1-02 混乱.
……あまり、長く眠ることはできなかった。
ベッドが鈍く軋む音がして目を薄らと開けると、電球の強い光を背にして黒いシルエットが僕の上にまたがっていた。 ぼんやりとした思考回路の中で、この影は誰なのだろうという疑問が浮かぶ。尋ねる気力はなかった。何をするつもりなのか、横たわったままじっと様子を伺う。
人影は身じろぎすると、僕の上に覆い被さり、
――躊躇なく水の入ったペットボトルを僕の口につけて、無理やり飲ませてきた。
「……げほっ、ごほっ、はぁっ……」
ペットボトルが口から外されると同時に盛大にむせた。変なところに水が入った気がする。
「誰、なんてこと、するんだ……」
呼吸を整えながら発したその一言を聞いてか、影になっていた人物が身を乗り出す。
「ねえ、起きた!? 起きたんだね! 良かった!」
嬉しそうな高い声。例えるならば感嘆符がたくさんついているような口調だった。その人物は 僕の肩をがっしりと掴み、前後に揺らした。
この人は僕を心配してくれているのだろうか。ベッド側の壁に掛けられた黒板のメッセージを思い出す。嬉しいかもしれないけれど、とりあえず開放してほしい。このままでは顔も確認できない。ベッドから降りてほしいと伝えると、その人は大人しくどいてくれた。 それでようやく顔がわかる。
女の子だ。十代前半だろうか。長い黒髪を肩のあたりで二つにまとめ、人懐こい笑みをこちらに向けている。少女も僕と同じように囚人服のような恰好をしていた。
「急にいなくなるから心配したんだけど、無事だったんだね! カルムがあなたを連れてきてくれたんだよ。あ、でもカルムはまだ寝ていないといけないから……」
「ちょっと待って」
手をあげて制止すると、少女は素直に話すのをやめてくれた。それでもまだ話し足りないのか、いじけたように自分の髪をいじっている。 少し心苦しい気持ちはあるが、聞きたいことがたくさんあった。何せ記憶喪失なのだ。自分の正体すらも今の僕には分からない。
話ぶりからしてこの子は確実に僕の事を知っている。何から聞けばいいのか悩み、結局一番疑問に思った事を尋ねた。
「起きるまでの記憶がないんだ。僕は、誰だ?」
少女が驚いたように目を見開く。 口を開いたり閉じたりしているのは、僕に聞きたいことをまとめているのだろうか。 ようやく声になったそれはかすれていた。
「待って、トキ、それ本当なの?」
「嘘は言わない。それより、トキって言うのが僕の名前なのか?」
「そう、だけど……」
少女は訳が分からない、とため息を吐く。 うなだれているから表情は見えないが混乱はしていると思う。 記憶喪失なんてよくある話では無いだろうから当然と言えば当然か。
「ねえ、トキ。全部忘れちゃったの? 自分の事も、皆の事も? 研究所の事も覚えていないの?」
僕は黙って首を横に振った。何一つ、分からない。罪悪感はあるがどうしようもなかった。
「……私の事も、忘れちゃったの? トキ」
「ごめん、名前も覚えていないんだ」
「思い出せないなら仕方ないでしょ。ねえ、覚えて。私はリシャスだよ」
悲しげな少女の笑みが苦しかった。何も思い出しそうにない僕を見かねてか、リシャスと言う名の少女は立ち上がってテーブルの周りを歩き出した。考えをまとめているようだ。
「どうすればいいかな。私はどうすればいいか分からないし……。やっぱりカルムに相談するのがいいのかな」
僕に訊いているというより独り言のようだ。 カルム、という名前はさっきも聞いた。 というより、少女自身が話していた。
「カルムはまだ寝ているって言ってたよな」
僕がぼそりと口を挟むとリシャスは僕の方を向いた。
「そうだっけ、あ……そうだね」
そう言ってうんうんと顔を上下させる。
「だったらお兄ちゃんに言うのがいいのかな。呼びに行かないと……。あ、トキ」
リシャスが不意に何かを投げてきた。両手で受け止めると、それは水の入ったペットボトルだった。 さっきリシャスが僕に飲ませてきた物だろう。
「水、ちゃんと飲まないとエネルギーが切れちゃうから。飲んでおいて」
気遣ってくれているのだろう。今度は悲しげではない笑みを浮かべている。 リシャスはそのままドアに手をかけて、部屋を出て行こうとする。 その背中に向かって、「ありがとう」と小さく呟いた。
1-02 混乱.fin.
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