悪癖について

 私の初恋は、フィクションの中で暗躍する一人の悪役で御座いました。人間の恋とは随分と早くから始まるものでして、私は六つ歳を数える頃には既に恋をしておりました。最も、今でこそそれが果たして恋であったかどうかもわかり得ませんが。

 私は、実に空想世界にふける事が好きな子でした。幼い私の目には、私にしか見えない友人がおりましたし、宙をいじくり引出しを開ける事さえ出来ました。その様は、母親が一度は私が何か精神病を患っているのでは、若しくは霊感など持って生まれたのではないかと疑う程で御座いました。元来そういった空想と隣り合わせに生きておりました私が、幼少の頃にフィクションの世界に魅了されたのは言うまでもありますまい。その初恋というものが、或るフィクションの中に登場する、一人の悪の親玉であったので御座います。

 彼は、立派な悪役でありました。黒い外套マントに厚底のブーツを履き、顔を半分程覆う眼鏡ゴーグルをかけておりました。髪は透ける様な白髪で、切れ長の双眸は、紫水晶アメシストの様に妖しく輝いておりました。私は、一目で彼に惚れました。声は男性にしてはやや高いと思われ、その声色は甘く鼓膜を震わせるヴァイオリンの様でありましょう。線の細い身体はしなやかにくねり、美しく蝶の様に舞うのでありましょう。彼は、大変な野望家で御座いました。彼は、遠い未来の世界で、ダンスを踊る事で世界を幸せにしようと目論もくろんでおりました。彼の計画は、全世界の人間達を一人残らず踊らせるというもので御座います。少々強引ではありましたが、よくも思い付いたものだなと、私は思いました。例にも漏れず、彼はストーリーのヴィランでありますから、終いには主人公に成敗される運命であります。しかし私は間違いなく、この男に心を奪われたのです。

 如何どうして、悪は悪と成るのでしょう。それはきっと、主人公なる者と敵対する者である為で御座いましょう。それでは、悪役は総じて「悪」なのか。私がヴィランに惹かれる理由はなにも風貌やオウラの所為より他にあるように思われます。私は、ヴィランが「悪」と言われる道へ踏み入って仕舞う、その人間臭さにどうも魅力を感じているのです、ああ、きっとそうだ。この、一人の人間が悪に狂って仕舞う程の大きな何かに追われ、潰されかけ、心臓を取り出し悪魔に売り渡す。この一連に依って生まれ滲み出る、得体の知れない色気のような、なんとも言えぬ雰囲気に気がつくと呑み込まれている。まるで、催眠の術にでもかけられた様で御座います。主人公には無い、ガラス細工の様な危うさと、混沌の夜の海に映る、波に揺れる月の様な不完全な美しさに、私の心は跳ねるので御座います。彼等は決して、悪と一括りにしてはなりません。悪事を働くから総じて悪だ、という様な短絡的思考に捕らえられる様な易いものでは御座いません。彼等は、彼等こそが、私達が辿るかも知れぬ運命の先導者であり、彼等こそが、弱みをさらけ出した真の人間であるのですから。

 また、悪を働く為にはそれなりの頭脳を必要とします。才無くしては、何も武器を持たない事に等しい。力技で好き勝手出来るものには限度が設けられております。優秀な悪役には、優秀な頭脳がつきものであります。彼等は非常に賢い。賢いが故に、己の弱さや別の生き方を知り、どの様な道でも選ぶことができるので御座います。彼等は選ばれし者なのであります。ただ少し、悪に好かれて仕舞うだけなのだ。悪に魅入られ、闇に溶け込み、それでも一途に己の使命を全うするのみで御座います。なんと素晴らしい生き方でありましょう。人間みな善人の世界を想像してご覧下さい。それはそれは恐ろしいものであります。皆微笑みを讃え、常に他を思いやり、全てを持って人に尽くす。私には善人の定義というものが判りませんのでこの様な稚拙な想像しか出来ませんが(空想の能力と、想像する力は決して一致しないと思っております。想像の方にはしばしば、己の経験が必要となるのです)、私には善人のみの世界など、最早地獄に近いものに思えます。自由の無い世界であります。どこが素晴らしくありましょう。それならばいっそ、悪人と成って仕舞った方がましだ。私利私欲の為に頭脳を駆使し、この広い世界を駆け回り、一本の放たれた矢の様に天命を全うする人生の方が、よっぽどいい。はい、そうで御座います。私は、悪を愛しております。それ故、悪の道を進む勇敢な人間を敬愛すらしております。所詮人間など欲の塊で御座いましょう。欲の無い人間などおりますでしょうか。もっと素直になっても宜しいのでは?貴方もですよ。そう、貴方です。普通の感覚をお持ちならば(最も私は、普通、と言った表現を非常に忌み嫌うのですが、)悪はいけないとお思いかも知れません。しかし、たまには己の欲に耳を傾ける事も必要で御座いますよ。人間なんて、非常に脆弱な存在でありますから。はい、いつ壊れるか判りません。それは、一生来ないかも知れませんし、三〇年後かも知れません。もしかすると今日明日かも知れません。なあに、脅すつもりは御座いません。ただ、貴方の内にある悪の種に水をやる存在がいつ現れるかなんて誰一人存じ上げませんから、偶には様子を見てやっても良いのではないでしょうか。はい、はい、私はと言いますと。そうですねえ、ご想像にお任せすると致しましょう。それではまた。

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文学モドキ 高良麗沙 @nathan13

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