あの夏、『ムテキ』だった僕達へ

霜月遠一

あの夏、『ムテキ』だった僕達へ

 夏、八月の終わり。真っ青に晴れ上がった空の中心で、太陽が燦然と笑う昼下がりの刻。駅の改札を出て一歩外界へと足を踏み出した瞬間、途端に纏わり付いてくる夏の熱気に、思わず顔を顰めそうになってしまう。同時にこの噎せ返りそうになる空気が今の僕が住んでいる東京の都会と、かつて僕が住んでいたこの町と、その両方に共通して流れているという事実が、引っ越してからの十年という月日を地続きの現実に変えていた。


 額にじっとりと滲む汗をハンカチで拭いながら、朧気な十年前の記憶をなぞって僕はゆっくりと歩き始める。質量すら感じさせる程の苛烈な日差しに長い時間晒されたアスファルトは、きっと火にかけられたフライパンの底に負けないくらいの熱を孕んでいるに違いない。

 そんな炎天下の中で、どうして街路樹の緑だけはこれ程までに溌剌としていられるのか不思議で堪らない。僕の着ている緑のTシャツは汗を吸って胸元だけが暗く落ち込んでいるというのに。ともかく今は茂った枝葉の描く影にありがたく身を隠させて頂こう。


 そんなことを考えていたら、何時の間にか目的地に着いていたらしい。駅から二十分程度歩いて辿り着いた場所は住宅街の中にある小さな公園だった。

 そよ風に揺れる二席のブランコ。ところどころ塗装が剥げて錆の赤茶色に侵食されたジャングルジムと滑り台。あとは二畳分くらいの砂場があって脇に一台おんぼろのベンチが設置されているだけの狭い公園――なんてことはない、探せば日本全国何処にでもあるような子供達の遊び場だ。しかし記憶の中のこの公園はもう少し広かったような気がして仕方がない。そう感じてしまうのはどうしてなのだろうか。

 溜息と共に、僕は静かにブランコの上へと腰掛ける。蝉達の合唱に混じり、きぃ、と金具が短く鳴いた。


 さて、いよいよ目的地に着いた訳だが、勿論僕の目的はこんな場所で酷暑に喘ぎながら無為に時間を過ごす為ではない。約束を果たしに来たのだ。かつての親友と、別れの時に交わした約束を。

 ブランコの上、揺り籠にも似た微細な揺れに身を任せ、僕は外界を拒絶するようにゆっくりと瞳を閉じる。真っ暗になった視界の裏側、瞼に浮かぶはあの日の光景。記憶の底から掘り起こすのは十年前、あの日あの時、この場所で。あいつらと交わしたたったひとつの誓いの言葉。

 いや、掘り起こすというのは少し違うだろうか。僕が、僕自身に、沈んでゆくのだ。海馬に蓄積された記憶の海を真っ直ぐに泳いでゆき、僕という存在の奥底に根付いた十年前のあの日の出来事を追想する。


 そうだ。あの日まで、僕達は確かに――『ムテキ』だった。





 十年前の今日、僕は小学生四年生の夏休みの渦中にいた。今僕がそうしているのと同じように、その小さな身体の全体重を公園のブランコに預けて俯き揺られている。違うのはふたつ。空が夕焼けの橙を湛えていたことと、このときの僕はひとりではなかったということだ。

 僕には親友がふたりいた。ひとりはひょろりと背の高い痩せ型の少年。彼は僕の隣のブランコに腰掛けている。もうひとりは年齢にしてはがっしりとした体格の良い少年。彼は僕達に背を向けるようにして、ブランコを支える支柱のポールに背中を預けて腕を組み、無言のまま空を仰いでいた。

「なあ、ホントにホント、なんだよな? おれたちに変なウソついてたら、ぜってー許さない、からな」

 隣の彼は少々乱暴な言葉遣いとは裏腹に、今にも泣き出しそうなくらいの不安を目尻に滲ませ、たった今僕が告げた言葉を必死に否定しようとしていた。かつての僕も、そうであって欲しいと何度も願っていたよね。

 だけどそんな悲痛な問いに対して、僕は何も答えられなかったんだ。


 転校。僕はこの夏の終わりと共にこの町を出て遠く離れた他の土地へと引っ越さなければならなくなったのだ。親の仕事の都合だ。当然、僕だって嫌に決まっている。ずっと住んできたこの町を離れることには抵抗があったし、なにより彼ら程に素晴らしい友人は他にいないと信じているから、彼らに別れを告げなきゃいけないのは酷く苦しいことだった。

「なんとか言ってよ、グリーン……」

 二言目には先程までの虚勢は消え失せていて、彼は縋るようにぽそりと呟くのみだった。

 グリーンというのは僕のあだ名だ。当時はカッコつけてコードネームだなんて風に言っていたっけ。このあだ名には元ネタがある。

 僕らが仲良くなったきっかけは日曜の朝に放映されていた特撮番組のごっこ遊びにあった。作中で主人公のヒーローチームが互いを呼び合うのを真似して互いを色で呼び合っていたのだ。

 僕がグリーンで彼がブルー。子供が好きな色といえば大抵は赤か青なのだから、二年の頃の僕も本当はブルーになりたかったものだ。しかし暫くグリーン役としてごっこ遊びを続けていると不思議なもので愛着が湧き、今でも緑という色は僕の一番好きな色になっている。

「……ごめん」

 そんなブルーの言葉に対して僕が返せた言葉はたったこれだけ。空虚に響き、それからは悲痛で息苦しいまでの沈黙が僕達を包み込む。近くの家の屋根に集まった黒いカラス達が夕焼けを背負いながら低く禍々しいまでの鳴き声を響かせ、嘲笑うように僕らのことを見下ろしていた。

 この謝罪には色んな意味が含まれていたんだと思う。転校しなくちゃいけないことに対するごめん。三ヶ月くらい前にはとっくに分かっていたことを今まで言えなかったことに対するごめん。そして、なによりも。

「おれたちは、『ムテキ』じゃなかった、のかな」

 僕達を繋ぐ絆の言葉。『ムテキ』という僕らにとって全てであった筈の真実を裏切ってしまったことに対するごめん。

 ムテキ。それが僕らの合言葉。これもあの特撮番組の影響だ。作中におけるテーマというかコンセプトというかに使われていた言葉で、今にして思えば如何にも子供が好きそうなフレーズだとは思うが、ともかく僕らはこの言葉を合言葉にしてなんだって一緒にやってきたのだ。三人いればなんだって出来ると、そう信じてた。


 そんな僕達のムテキという名の幼き日の万能感は、しかし僕の転校という現実に跡形もなく粉々に打ち砕かれてしまった。所詮は大海を知らぬ蛙の夢物語。両親の決めたことに抗うことなんて出来る筈もない。僕とブルーは現実に打ちのめされ、屈してしまったのだ。

 けれども、彼だけは違った。彼だけはまだ、諦めてはいなかったのだ。

「違う!!」

 叫び声が、弾けた。瞬間、僕らの悲劇を笑いものにしていたカラス達は驚き一斉に飛び立ち、黄昏へと溶けていなくなった。ずっと僕らから背を向けていた彼は勢いよく振り返り、ブルーの弱気な言葉をありったけの力で否定する。

「レッド……」

 僕はひと言、漏らすように彼のあだ名を口にしていた。僕とブルーはどちらがブルーに相応しいかを少しの間揉めたりもしたが、彼がレッド――即ち僕らの中のリーダーであるということに異論を唱えることは一度たりとてなかった。

 内気で友達のいなかった僕をごっこ遊びに誘ってくれたのもレッドだ。何をするときも、大抵はレッドが言い出しっぺだった。彼は時々突拍子もないようなことを言い始めるが、それでもどうしてか彼の言葉は頼もしく聞こえるのだ。

「いいか、十年後だ!!」

「十年、後?」

 彼が一体何を言っているのかが分からず、僕はそのままオウム返しに聞き返していた。ブルーも不思議そうな顔を浮かべていた。

「今日、オレたちは負けた! 負けちまったけど……レッドだって言ってただろ?! 負けたってまた立ち上がれるんだよ!」

 今ではもうだいぶ記憶が曖昧になってしまっているけど、確かあの番組の最終回で主人公のレッドがこんなことを言って仲間のことを奮い立たせていた。そういう意味で、彼はやっぱりレッドに相応しいのだと思う。

「何度転んだって立ち上がって、最後まで諦めねえこと! それが本当のムテキだって言ってたじゃねえかよ!」

「本当の、ムテキ……」

「ああ! だから十年後だ! 十年後の今日、また此処でオレたちは再会するんだよ! だからそれまで……ぜってぇ諦めたりするんじゃねえぞ!!」

 今思うと、これも子供故の根拠のない約束に過ぎないのだろう。けれどもやっぱり、彼の言葉にはどうしてか説得力があった。さっきまで二度と会えないことを嘆き絶望していた筈の僕とブルーの表情に光が戻る。

 僕らは同時に小さく頷き、涙で濡れた目元を手の甲で乱暴に拭い去る。そうしてそのまま何も言わずに拳を突き合わせ、それを最後の合図として別れたのだった。


 この時から十年間、僕らは一度も連絡を取り合ったりはしていない。だってレッドが十年と決めたんだ。それより前に連絡を取るなんていうのは、僕を送り出してくれたふたりに失礼だと思ったからだ。


 そうだ。あの日から十年が経ったのだ。僕も今では二十歳。この間に色んなことを経験した。受験で失敗して志望校を落とさなくちゃいけないこともあったし、初めて出来た彼女にこっぴどい振られ方をしたこともあった。今は就活を控えているからそれを思うと漠然とした不安に襲われることもある。

 だけどその度に僕は彼の、レッドの言葉を思い出して、自分を奮い立たせてきた。もしもふたりに再会したとき、『ムテキ』だと胸を張っていられるように。


 そんな子供の頃の約束を果たす為、今日僕は此処に来た。思考の海から浮上して、ゆっくりと瞼を開いて十年前のあの日から帰還する。だが、目の前にレッドはいないし、隣にブルーの姿はない。

 それはそうだろう。所詮、十年前に一度だけ交わした子供の口約束なのだ。元々、本当に彼らが来てくれるなどとは期待はしていなかった。それでもせめて、この想いに決着を付けたかったんだ。それこそが、『ムテキ』を一度裏切ってしまった僕の贖いだったから。


 さあ、帰ろう。この町にもう用はない。未練を断ち切るように勢いよく両足に力を込め、立ち上がろうとしたその瞬間だった。

「なんだ、もう帰るのかよ」

 僕の後ろから、誰かの声がした。反射的に振り返り、声の主に視線を合わせる。そこにはふたりの青年が立っていた。ひとりは背の高い痩せ型の青いシャツの男。もうひとりは真っ赤なシャツに身を包んだ体格の良い男。

 そしてふたりの格好の中で最も目を惹く特徴は、ふたりとも明らかに顔の大きさよりも小さい古ぼけたお面を被っているということだ。あの特撮作品の、それぞれレッドとブルーのお面。昔、夏祭りで買った子供の玩具。

 認めた瞬間、思わず僕は、涙が溢れそうになった。目尻を抑えて必死に堪えて、僕は携えた小さなカバンから、彼らに応えるようにしてひとつお面を取り出し被る。勿論、僕の大好きだったグリーンのお面。


 この日、僕は再び僕らになった。


 あの日、喪った筈の僕らの『ムテキ』を、確かに取り戻したんだ。

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