第35話 姉姫の願い

「先代までは問題なく『おとびら』が開いていた。なら、先代はこの――御饌の首飾を持っていたはずだ。見覚えはないのか?」

「お姉さまは首飾りなんて…………」


 口に出しながら、ユメは視線を左下に向けた。

 正直、八歳のときに見送った姉姫の顔は、もう鮮明には思い出せないのだ。『おとびら』に消えた背中や、いつも優しくユメの横に座って、機織りや祝詞を教えてくれた手元、口元は強烈に焼き付いている。なのに、美人だった姉姫のかんばせを脳裏に描こうとすればするほど、像が掻き消えていってしまう。


(でも、お姉さまの白い首元は覚えてる。装飾なんてなかったわ。――――ううん、待って。よく思い返して。あの日、わたくしはこれを見た。最期にお姉さまのお世話をした……清めの場で)


 ユメの記憶の不確かさを嘲笑うように、するすると、清めの場でのやり取りが甦ってくる。


「長い紐にたくさんの管玉と共に通して、衣の内に下げていらしたわ。身動きの拍子に音が鳴らないように、上から帯を締めてらした」

「御饌の首飾は決して人目に晒さず身に付けるのだそうだ。その存在も穂高の直系の姫にしか知らされず、御贄の儀の直前に次の贄姫に継承されると聞く。ユメは、受け取らなかったのか」

「御贄の儀の直前に、贄姫と次代だけで行う儀式があるの。機会があるとすれば、そのときよ」

「儀式?」

「清めの儀。御贄の場を見上げる位置に造られた清めの場に、贄姫と次代の贄姫だけが入って、随行の者たちはみな外で待つの。次代の姫が儀に赴く姫を清めて、身支度を整えると定められているのよ。八年前のあの日……」


 ユメが一人、記憶を遡る。徐々に語り口が、民を前にして神について説くときと同じように、淡々と、それでいて厳かな響きを帯びてゆく。

 クラは短く相づちを打ちながら、アラライは口を開かずに聴き入った。


「あの日、お姉さまはお身体を拭くために帯を解いてから、首飾りをお外しになった。わたくしはお姉さまに育てられたと言ってもよいほどに、お姉さまがいつも傍にいてくださったのだけど……隠すように首飾りを下げていただなんて、知らなかった。お姉さまはわたくしの手に重い首飾りを乗せて、それから、御贄の心得をお話しくださった」

「どんな?」

「日々の祈りを欠かさないように。毎年、実りと天候具合を読みながら、儀式や祭りの時期を調整するように。怠けず、儀式に備えてていねいに布を織るように。それから、次の御贄の儀の時期は仙ノ国が決めるけれど――――六番目のお姉さまは四年前に儀を迎えられた。五番目のお姉さまはその三年前。四番目のお姉さまは更に五年前。だからわたくしが十二か十三を迎える頃には、次の儀の時期だと心しておきなさいと、そうおっしゃった」

「だが此度、龍は八年現れなかった」

「そうね。でも、そのときにはわからなかった。わたくしはその話を聞いたとき、とても我儘で、卑怯な子どもだったの。わたくし、当時十四歳だったお姉さまの前で、言ってしまったわ」


 ユメの黒目がつやりと光る。


「『わたくしは、おとなにはなれないんですね。一日でいいから、おとなになってみたかったな』って」

「それは――――」


 クラは胸を打たれた。

 おとなとして扱われない辛さ、事実おとなになれていないもどかしさは、クラの常に感じているものだ。一人前に手が届く前に人生が途絶えてしまう危機感と戦うクラには、幼い日のユメを否定することができない。


「それは、ぼくだってそう思う。ぼくも早くおとなになりたい。おとなになるまで生きていたいよ」

「でも駄目なの! 当時のわたくしにはすっかりおとなに見えたけれど、お姉さまだって十四だった。わたくしたち姉妹には使命があるわ。わたくしたちの命はいつかは絶たれるけれど、それはわたくしたちにしか許されない、崇高でかけがえのない使命。龍に身を捧げた六人のお姉さまがた、お父さまの姉妹さまがた、祖父や曽祖父の姉妹さまがたがいらっしゃるんだから、いやだなんて思うことさえ許されないのだと――そう思って生きてきたし、運命に背こうだなんて思わない。ただ、持ってはならない望みを自覚してしまっただけなの。誰も正すことのできない、二人だけの空間で。あのときのお姉さまの見開いた目……」


 ユメが身を削るように語る隣で、一人幼さの抜けたなりのアラライは、自らの骨張った手を開き、何度か握ったり返したりを繰り返していた。

 そしてユメが言葉に詰まると、大きな手でユメの目元を覆い隠した。

 ユメのまぶたの縁に留めておけなくなった涙が、アラライの手のひらを濡らしてゆく。


「姉君は、ユメだけでもおとなにしてあげたいと思ったのだね」


 低く優しい声で、アラライが姉姫に共感を示した。まるで、自分でもそうすると考えているように聞こえる。

 けれどユメは、アラライの手に顔を押し付けたままで、頭を横に振った。


「わからない。お姉さま、こわばった顔をしてらした。怒ったのかもしれない。わたくし、とんでもないことを言ってしまったと思って、撤回させてくださいと何度もお願いしたのだけれど、お姉さまは――」


 鼻をすする音で、声が掻き消える。

 クラは、ユメを責めることなく話を進めたいと思ったが、アラライのように寄り添う仕草も、共感しなだめるような言葉も、ひとつも浮かんでこない。なので仕方なく、直截的に訊いた。


「それで? 首飾はどうなった」

「お姉さまがわたくしの手から引き取って、もう一度ご自分の首にかけられたわ。そのまま龍に……」

「そうか…………」

「お姉さまは『ユメのことは御贄にしないと決めた』と言って、わたくしが何度謝ってもお心を変えてくださらなかった。末の姫だから、別の生き方もあるのかもしれないとおっしゃったけど、わたくしにはそうは思えない。それに、お姉さまはその話を誰にもなさらないまま身を捧げられたから、お姉さまにわたくしの身捧げを止めることはできないと――――あの場限りの願いだったのだと、そう思っていたの」

「先代は、誰にも知らせずにやり遂げたんだな」


 前回の御贄の儀のときには、既に今回の儀の失敗は決まっていたというわけか。

 クラは、儀式の人為的な妨害に抗議しなければと頭では考えたが、妹の儀を阻止しながらも自らは逃げ出さなかった先代の贄姫を責めようとも思えない。むしろ、数年先の悲劇を予見できなかったはずがないのに、全てを被って行った彼女に尊敬の念すら覚える。そのせいでクラや、仙の民、穂高の民は龍の危機に晒されているのだが。


「そうなると、御饌の髪飾りがさいの川伝いに布谷国に流れ着いても不思議ではないが、なぜ貴殿がそれを?」


 クラが鋭い目つきで尋ねる。しかし答えたのはアラライではなかった。

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