忘れてたんだが……」

どういう感情表現なのか、発光色が緑に変化する。

「あそこを封鎖して掘り返すらしいんだ」

「……今更?」

杯に口を付けた猫の髭がぶるぶると震えた。

「ああ、今更」


外に出るときは傘を差す。この傘も、猫とは長いつきあいだ。

「そういえば傘の人は部屋には入らないんだな」

「さすがに傘の人はおかしいだろうが」

猫は服も着るし二本脚でも歩く。しかし傘は傘である。今も猫の手によって運ばれているところだし、人と呼ばれるには些か無理がある。少なくとも傘にとっては。

「でもほら、話してるし」

「話をしたら人なのか?」

その言葉に一瞬何かを考えるような間が空く。

傘にとっては。

「……俺らも形はいろいろだしな。みーんなカスタムしてしまうしさ」

その俺らという言葉に含まれるであろう者達とも、もう長い間会っていないらしい。

「あいつらももうどんな見た目になってることやら。その点猫の人も傘の人も、変わらないからわかりやすくていいよな」

猫がそれを聞きながら自分のヒゲを引っ張ってのばす。

「しかし人は皆IDを持つし、ネットワークではつながっているのだろう?」

「そうなんだけど、見た目のカスタムでつながってた仲間はやっぱ、会ってないと話す話題もなくてさ。自然消滅ってやつ?」

声色は明るく作っているが、寂しさは隠し切れていない。少なくとも猫にはそう思えた。

「子供達には子供達の悩みがあるんだねぇ」

「もう子供って年でも無いはずなんだけどな……」

そう言いながら巡回ロボットの指向性レーザー通信にレーザーを返す。いつも通りの雨の中、それほど太くない道を歩いていく。

「また首を突っ込むのか」

角を曲がったところに、狩衣のようなデザインのロボットが立っていた。

「まだ何も決めてないよ」

猫の手が刀の柄にかかる。

「邪魔しようというのではない。何でも斬ろうとするな」

声はそう言っているが、片手はすでに袖に収納されている。

「何でもは斬らないよ。気に入らないものだけさ」

「つまり、何でもということだろう?」

カードのような物が袖から射出される。それは空中で小さく火を噴くと軌道を変えて猫に襲い掛かった。

「うわっとっと」

光量をほぼにゼロに落とした面発光が慌てて後ろへ飛ぶ。猫はそれを視界の隅に捉えながら、開いた傘を正面に構えた。逆噴射をかけたカードが空中で静止する。

「陰陽師が絡むような話なのかい」

「ちゃんとした仕事ではない、アルバイトのようなものだ」

傘はまだ正面で開いている。ひげが水滴を蓄えている。

「……これも給金の出る仕事なのかね?」

ロボの両手は既に袖の中に収納されている。そして袖は猫の方にねらいを定めたままだ。それはつまり、いつでも多様な攻撃を仕掛けられる状態を維持しているということだ。

「人の仕事には、守秘義務という物があるのだ」

「それくらいは知っているよ。それなりの時を人と共に生きているからね」

それを聞いて何を思ったのか、陰陽師ロボは空中に静止させていたカードを袖の中に戻すと、腕を下ろした。

「それなりの時、かね」

一瞬間をおいて、吐き捨てるような声が聞こえてくる。

「結局こいつは今もただのラジコンだ」

傘をさしなおした猫が、軽く息を吐いて、問う。

「……壊してもいいのかい?」

「できれば壊さずに行ってくれないか。一から作り直すのは面倒なのだ」

その声は、長い時に疲れ切ったように聞こえた。だからだろうか、猫は余計な一言を言わずにはいられなかった。

「次は壊し甲斐のあるやつを頼むよ」


「昔の方が陰陽師らしかったと思うがなぁ」

「昔かぁ。そういえば、妖気があれば何でも滅する、みたいなこと言ってたねぇ。あれはラジコンではなかったと思うんだけどね」

猫と傘は呑気にかつての陰陽師ロボを思い出していた。

「えぇ……あのおっかないロボは結局何だったんだ」

まだ光量は絞ったままつぶやく声に、猫が答える。

「迷いに迷って作ってる人にもよくわからなくなった、一風変わった発明家のからくり人形、といったところですかね」

「以前会ったときは自分で喋ってたんだぜ」

ぴた、と猫の雪駄が止まる。雨の中だというのに白い足袋には全く汚れが見られない。ただ、足音が止まり、雨音だけが周囲を包む。猫の視線の先には黄色と黒の立ち入り禁止KEEP OUTのテープの張り巡らされた一角。一瞬そのテープに鈴なりのてるてるぼうずが見えた気がして、猫は目を細めた。


「ふむ……」

猫が目をこする。

「なるほど明日は雨が降るな」

傘がからかうような声を上げた。

「別に顔を洗ってた訳じゃあないよ。それに」

言葉を区切ると傘を斜めに傾け、細めた目で空を見上げる。

「雨以外の天気が見られるなら見てみたいもんだねぇ」

軽口を叩きながら、視線を立ち入り禁止のテープに戻す。微かに振動しているらしいそれが、雨水をはじいている。

「ふむ」

一歩近づく。

テープが震える。

また一歩。

「うーん」

不意に、ぶん、という音が響く。道路の、壁の、空中の、水滴が一瞬すべて弾け飛ぶ。滅多にない乾いた壁、乾いた道路が現れる。

 猫は開いた傘をいつの間にか正面に構えていた。その後ろに面発光の若者をかばっている。

「こちらからちょっかいをかけるつもりはないんだけどねぇ」

 雨はまだ降ってこない。

「やるねぇ」

ちらっと上を見る。

「あのぐらいはできるぞ」

手に構えた傘からは不機嫌そうな声。

「知ってるよ。ただ、ほかにもできるやつがいるとは思わないじゃないか」

「もっとすごいこともできるぞ」

あっという間に機嫌が直る。

「柄を引き抜くと刀になったり」

「さすがにそれは無理」

「……そうだったかね?」

猫が首を傾げる。

「いつから俺をさしてんだよ……」

長いつきあいである。少なくともこの町ではずっとこの傘を差して歩いてきた。

「忘れるぐらい前から、かねぇ」

「なぁ……」

面発光が後ろから声をかけ、前に出ようとした。

「あ」

そこに

「おい」

鈍い発射音、破壊音。飛び散る面発光素子の破片。落ちる腕。

「え」

すぐに傘を構えなおす猫。すると。

「……かっっっけぇ!」

今までになく体中の発光素子を点滅させている。地面に落ちた腕以外。しかし。

「かっこよくはない。少し軌道をそらすのが遅れたら、死んでいたかもしれないぞ」

 面発光の声のトーンとは反対に、猫の声が低い。

 ふぅ、と息を吐いて、傘を手放す。

「仕方ないねぇ、一人で行くとするかね」

 開いたままの傘は、滑るように移動する。

「カスタムのネタが増えたんじゃねえか?」

「そうだな!でも、猫の人は怒らせちまったけど……」

「心配いらねぇよ。ありゃあ、八つ当たりみたいなもんだ」

 もちろんそのやりとりは猫にも聞こえている。が、相手はせずに刀の柄に手をかけた。ざあっ、と雨が降り始める。

「雨の降り始め、というのも珍しい……」

ギン、という音が鳴る。猫が刀で弾をはじいているのかもしれない。刀を抜いているようにも見えず、ただ歩いているようにしか見えないが。

 あと数歩で立ち入り禁止KEEP OUTのテープ、というところで地面から一列に並んだ人影が飛び上がる。

「蛮勇教会かっ!しまった!」

生身に近いボディに、カーボンファイバーで編んだ法衣を纏った男達である。手には棍。頭には黒いバイザー付きのヘルメット。顔は見えない。見た目で性別はわからないのだが、蛮勇教会のメンバーは男だと言われている。

 一見木のようだがきっと合成素材でできているであろう棍が一斉に猫に向かって振り下ろされる。しかし猫が気にしているのはそれではなかった。

「蜘蛛の糸か!片手を落としたときに気付いていれば!」

刀を振り抜き、周囲の男達を纏めて薙ぎ払う。後ろを振り返れば、空からスポットライトの当たっている面発光のメタル者。

「しかし何故?」

次々に飛びかかる蛮勇教会の男達を蹴り飛ばす猫。

「なんとかならないか!」

浮かび上がるメタル者、ふわりと降りる傘。

「ならねぇなこれは」

傘の落ち着いた声に、猫も少し普段の調子を取り戻す。

「そうか、ならないか……いや、すまないね」

「いいってことよ。で、どうするよ?」

逆立っていた毛も徐々に落ち着いていく。雨水はしっかり含んでいるが。

「持って行かれたものは仕方ないが……理由がわかないねぇ」

今も彼らの上で、スポットライトの当たった片腕のメタル者が空に上がっていく。が、すでに猫はそちらを見ていない。周囲には黒いカーボンファイバーの法衣を纏った男達が倒れている。

「一応調べていこうか」

そう言うと猫は傘を差しなおし、立ち入り禁止KEEP OUTのテープをまたいだ。


「なるほど、これ自体が」

テープの内側に入ると、景色が一変した。

「まともな神経じゃねぇなぁ」

張り巡らせたテープに対して、上向きにぶら下がるてるてるぼうず。

「ある程度はあの時の再現なのだろうが……根本的に違うものだよねぇ」

その一つを手に取りながら猫が何かに向かって語りかける。

「天使と、雨降り小僧……あるいは驚天砲のほうかな」

「本物でなくても良いとなると……カタチを真似て、何を起こしたいのかな」

「何であっても良いだろう?」

張り巡らせたテープ、その空間の真ん中にそれは居た。破れた傘のようなカバーの隙間からのぞく小さなライト。

「居るだろうとは思っていたが、本当に居るんだねぇ」

「そりゃあいるさ、ここはそういう場所だもの。そして確かあんたはこう言ってたはずだよ。ネコというのは案外どこにでも潜り込めるものだ、ってね」

小さなライトが高速で点滅している。それを見た猫が少し眉を寄せる。

「なるほど、だからしつこく入れない場所立ち入り禁止だとアピールしてたんだねぇ。蛮勇教会の連中も外で待ってたみたいだしね」

「彼らはお行儀が良いからね」

「違いない」

猫はくすりと笑った。

「流石に、蜘蛛の糸は斬れないんだね」

その声はこの空間の中心からではなく、すべてから伝わってくるようだった。

「斬れないというか……斬る時ではなかったというか……」

猫が傘を右へくるくる、左へくるくると回す。

「まあ、その、なんだ。時がくれば斬るよ」

「そっか、時がくれば、あれも斬っちゃうんだ、斬れちゃうんだ」

いつの間にか周囲の空間が青く、暗い。そしてここに雨は降っていない。

「良いね、良い色だ」

猫が見回して呟く。

「余裕なんだなぁ」

「ビックリしたらあわてるさ、ネコだからね」

それは挑発の意図があったのか、なかったのか。

ともあれ、その台詞を受けて無数に並んだ逆さまのてるてるぼうずが一斉に揺れる。

「この程度じゃびっくりしないかぁ」

「もう子猫ではないからね」

髭を指で引き伸ばしながら言う猫。

「坊主、驚かせようと思ったらな、タイミングを外すんだよ。忘れた頃にやらねえとダメだ」

「さすが、驚かせることに特化した妖怪は違うねぇ」

相変わらずの軽口に、声は深く暗い調子で反応した。

「妖怪……そう、妖怪。なんなんだろうねほんとうに」


「時々何かに取り憑かれる人がでるだろ、僕みたいにさ」

「憑き物、と呼ばれているねぇ。いや、呼ばれていた、と言うべきなのかな」

口調とは裏腹に、猫の顔は苦々しげだった。

「自分が自分ではなくなり、別の何かが混ざる。それは大昔に語り継がれた妖怪のような」

「ような、ね。まあ、そうだねぇ」

猫はロープで区切られた空間の中心にいる、破れた傘を被っているような人影をじっと見ている。しかし、声は相変わらず周囲から伝わってきていた。

「自分がそうなるとは思ってなかったけどさ」

声の調子の変化に合わせるように、猫の手が刀の柄に添えられた。いつのまにか傘を手にしていない。

「でもさ、違うんだろ?憑き物とか、妖怪とか、そういうものとは、本物のそういうものとは違うんだろ?」

「人間が」

そこで一旦、口を噤む。何かを考えるそぶりを少し見せた後、猫はまた口を開いた。

「人間が気にするようなことではないねぇ、それは」

「人だと言うのかい?僕が?」

ふぅ、と溜息を吐く。

「妖怪はねぇ、そんなことで悩まないのさ」

そう言うと猫は刀から手を離し、手をぽんと叩いた。

「さて、邪魔したね」

「行くのかい?」

その声を後ろ、、に聞きながら、猫は片手を上げた。

「子供がさらわれてるからねぇ」

その手の中に傘がふわりと降りてくる。

「もうちょっと構って欲しかったんだけどなぁ」

「どうせまた来ることになるさ」

後ろ姿が立ち入り禁止KEEP OUTのテープを越える。見えなくなったその姿に向かって、ぽつりと声が掛けられた。

「ここから登った方が早いのになぁ」


「何か見えたかい?」

差した傘に声をかける。雨をはじく音が戻ってきている。

「まあ、多少はな」

傘の声を聞きながら、猫はひざを曲げてしゃがむと、落ちていた機械の腕を拾った。雨に濡れたそれは、昔見た茶器のように良い具合に溶けているように見えた。

「あまりじっくりと見る機会はないが、なかなか見事なものだねぇ……で、どうだった?」

すっと立ち上がった猫の袴の裾も白い足袋も、全く濡れたり汚れたりしていない。

「あそこの上が、繋がってるんだろうな」

「なるほどねぇ、妙なちょっかいをかけてくるわけだよ」

あちこち向きを変えながら腕を眺める猫。

「じゃあ、気が向いたらお邪魔しようかねぇ。でも、まずはコレだ」

「そんなもんどうするんだよ」

傘のあきれた声に、猫は目を細め、鼻を少し動かした。つられてヒゲが揺れる。

「わかってないねぇ。今これは天使の腕、、、、なんだよ?」

「……高く売れる?」

一瞬考えた後傘の出した答えに猫の肩が小刻みに揺れた。

「あのセンセイが変な気を起こさないように念押ししないといけないねぇ」

「センセイか……まだやってるかな」

「その前に」

震えていた肩が止まり、目がすう、と細くなる。そして、手に持った機械の腕を器用に動かし腰から刀を抜いた。片手は傘を差したままである。

「お客さんの相手をしなきゃあねぇ」

「俺はその辺に置いといてくれてもいいんだぞ」

それを聞くと猫はくすりと笑い

「嫌ですね、雨に濡れるじゃあないですか」

刀を横に振るう。機械の腕でつかんだ、普段よりリーチの長いその刃は、いつの間にか近づいていた何者かの腹を掠めた。

「やはり扱いが難しいですね」

「化け物め」

忌々しげに呟いたのは、鱗のような装甲を持つメタルボディ。手足にはご丁寧に水かきまで付いている。

「半魚人に化け物呼ばわりされる日が来るとはねぇ……」

「ハンギョジン?なんだそれは」

後ろからさらに何体か集まってくる。

「我らは……」

説明しようとしたその言葉を、猫はあっさりと遮って言った。

「どこぞの地下寺院の子飼いだろう?面倒だから細かいことは聞かんよ」

構えた機械の腕が淡く光る。

「斬って斬れるなら同じ事だ」

「そう簡単に斬れると思うな!」

そう叫んだのは最初に飛びかかった者だろうか。

「斬れるさ」

一歩も動けぬままにきらめく鱗は綺麗に上下に分けられた。生身ではないため血を噴き出したりはしないが、代わりにオイルや冷却液だろうか、茶色や緑の液体が油膜を作ったり雨水に溶けて流れたりしている。

「というか……斬った」

そのことに誰も気づかぬまま。

「……年かねぇ、動くのが面倒でね」

「はいはい、老けた老けた」

すでに終わったかのような物言いに、他の半魚人達が何か言おうとしたが

「あ……遅かったか」

皆膝から崩れ落ちた。濡れた路面に流れた液体の花が咲く。

「動かない方がいいぞ、と言ってやるべきだったかね」

刀を鞘に収めながら嘯く猫。もちろん猫自身が掴んでいるのは機械の腕だ。既に光は消えている。

「無駄だろうけどな。まあ、どうせお仲間が回収に来るだろ」

「最近は廃品回収屋ガベージコレクタの動きも早いと聞くよ。お仲間が間に合うといいねぇ」

昔に比べると非人機の数も種類も増えた。それらは裏通りだけでなく表にまで出てきて、町を清潔に、、、保とうとする。

「それにしても、意外と便利なものだねぇ、機械の腕ってのは」

「天使の腕だからじゃねぇの」

その機械の腕を器用に動かし、指先で額を掻く猫。

「ああ、そういうことなのかね」


 その壁の何に触れたものか、天使の腕は確かに何かを押し、そしてその結果起こるべき結果としてチャイムが鳴った。

「誰じゃい呼び鈴なんぞ押すのは」

「なるほど奇跡だ」

放り込まれた傘立ての中で、傘が呟く。中から出てきた六本腕のドクターは円筒を正面だけ平らにそぎ落としたような顔をしていた。サイズと色のそれぞれ違うレンズが四つ。非常にすっきりとした顔をしている。

「なんじゃ、また金にならん話を持ってきたのか?」

人型の二本の腕と背中の四本の作業アームを動かしながら、四つのレンズは猫の顔を映している。

「以前、天使について伺ったのを思い出してまして」

「ふむ」

レンズが猫の持つ機械の腕を捉える。

「確かに話したの。しかしその腕についてなら、こっちの領分ではないのぉ」

 ドクターがかつて猫に語ったのは電池としての、この町の天使の話である。人を元に作られ、使い捨てのエネルギー源となるそれについて、なぜこの闇サイバネドクターが知っていたのかはわからない。

「模倣であるということは、オリジナルもあるということよ」

胴体のいくつものランプを点滅させるドクター。

「しかし、見立ての対象はあくまでまがいものの天使だったのでは?」

「本物かどうかはあまり関係がないの。ほれ、これを持って中層に行け。少しは詳しい話が聞けるじゃろ」

そう言うと背中の作業アームが棚からカード状のメディアを取り出し猫に差し出した。

「恩に着るよ」

猫はカードの対角線を親指と人差し指で押さえると器用にくるくると回しながら、ドクターに背を向けた。

「ああ、そうだ」

猫が振り向かずに言う。

「この腕は置いていくけど……売り飛ばさないで欲しいねぇ」

そして傘をとって出て行った猫の後ろ姿が小さくなるのを見送ってから、ドクターはぼそりと呟いた。

「……そんな物騒なモノが売れるわけなかろうが」


 また雨の中を行く一匹と一本。激しい雨音の中、声は心なしか大きい。

「で、今度は中層に向かうってのか?物好きだなぁほんとに」

「ネコってのは好奇心で死ぬ生き物らしいからねぇ」

 人語を解し服を着て道具を使い人に混ざって生きるようになり、長い長い時の中で人の営みの移り変わりを眺めてきた。さすがに子猫の頃のようにとまでは行かないが、それでもなおいろいろな物事に首を突っ込みながら存在しているのがこの猫だ。

「化け猫も死ぬのかい?生き物じゃねぇけど」

「死んだことがないからわからないねぇ」

 そんなことを話しながら、ネオンを模した看板の前にやって来た。本物のネオンサインでないとはいえ、このタイプの看板もずいぶん減った。

「エレベーターでも良いんだろうけどね」

 そう言いながら傘を背負い、壁に手をかける。ずっと前にもここを登った。あのときとは事情が違うが、登り方を知ってるここから登るのが一番早い。

「早いというか、面白いんだろう?」

「まあね。あのときと違って邪魔は入らないだろうしね」

 勿論パトロールドローンは近くを飛んで警戒する。が、猫はもうそれを気にしない。

「俺は今でもこいつらが嫌いだけどな!」

 猫の背中で傘が吐き捨てるように言った。


 いつか登った時よりはずっと簡単に壁を登り、振動で弾き飛ばそうとする仕掛けもかわす。

「わかっていればなんということもないねぇ」

 壁を這う細いパイプの上に器用に雪駄で立ち、猫は壁を見上げる。少し上に小窓を見つけ、そこまでのルートを少し考えていたようだったのだが。

「もういい、飽きた」

そう言うと背中に背負った傘を抜く。

「満足したのか?」

「満足というか……つまらないねぇ」

右手で柄を持ち、左手を畳んだままの傘に添える。

「今更だけどな、傘ってのはそんな持ち方をする道具じゃないんだぜ」

「昔見た子供たちは、こんな構えをよくしてたけどねぇ」

傘のあきらめたようなため息とともに、猫の目の前の壁が崩れ、人一人が入れそうな穴が開いた。

「そのうち銃弾を出せとか言われそうだな」

「ずだだだだだ、って言ってあげるよ」

「出さねぇからな!」

冗談を口にしながらも猫の目は鋭い。

「こんなところにいるものだったかね?」

その視線の先には、サーチライトを照らしながら近づくドローンが三機。しかし。

「まてまて、いつもの虫じゃないしその向こうに何か……」

「おやおや、躾の成ってない猫ちゃんだな」

逆光になっていてよく見えないが、目を細めてみるとドローンの向こうから現れたのは、周囲にいくつかの球体を浮かべた人型の何者か。よく見ると腕は肩から少し離れて浮いている大きめの球体から生えている。

「野良なものでね、マナーが成ってないのは大目に見てほしいね」

「……カードキーを持っているのだろう?素直にゲートから入ってきたら良かっただろうに」

 ドローンがどうやら猫の袂に入ったメディアの存在をスキャンしたらしい。

「使い方を聞いてないんだよ。これを持っていけば話が聞けるらしい、ということしか知らないからね」

「だからといってあまり無茶をしないでほしいのだが……まあいい、壁は直させておくからそこを出て左へ行くといい」


 猫は部屋を出るとすぐ右に、、向かった。

「なあ、今更左右がわからないとか言わないよな」

 傘が怪訝そうな声で問うが、猫はどこ吹く風である。

「先にあの子供を迎えに行かないといけないだろう?」

 木の床に濡れた足跡をつけながら猫は古ぼけた木造校舎のような通路を歩いている。

「場所がわかってるような口振りだなぁ」

「場所はわからないさ。だけどねぇ」

 言葉とは裏腹に、行動には迷いがない。

「さらったのが蛮勇教会なら、聞きに行く先も蛮勇教会だ。違うかい?」

 そして、口調にも迷いがなかった。

「なるほど、天使の見立てだの何のって話は後回しってわけだ。で、蛮勇教会の場所はわかるんだよな?」

「わかるわけがないだろう?」

 これも何の躊躇もなく言い切る猫。

「ただね、こっちが勝手に動き回ってれば、それが気に入らない連中が向こうから来てくれるんじゃないかと思ってね」

「あのなぁ……」

手に提げられた傘があきれた声を出す。

「向こうから来るのは、来てほしい相手だけじゃないだろ……」

通路を歩く猫の上では、天井の直管蛍光灯が時折ジジッという音とともに暗くなる。

「まあ、何が来てもいいんだよ」

傘の柄を持ち替え、床をとんとんと突きながら進む。いつの間にか、左右には窓がずっと遠くまで続いていた。右側の窓からは灰色の雲が見え、窓には雨が当たっている。

「このあたりははじめて来るねぇ」

「場所に意味があるのかは知らんがな」

とんとん、とんとん。

「ここかな、ちょっと止まれ」

「ふむ」

猫が片膝立ちになり、床をなでる。直接ノックする。音の違う場所を見つけると、また少し周辺をなで、目的のものを見つけた。カチャカチャという音は、何か金具を操作しているのだろう。

「もう少し付き合って歩いていても良かったんだけどね」

腰から刀を抜き、床に突き立てる。悲鳴にも似た金属音が遠くから響き、木造校舎のような通路に見えていたものが薄くなっていった。

「景色が変わらないとつまらないだろ」

「とはいえ、こんな劇的に変わられると、ちょっとびっくりするねぇ」

 足元のコンセントボックスのような空間に収まった機械は、刀に貫かれて火花を弾けさせていたが、猫は気にもとめず上を向いていた。工事現場のような鉄骨と足場、そして階段が複雑に組み合わさった構造物。その上の方には大きな黒い球体の底面が見えている。その向こうには星空。本物かどうかは猫にもわからない。

「風情も何もない、ただ在るだけ、、、、、、の足場だねぇ」

「風情とか飾りの部分は俺らがたった今壊したんだよ」

「ああ、そういうことになるのかね」

火花を散らす機械から刀を抜き、鞘に収めると同時に足で床のふたを閉じる。

「とはいえ、わかりやすくはなったんじゃないの」

 当分傘はいらないと判断したのか、傘を背負いなおしながら猫が言う。

「わかりやすいかなぁ……」

納得していない様子の傘。

「あれが基底聖堂なら、あそこに行けば面倒な話は終わる。ほら、わかりやすいだろう?」

「いいやなにひとつわかんねぇよ!基底聖堂がなんなのかもわかんねーし、そこに行けばどうなるのかもわかんねーよ!」

 ふぅ、と猫が小さく息を吐く。

「……わかるとは何か、を問うている?」

「そういう哲学的ななにかじゃねぇよ!」

そんな話をしながらも、猫は階段を上り、球体に近づいていく。

「大きいね、そして遠いね。なかなか近づいた気がしないよ」

「もう化かされてはいないと思うんだがなぁ」

猫が立ち止まり、鼻を少し動かした。

「あの小さな小さなからくりどもは、下よりずっと濃いけどね」

周囲を目に見えないナノマシンが漂っているらしい。

「それは……何が起きても不思議はないなぁ」

「少し急ごうかね」

そう言うと、特段駆けているようにも見えない猫の移動速度が上がった。


「やはり案外遠かったねぇ」

猫の前には大きな丸いハンドルのついた、たくさんの鋲の打たれた扉。いくつも並ぶ同じような扉のひとつに手をかけながら猫がぼやく。

「本来ならたどり着くことのない、、、、、、、、、、場所だからな」

 扉の向こうから声がした。

「基底聖堂にようこそ、と言うべきかね?」

「招かれなければ入れない類の怪異とは違うのでね、挨拶はなくても結構だよ」

 猫がハンドルに手をかける。

「それに、たどり着けさえするなら、誰にでも門戸は開かれているのだろう?」

「たどり着けさえするなら、確かにその通りだよ」

声の調子は些か挑発的だ。

「なるほどね」

傘が猫の背中で言う。まるで腕組みでもしているかのような声だ。

「まあまあ。別に入れてもらえなくてもいいんだよ」

扉の向こう、見えないはずの誰かを見据えた猫の目が細くなる。

天使、、を一人、返してくれないかい?片腕の子なんだがね」

「返す?おかしなことを言うものだ」

空気が震える。

「天使を?地上の者に?返す?」

「ああ、その子は地上の者だからねぇ」

明らかな怒りの表現をどこ吹く風で流しながら、しかし猫の目にも確かに何らかの意志が浮かんでいるようだった。

「攫った子供を返せといってるだけなんだが、わからないかい?」

扉を挟んだ両者の間で緊張が高まる。

「そもそも、私はここから動いていないし、ここに誰かが人を連れ込んだりもしていない。天使がどうというのは脇に置くとしても、ここに返すべき何者かが居るということは有り得ないのだが」

「御託はいいんだよ」

背負った傘を手に持ち直す。

「他に言い残すことはないね?」

「何?」

轟音とともに、猫の前にあった頑丈そうな扉は吹き飛んでいた。

「穏便に済ませてやろうと思ってたんだけどねぇ」

そう言いながら傘の先端から鳥の羽のようなものをはずして袂に仕舞う猫。

「嘘吐け」

気圧差があるのか、扉のあった空間からナノマシンを多く含んだ風が吹きつける。

「馬鹿な、不連続空間結界だぞ」

「いやな風だね。紛い物の妖気が濃い」

その奥で何かを叫んでいる声を気にもかけず、猫が呟く。

「まあでも、そのおかげで呼べる、、、んだろ?」

「それはそうだがねぇ」

ぱん、という小気味良い音とともに傘が開く。

「ま、まずはあれを何とかしてからだねぇ」

 目を細めて奥をのぞく猫。中は薄暗く、複雑にパイプの走る壁に覆われた空間が僅かに赤く光っている。その中心にわだかまる影から、怒りに震える声が響く。

「何とか、だと?地上の者が、何とかできる、と?」

「とりあえずご自慢の結界とやらは、何とかなったみたいだけどね」

 声の位置を中心に妖気のようなものが渦巻き始める。

「余りに無礼だと手加減もできなくなるのだぞ」

「おお怖い」

 意に介さず猫は空間の内側へ一歩踏み出す。さらにもう一歩。体が境界線を完全に越える。後ろにあるはずの壁が失われた。

「そういう仕掛か……」

 ひげをふるわせる猫。

「思ったよりしょぼいな」

 傘の声が後を追う。

「基底聖堂、さすがに名前負けじゃないかね。さしずめ……」

「黙れ!」

 空気が震え、変わる、、、。声の位置と猫の間に無数の赤い鳥居。いや、間だけではなく、左右にも無限に広がる鳥居。

「闇雲に頼る、、んじゃないよ」

 空には満天の星空。視線を落とすと、雪駄が踏みしめているのは石畳に変わっている。

「こっちの方が好みではあるけどね……」

 ついヒゲを引っ張ってしまう。

「しょぼいことにかわりはないな。手品の仕掛けはもうないのかね」

「いくら強がってみても、近寄れはしないだろう?」

「なるほど」

 その言葉はため息とともに吐き出された。

「つまらないねぇ」

 猫の手が水平に動く。その手には刀が握られていて。

 近寄れないはずの、距離の概念を超越し無数の鳥居の先にあったものが、横一文字に斬られていた。


 超常の距離が。無限の隔たりが。呻き声のような音と共に単なる彼我の距離に畳み込まれる。

「斬ると言ったものは斬るんだよ」

「言ったか?」

「……言い忘れたかねぇ」

「有り得ぬ……有り得ぬ……」

 上下に分かたれたそれ、、が、声を絞り出す。

「我らは神にも近しい力を……」

 猫の口から漏れるのは、溜息。一歩、また一歩と距離を詰める。周囲の光景はさらに変わって、猫が立っているのは細い足場キャットウォーク。周囲には一面のケーブル、赤い照明、あちこちに貼り付けられたメモ書き。

「たまたまナノマシン工場で死んだだけじゃないのかい」

「たまたまなものか」

 なぜか応えたのは傘だった。

「わざわざここを死に場所に選んだのだろう?何者かになれるかもしれないと、その可能性に賭けたのだろう?」

 それは古い古いIDを持つ何者かの、痕跡のようなものだったのかもしれない。人工の妖気によって形を得てしまった、そこに本来なら留まるべきではなかったはずのもの。それに終わりを与える。猫の手の中にいつの間にか握られていたのは、短い方の刀。その刃が、そこにあった人の痕跡に吸い込まれる。

「ああ、そうか。私は」

「ん?」

 ヒトであったものが、最後の声を上げた。

「私は、ヒトか」

「そうだね、ヒトだろうね」

 それに対して心底興味なさげに猫は呟いた。


「とんだハズレをひいちまったもんだよ。無駄に手間がかかっちまった」

 短い刀を鞘に納めながら猫がぼやく。

「素直に蛮勇教会に殴り込んだ方が良かったか?」

「その方がマシだったかもねぇ」

 軽口を叩きながら開いた傘を通路に立てる。

「でも、後は呼ぶ、、だけだし、終わり良ければって奴じゃないかい」

「まだ終わってないけどな。特に俺」

 開いた傘が、ゆっくりと回り始める。

「まあそう言わずにさ、ここが消える前にちょっと頼むよ」

「そのためにこっちに来たんだしな、わかってるけどよ」

 言葉に風切り音が混ざり始める。

「傘使いの荒い猫だぜ」

「今更だねぇ」

 回転する傘の前に、猫が持っていた腕を置く。開いた傘の縁に電撃が走る。

「本職ではないがこのくらいなら……」

 そう言うと猫は袴を払い、胡座をかいた。

「略式ではあるが」

 目を閉じ、手刀を切る。口の中でなにやら唱えつつ、同時に喉からはごろごろと音を鳴らす。人工の妖気がそこにあつまり、うねり、限界を超えた濃度になるそのとき。

「来ませい!」

 ぱん、と手を叩き、目を開く。瞳に機械の腕と、電撃が映る。回転する傘の表面に複雑な文様が浮かび上がった。あるいはそれは魔法陣だったのかもしれない。

「……!」

 声にならない叫びは誰にも聞こえず、しかし空間に確かに作用した。音もなく軋みよじれるその場に、町のどこかとのつながりが生まれ、道が通される。場所という意味が、そして二点間の距離が破壊され、機械の腕と、猫の持つ天使の羽根、、、、、を触媒に、面発光素子を全身にまとったメタル者がその場に落ちてきた。気を失っているようだ。

「都合がいいかもしれないね。さっさとつれて戻ろうか」

「ま、ここにいてももうやること無いしな」

 いつの間にか回転をやめた傘が、ひとりでに畳まれながら言葉を続ける。

「それにしてもきれいさっぱり使い切ったもんだな」

 そしてメタル者を担いでいる猫に問いかけた。

「基底聖堂なくなるとどうなるんだ?」

「あれ、知らなかったかい?」

 猫が傘の方に振り返る。

「新たな基底聖堂がどこかに生まれるんだよ」

 傘を掴み、基底聖堂であった空間に背を向ける猫。その顔は、すでにその場への興味は失っているようだった。


「しかし、あの刀は見えてれば何でも斬れるのか?」

 部屋の外から傘の声がする。いつものように傘は外の傘立てに居るのだ。それに部屋の中から猫が応える。扉はない。

「斬れないよ。刃が届けばたぶん何でも斬れるだろうけどね」

 刃が届けば何でも斬れる、というのはそれだけでもとんでもない話である。

「じゃああの時は」

 無限の鳥居の向こうにいたはずのものを、横薙ぎに一閃したはずだ。あの時そこには確かに届くはずのない距離の壁があった。

「ああ、あれかい。高いところにいたからね。ここよりは色々できるんだよ」

 それを猫は事も無げに言う。

「そういうもの、、だったか?」

そういうもの、、、、、、なんだよ」

 微妙にニュアンスが食い違っているような、奇妙な空気が流れた。しかし、その空気は侵入者によって霧散する。

「猫の人!」

 面発光素子を酸と重金属の雨に濡らし、色とりどりの光を乱反射させながらその侵入者は扉のない部屋の境界を超えてきた。

「無事だったかい」

 そちらを振り返り、目を細める猫。

「おや、その腕……」

 片腕の肩から肘にかけて、真新しい外装はしっかりコーティングが施されているだけでなくその上にはフィルムまで貼られていた。

「ああ、先生につないでもらったついでにカバーも新しくしてもらってさ。せっかくだから猫の人に見てもらおうと思って」

 どうやら出荷時の保護フィルムもそのままに見せに来たらしい。

「そうだ、これ」

 どこからともなく取り出したのはギアオイル缶。

「……せっかくだしありがたく頂こうかね」

 少し目が泳いだのにメタル者が気付いたかどうか。

「その腕も剥がすのかい?」

「フィルムは剥がすんだけど、コーティングは残しても良いかなって思ってさ」

 それを聞いた猫が、目を見開き、大げさに驚いてみせる。

「おや、どういう風の吹き回しだい?アイデンティティだとか言ってたと思ったけど」

「……ここだけ溶けてないのも、ちょっとかっこいいかなと思って」

 以前アイデンティティなどと大きなことを言ったのを持ち出されて少し毛恥ずかしくなったのだろう、声に勢いがない。しかし猫は手酌で杯に注いだギアオイルに舌を近付けながら言った。

「いいじゃないか。趣味も、アイデンティティも、変わっていってこそヒトだろう?」

 舌が油に触れる。逆立つ猫の毛。部屋の外からは変わらず雨の音。

 この町の雨は、止むことがない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

電脳都市<サイバーシティ>の猫又侍 城乃山茸士 @kinoppoid

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ