猫と傘、天邪鬼に会う

 この町の雨は、止むことがない。低く垂れ込めた雲と、常に響く雨音。星も月も、太陽さえもその姿を見せることはない。とはいえ、雨が和らぐ日というのは、無いわけでもない。ただ、雨音が小さく雨が霧のように降るそんな日は、シリコンやバイオ素材のシームレスボディでもない限り細かい隙間にまで強い酸の雨粒が入り込む。そのためいつもより見通しの良い通りに人影はまばらで、その分生身に近い見た目をした者が普段より心持ち多く見える。


「傘がいるかどうか悩んでしまう天気だねぇ」

「そう言いなさんな。自慢のひげをしっかり守ってやるからさ」

「守られなくてもしゃんとしてるから、自慢のひげだ」

芝居がかった口調で言うのは猫の顔をした和装の人影。和傘をさし、腰には二本差し。まるで侍のようなその格好は、奇異な格好をしたものの多いこの町でも特に珍しい。

「あー、それなんだっけなー」

人影は一つに見えるのだが、もう一つの声がする。

「ま、覚えちゃいないんだけどね。むかーしに読んだか、見たか、聞かせて貰ったか……」

何かを思い出すように、猫の顔が斜め上を見上げ、視線が遠くへ投げかけられる。もちろんその先に答えはない。

「雑だなぁおい」

あきれた声がする。

「まあアレだよ。何かしら、有名だったやつさ」

猫は変わらず遠くを見たまま、ひげを指でつまんでごまかしている。どうにも、しゃんとしているように見えないのは気のせいか。

「ま、置いて行かれて困るわけでもないがなー」

 やはり話の内容からすると、何の変哲もない和傘にしか見えないそれが話しているようだ。この一匹と一本はいつもこうやって他愛もない話をしながらこの町を彷徨っているのだろう。


 太陽が姿を見せないと言っても雲の向こうで日は落ちる。ビルの隙間から見える空がだんだん暗くなれば、サーチライトを備えたパトロールドローンが飛び始める。ある程度の高さを超えて飛んだものや、ドローン自体に危害を加えたものに反応するほか、たまに何かを探しているような動きをするそれは、多くの人にとっては、夕暮れ時を告げる景色の一つだ。もう少しすれば大昔からネオンサインと呼ばれ続けている、ネオンガスの使われていない発行チューブの看板が点りはじめ、夜の景色に切り替わっていく。

「黄昏時ってやつだねぇ」

人に近しいシルエットがいつもより多い町に懐かしさを刺激されたのか、猫がぽそりと呟いた。

「猫の目には、くっきりと見えるんだろう?」

「無粋だねぇ……」

溜息をつく猫。

「そりゃ、薄暗いから顔が見えないなんてことはないけどね」

そう言いながらすれ違う人々の顔を見る。

「くっきりはっきり見えたって、機械の顔なんか見分けたところで、大して面白くはない……」

そこで不自然に言葉が途切れる。目が何かを追う。しかしすぐに視線を戻して言葉を続けた。

「なんて言っちまったら風情も何もあったもんじゃないだろう?」

他人ひとのことを無粋だ何だと言っといて、自分で風情とやらをぶちこわしにしてるんじゃねえか」

傘が不満そうに言う。

「だいたい、ああいう顔だってよく見りゃ違いが出てるもんだぜ。機械で作って山ほど売られてる傘だって、一つとして同じものはないんだからな」

 それを聞くと猫はまた一つ溜息をついた。

「まあ……そもそも人の顔を見分けるのが苦手なんだがね」

「で、見分けるのが苦手なはずのその目に、何が見えたんだ?」

急に傘の声のトーンが真剣になる。

「何が見えたというか、そうだねぇ……」

猫はヒゲを引っ張って少し悩むと言葉を続ける。

「見分けられる何かが人に混ざってた、と言えば良いのかねぇ」


「人と違う顔をしているというわけでもないんだよ」

傘をさして歩きながら、猫が困った顔をしている。相変わらず歩いても足音もしなければ、地面にたまった水を踏むのに水音も立てていない。足袋に雪駄という足下なのに、真っ白な足袋には汚れも濡れた染みもついていない。

「ただ、人の顔と違って、ちゃんと区別が付くんだよねぇ」

首をひねり、ヒゲを指でひねる猫。

「で、それが何者なのかはわからない、と」

傘の言葉にうんうんと頷く。

「妖気も特に感じなかった、と」

もう空は暗くなり、町はネオンやらレーザーやらで彩られている。雨足も強まって、道路にカラフルな波紋が生まれては消えていく。

「しかし、人の顔がよくわからないってえ時に、逆にはっきりするたぁ……」

看板の明かりに照らされた傘が、ニヤリと笑ったような気がした。

「とんだ天邪鬼がいたもんじゃないか」


「これで三人目かね」

 飛び降りが流行っている。ID喪失死亡にまでは至らないものの、大破して動けなくなりサイバネ医師の世話になったり、修理費がなくしばらく不便をする事になる。

「出会っただけでそれだからなぁ、他にもいるだろうな」

 基本的にこの町には、高さ方向の自由がない。ある程度高く跳べばドローンが警告もなく撃ち落としに来るし、林立するビルには開けられる窓がない。開ければ酸と重金属の雨が浸入するだけなのだから、当然といえば当然なのだが。

「タクシーから飛び降りたりするのかねぇ」

「そう簡単に床をぶち抜けるようなもんでも無いだろう」

「おや、ぶち抜けないのかい?」

猫が意外そうに聞く。

「誰に何を聞いてるんだよ」

 それにさも心外そうに返す傘。しかし、普通の人間にそう簡単に壊せるものでもないだろう。簡単に床の抜けるエア・タクシーは恐怖でしかないし、そんな物が飛んでいるならもっと事故は多いはずだ。

「どこから落ちるんだろうねぇ」

 猫は少し興味がわいたようだった。傘を傾け、少しヒゲを濡らしながら上の方を見る。勿論それで何か変わった物が見えるというものでもなく、暗くなり始めた空にぽつぽつとドローンが飛んでいる位である。

「昼間でも高く跳べばあれがやってくるのは、どんな仕組みなんだろうねぇ」

「さあ……虫のことなんか知りたくもねぇなぁ」

 話に乗ってこなかったのが癪に障ったのか、猫が傘を乱暴に回す。水滴が丸く周囲に飛び散った。

「ああ、そうか」

 猫の目には、ぽつぽつと灯り始めた看板ネオンサインが映っている。

「跳ばなければ落とされない、違うかい?」

「まあ、上にいなきゃ落としようもないわな」

 傘の声は相変わらず興味がなさそうだが、猫は気にせず思考を加速させる。

「しかし……」

 手段はともかく理由、あるいは動機といったものがわからない。何故高いところに登り、そこから飛び降りたのか。

「あれこれ考えるより、飛び降りた本人にきけばいいんじゃねぇの」

「そりゃあ、都合良くそんなあてがあればそうするんだけどねぇ」

「あれ、猫の人じゃん」

 後ろから声がかかる。振り返る猫の目に、黄色く光る面発光素子が飛び込んでくる。メタル者と呼ばれる所謂不良の一人である。コーティングを剥がしたボディを酸性雨に晒し、改造パーツで飾り立てるのが彼らの一般的なスタイルだ。

「こいつのダチがバラバラだってんで、センセーの所に見舞いに行くんだけどなー」

 指をさされたメタル者はその定義からはかなり離れた姿をしている。突起らしい突起の一つもない、つるりとした円筒形のボディ。その正面に小さなレンズがひとつ、それだけである。地面ぎりぎりまでその円筒が続いているため、移動手段は外から判別できない。

「飛び降りかい?」

 しかし猫はその珍しさを気にもとめず、あての方が都合良く向こうからやってきたことに喜んでいるようだ。猫の目がキラキラしているように見えるのは、気のせいではないのだろう。

「どうもはっきりしないんだよなぁ」

 困ったようにボディのあちこちを点滅させる。

「飛び降りの噂は聞いてるけどよ、じゃあどこからどうやって、いや、違うな」

 確かにそれらもわからないのだが。

「そもそも、何のために飛び降りるんだ?」


「せんせー!」

「邪魔するよ」

勝手に扉を開けるとぞろぞろと入り込むメタル者達。その後ろから猫もしれっとついて入る。

「だから呼び鈴を押せと言うに」

六本腕のドクターが奥から静かに出てくる。

「そんなシャレたもんがドコにあるんだよ」

「ココに住み始めたときには付いとったぞ」

先生、またはドクターと呼ばれはするが、正規のサイバネドクターではない。また、時折患者や元患者のパーツをストック、横流しもする、真っ当な倫理観の持ち合わせの少ないタイプの人間でもある。が、金も信用もないメタル者達にとっては他に頼るあてもなく、曰く

「せんせーに無理なら無理なんだろ」

ということで、それなりに慕われ信用もされているらしい。あるいは諦観なのかもしれないが。

「俺ら以外は鳴らすのかよ?」

そんなやり取りを猫は子供達を見るような目で眺めている。

「ほれ、そこの猫の人が前にひとりで来たとき……」

他人事だと思っていたら、突然話の矛先が猫に向かう。

「……鳴らしとったような、鳴らしてなかったような……」

しかも曖昧だ。

「いや、そこの戸口から声をかけただけだったよ」

別にどちらでもいいのだが、つい戸口の方に目をやって返事をする。当然屋内から外のインターホンは確認できない。猫が視線を屋内に戻すと、目の前にはのっぺりとした円筒のメダル者の背中があった。レンズが見えないのでたぶん背中だろう。

「で、何の用じゃい」

「前にダチをかつぎ込んだろ?ほら、バラバラの」

「お前らしょっちゅうバラバラになるじゃろが」

ドクターが色の違う四つのレンズをメタル者達に向けた。

「せんせい、その、落ちてきた」

今の声は円筒ののっぺりだろうか。

「落ちて……おお、どこかから飛び降りたとか言っとったな」

 ドクターが背中のアームを伸ばして後ろの棚から何かを取ると、それを自分の後頭部に取り付けた。外部記憶デバイスの類だろうか。

「で、どうしたいんじゃ」

「見舞いっつーの?とりあえずツラ見てこうかと思ってさ」

「聞きたいこともあるからさ、安物でいいから話せる部品付けてやってくれないかね?」

猫が袂から決済チップを出してちらっと見せた。

「……安物でいいんじゃな」


  猫は人の意志に敏感である。生き物としてのネコの在り方とは異なるその特性は、とはいえ所詮は敏感止まりであって、サトリのように考えていることを言葉として捉えられるわけではない。細かなことは本人の口から聞くしかないのだが、結局このどこかから落ちてきてバラバラになったメタル者から聞き出せた事は、それほど多くはなかった。

「安物とはいえ、そこそこしたんだけどねぇ」

 ただ、どこから落ちてきたのかは本人の口から聞くことができた。聞いていたメタル者は皆妙な顔……あるいは妙な雰囲気になっていたが。

「外壁に貼り付いてりゃあの虫も寄ってこないってわけだ」

 傘の声は嬉しそうだ。

「……登りませんからね。それに……」

 ドクターのところに運び込まれていたメタル者は使えるパーツはほとんど残らなかったらしく、落下の衝撃だけでそこまで壊れてしまうものか、猫は疑っている。勿論闇医者が残ったパーツを売りさばいた可能性も捨てきれないのだが。そして、ギリギリ生きているといえる程度の小さな部品になり果てたそれに、会話ができるだけのユニットを付けてはみたものの、まともな会話にはならなかったのだ。

「カラクリの塊みたいな子供があの壁を登る、まあやろうと思えばそれは可能だろうけどねぇ」

「そんな抜け道があるとも思えねぇし、第一」

「登ったからといって何が変わると言うものでもない、はずなんだけどねぇ」

 発声ユニットを通して吐き出される言葉はあまり意味を伴っていなかったが、どうも自由になる、今の生活を捨てる、というのが言いたいのだ、と猫は理解した。

「ふぅん」

猫が近くのビルの看板に目をやる。そこから視線をゆっくりと上に上げていく。

「登ったら、何かが変わると」

目を細める。

「何者かに、吹き込まれた……?」

傘を傾け、真上を見る。顔が雨に濡れる。

「落ちてくるのがわかっていた……?」

実際登れたのはタクシーよりもずっと低いところまでだろうと猫は考える。

「そういえば」

ふと思い出したように猫は傘を戻すと、傘に向かって話しかける。

「天邪鬼、とか言ってたね。少し前に」

「ああ、言ったな。なんかほら、人の顔の見分けがつくとかつかないとか言ってたときだ」

猫がヒゲを引っ張りながら遠い目をする。

「何か、姫を唆して木から飛び降りさせるお話、あったよねぇ」

「うりひめこ?」

傘が間髪入れずに答えてきた。

「それそれ、それだ」

猫はまだヒゲを引っ張っている。

「天邪鬼、あまのじゃく、うーん」

何かが引っかかっているようだ。猫の脳裏に浮かんだのは、つるっとした円筒のメタル者。

「子供たちの中にあって、あれは異質ではある……」

シンプルを究めるかのようなボディは、メタル者の方向性とは真逆である。

「話を聞いておけば良かったかな……?」


 暫く円筒形のメタル者に出会うことはなかったが、その間にも何人か飛び降りがあったらしい。生身に近い体の者もいて、現場はそれなりに大惨事だったという噂も広まっていた。広報バルーンには建物の壁に登るなという警告も表示されているが、雨に煙って見えはしない。そしてこれは猫には気づきようも無いことだが、ネットワークに直接配信される広報データにはその警告は含まれていなかった。壁を登るという行為そのものをあまり知らせたくないという思惑もあったのかもしれない。

「あいつなぁ……」

 猫は何故かよく会う面発光素子で飾り立てたメタル者から話を聞いていた。相変わらず、ただぶらぶらと歩きながらである。

「なんで俺らとつるんでるのか、俺も知らねえんだよ」

 今は黄色で統一されたイルミネーションを盛大に点滅させながら、しかし声には戸惑いが含まれている。

「悪いやつじゃない、と思う」

話を聞きながら猫はひげを指でつまみ、伸ばす。

「見ての通り、シュミは俺らとぜんぜん違う」

何を話せばいいのか、何を話したいのか、本人にもわかっていない様子でただその音声は発せられていた。それを猫は遮らない。

「いつだったかなぁ」

すうっとイルミネーションの光量が落ちる。話は続く。

「本当にいつの間にか、俺らの中に混ざってたんだよな」

多分遠い目をしているのだろう。レンズのフォーカスが動く音がする。たとえ体の構造がヒトと異なるモノになっても、生身の身体性を捨てても、ふとした拍子に生身の人間と同じような動きが出てくる。それを猫は目を細めて見ていた。猫にはそれが、ヒトにもともと備わった動きなのか、受け継がれた文化のようなものなのかはわからない。ただ、懐かしい生身の人間たちと同じような仕草に、少しだけ心が動かされた気がした。

「俺らのネットワークにつなぐことも滅多にない」

「……なのに、よくつるんでいる?」

傘が雨をはじく小さな音の下で猫が疑問を口にする。グループのローカルネットワークは、メタル者のような所謂不良達に限らず様々な単位のグループで作られ、情報の共有に使われる。管理権限ではすべてが見られるとか、生まれては消える膨大なローカルネットワークのすべてのトラフィックがどこかにアーカイブされているとかいった都市伝説もあるが、誰もあまり気にすることなく便利に使っている。そしてそこに繋がないというのは、グループに属して行動する上では不便しかないはずだ。

「誰かが教えたわけでもなく、集合場所にいつの間にかいる、そういうことが結構ある」

光量を落としたイルミネーションの上を、表面張力が限界を迎えた水滴が崩れて流れ落ちていく。猫はそれを目で追っている。

「不思議なこともあるもんだねぇ」

「そう、不思議なんだよな。不思議な奴なんだ」


「理由や理屈が在ると思うのが、そもそもの間違いなのかねぇ」

傘立てに傘を少し乱暴に投げ入れると、猫は一つ目小僧サイクロプスの扉を推した。

「俺らみたいなのも、いるんだしな」

傘の声を背中に受け、その後で扉の閉まる音を聞く。

「久し振りだね」

マスターの大きなレンズが正面から猫を捉える。その後ろには、どこまでがマスターなのかわからない複雑な機械が鎮座している。

「そうだったかね」

応えながら猫がいつもの席に座る。

「バイオ素材のオイルは劣化が早いからね」

「なるほど、それはすまなかったよ」

何度も廃棄したのだろう。その数がそのまま猫の訪れなかった期間を表すことになる。他にそんなものを注文する客はいないのだから。しかし謝罪の言葉に、マスターはそれ以上何かを言うでもなく、皿に入れた油を猫の前に音もなく置いた。

「マスターは」

猫の指が皿の縁をなぞる。

「正しく時の流れの中に居るのだね」

小さく口に出したそれは、他人に聞かせることを意図していなかった。勿論店内の暗さがマスターにとって意味を成さないのと同様に、この店内で発せられた音はどれだけ小さくてもマスターには全て伝わっているだろう。お互いにそれは承知の上で、見えないことになっているもの、聞こえないことになっているものには触れない。ここはそういう場なのだ。

「ま、つまりは永いんだ」

今度はちゃんと声に出す。そして顔を皿に寄せ、舌を出す。

「永い、確かにね」

「マスターはさ」

猫が顔を上げる。

「上に行きたいと思ったことはあるかね」

「それは、偉くなりたいとか金持ちになりたいとかそういった」

「いや、そういう喩えではないよ」

マスターの言葉を遮る猫。店の暗がりの中で、猫が上に顔を向けた。勿論そこには天井しかない。

「ああ、すまない、わかってるよ」

この町の上。言葉通りの上の方には様々なものがあると言われている。一部の施設はエレベーターを備えていて、ドローンやバルーンより高いところに上がることができるし、タクシーなんかも飛んでいる。そのさらに上は管理区域であるとか、天候の制御エリアであるとか、あるいは貴族がいるのだとか、あやふやな話がささやかれる程度である。

「興味を持ったことがない……んだと思うな、きっと」

マスターは断言を避けた。迷いなのか、遠い記憶の彼方のことはもう藪の中、ということなのか。

「ここにいて、酒を出す。酒じゃないものを頼むかわった客もたまにいるがね。そういうのがずっと続いて、それがこの体であり、この店であり、自分自身なんだ」

マスターの体がどこまであるのか、猫は知らない。もしかしたらマスターも知らないのかもしれない。

「だから、時の流れの中に、正しく居るのかどうかは、自分ではわからないなぁ」

ふっ、と息を吐く猫。

「永いから、かね」

マスターの大きなレンズに視線を戻す。綺麗で大きなガラスと、その奥にある機構が、猫には見えている。

「ならば、そう居られないのは、若いからかね」

在りたいように在り、振る舞いたいように振る舞う猫には、その辺りのことがどうにもわからない。

「居られないのかい」

「居られないのがいて、妙なことを吹き込んだのがいる……」

マスターの問いに応えながら、ヒゲをつまみ、のばす。

「そういうことなんだろうね」

猫は、きっと今の自分はすっきりした顔をしているのだろう、と思った。それはきっとマスターにも見えているのだろう。勿論マスターはそれに関して何も言わなかった。そういう店だった。


「飲み過ぎたかね」

霧のような雨の中を、服をしっとりと濡らしながら二本の脚で歩いている。青灰色の猫の顔にも無数の水滴。

「酔うようなモン飲んでないだろ?」

からかうような声は手から下げた傘から聞こえた。勿論傘は閉じている。

「飲み過ぎた、とは言ったけどね」

すたすたと歩く足取りはしっかりしている。路面は濡れているが、白い足袋には染みも汚れも見当たらない。

「酔ったなんて言ってないだろう?」

「そりゃそうだけどな」

「で……」

猫が目を細める。その視線の先には、のっぺりとした円筒が雨に濡れている。

「どういうことなのかねぇ」

その円筒の向こう、ビルの壁には、看板に手をかけて登ろうとする、半生ボディ。

「……なにをしてるんだと思う?」

猫の目は、その生身の体をメカで補強したような人間の動きを追っている。

「聞くなよ。見たまんまだろ」

「ボルダリング、というのだったかね」

顎に手をやる猫。

「そんなちゃんとしたもんでもないだろ」

「ある程度登ると看板も無くなるだろうに、どうするんだろうねぇ」

 看板というのは人に見られるためにある。皆生身よりはかなり見えるとはいえ、そこまで常識はずれな視力を持つ者もいないこの町の看板は高くてもせいぜい広報バルーン程度の位置までしか設置されていない。店のアピールも実際には位置情報やビーコンを使って直接データを送る方式が主である。

「爪でも立てて壁を登るんじゃねぇの?」

いつの間にか円筒ボディが近くに立っていた。しかしそれを意に介さず傘は言葉を続ける。

「ほれ、あんな風にさ」

猫も視界の端に円筒を捉えてはいる。が、今は壁を登ろうとする半生ボディの方が重要だった。

「ふむ……」

自分に彼らの意識が向いていないことを悟った円筒ボディは、レンズ脇に仕込んでいるであろう小さなランプを点滅させた。

「ふむ」

視線は動かさず、しかし視界の隅に捉えたその光は猫の目にはしっかりと見えている。もちろん猫にはそのような通信を受け取る機能はない。しかし、妖怪である。人の意志には敏感に反応する妖怪である。指向性を持って送りつけられる光信号は、データそのものは読みとれなくともその光に乗せられた意志は、猫には確かに伝わるのだ。

「なるほど」

猫の目がすう、と細くなる。

「どうした?」

手の中の傘が問う。

「なに、安い挑発だよ」

「その安い挑発に乗るんだろ?」

「子猫でもあるまいし、そんな」

「子猫みたいにウズウズしてるんだろ?」

ふっ、と猫が息を吐く。視線を雨に濡れたなめらかな円筒に落とし、傘を畳みながらその横を通り過ぎる。すれ違いざまにぽんぽんと平らな面を叩くその行為にはいかなる意味があったのだろうか。


「ま、気になることもあるんだよ」

畳んだ傘を背負い、雨に濡れながら空を見上げる猫。ビルの隙間には厚い雲しか見えない。視線をゆっくり下げていけば、パイプやケーブル、看板、今まさに登っている半生ボディといったものが目に入り、猫にとってはさほど難しくないルートが見えてくる。

「人が人の体を棄てても、猫や鳥にはならないのだよねぇ」

高いビルを建ててみても、機械の身体を得てみても、人間は積み重ねた平面の世界で生きている。空間把握能力の違いなどという言い訳は、脳の機能も拡張できる現代では成り立たないはずなのに、だ。

「登ろうと決めても、それでも尻から火を噴いて飛んだりはしないんだねぇ」

とりあえず手近な、路上にたてられた看板に飛び乗る。そこからパイプ、看板、ひさし、看板。

「このへんは誰が登っても同じだろうね」

看板はある程度の高さから上には無くなってしまう。下から見えなければ意味がないからだ。とはいえ、猫の身体能力であればその先も大きな違いはない。足の乗るところに足を乗せ、手の届くところに手をかける。下を見るとそれなりの高さになっている。いつのまにか半生ボディは追い越していた。

「でも、まだまだ上かねぇ」

落下した連中の破損具合を思い出す。

「でもなぁ」

背中から傘の声。と、ほぼ同時に壁に水平にラインが表示される。そして流れる警告の文字。気にせず手を上に伸ばす。

「ん?」

ブゥン、という低い音とともに、猫の身体を衝撃が通り抜けていった。同時に壁から離れる手足。

「なっ」

落ちていく猫。

「なるほどねぇ……」

身体を回転させ、背中から傘を抜き、開く。

「傘ってのは、そんな風に使うものじゃねぇぞ」

「まあ、他になかったしね」

ふわ、と着地する猫。

「そんなことより、話を聞きに行かないとねぇ」

「あいつはどうするんだ?」

あいつというのは今やっと猫が叩き落とされた高さの半分くらいにたどり着いた半生ボディのことだろう。猫が少し首を傾げ、髭をのばす。

「やりたいようにやらせてやろうよ」

「ふぅん、そういうもんかね」

 傘の声を聞きながら、すっと細くなった目は、何を見ていたのだろうか。


「探したよ」

 土砂降りの雨の中、傘を差して歩く猫。雨音が声をかき消してしまうが、気にする様子もない。

「いいや、こちらから会いに来たんだよ」

 のっぺりした円筒の表面を水が勢いよく滑っていく。ビルの裏の細い通りにはほかに人影はない。

「落ちて弾けるところが見たかったんだがなぁ」

 円筒は振り返らず、立ち止まった。

「あの程度の高さから落ちて弾ける猫はいないさ」

 するりと円筒が向きを変える。レンズの奥で光が瞬いた。

「猫、なるほど本当に猫なのか」

「そう見えないかい?」

「いろんな見た目のヒトがいるだろ?だから普通はそういうボディなんだと思うじゃないか」

 また、レンズの奥でチカチカと何かが光る。猫がそれに軽く頷いたように見えた。

「普通は、ね」

 ヒゲを弄る猫。

「そういうのは嫌いなんじゃないのかい」

「まあ、そうだけど……ってやっぱりわかってる《、、、、、》んだ」

「紛い物の宿命だねぇ、それっぽい逸話から逃れられないのは」

 傘を軽く左右に回す。水滴が花のように散る。

「それでいて、それに徹することもない。つまらないねぇ」

 刀の柄に手をかけながら距離を詰める。

「待てよ、この体は」

「知ってるよ。その子が教えてくれたんだからね」

 傘の陰で、猫の身体と円筒のボディが重なった。

「それに、もともとそういう物語オハナシだっただろう?」

 あまのじゃくは殺したうりひめこの皮をかぶってなりすます。しかしそれはばれてしまう。きっかけは死体が喋るのだったか、見ていた小鳥が告げるのだったか……

「結局はよくある昔話だよな」

「そうなんだけどねぇ」

 傘を傾け空を見る。いつものように雨が顔を濡らす。

「……なんかこう、すっきりしないねぇ……」


「で、上には行ったのかい?」

バー「一つ目小僧サイクロプス」。マスターが、浅い皿に入ったオーガニックオイルをいつものように猫の前に置く。

「行くつもりなら壁なんてのぼらないよ」

 皿に顔を近づけ、舐める。

「そういうものかい。しかし納得は行ってないようだね」

 マスターの大きなレンズには猫の顔が映っている。

「納得の行くことなんて、ここではめったにないんだろうねぇ」

 声は水音に混ざって聞こえてきた。

「ま、それでもここで飲んでたら、それでもいいかという気にはなるんだよ」


 外に出ればまた霧のような雨。まだ暗くもなく、かといって明るくもないそんな時間。

「ああ、そうだった」

 行き交う人々の中に、猫にとって見分けのつきやすい何者か、、、

「ま、それはそれ、か」

「それでいいんじゃねえかな」

 そんなことを言いあっているうちにも、発光チューブの看板が点りはじめ、周囲は徐々に夜の景色に切り替わり。

この町の雨は、止むことがない。

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