第34話 御饌印

 連れられた先は、屋敷の奥。

 敷地に侵入した幅広の川の真ん中に、異国風の水亭が佇んでいる。四方のとばりがすべて降ろされているが、うっすらと人影が見えた。

 川岸から水亭には何の道も造られていない。

 焦れたユメが、今にも溢れそうなほど水嵩の増した川面の高さを目ばかりする。

 呆れたクラに止められているあいだに、カザハヤの命を受けた下男が渡し板を括りつけた。水亭とあつらえた装飾に目を向ける者は、今はいない。

 一目散に飛び出したユメは、クラが止めるのを意に介さずに帷を捲り上げる。


「アラライ!」


 水亭の床板に座り込んでいたアラライが、ユメの背丈まで目線を持ち上げた。

 真っ青な顔色に、ユメはびくりと立ち止まる。

 血に染まった単衣で腕を押さえつけながら、慌てて着物を肩に掛けた姿は、今まで見てきたアラライの優雅ながらもきちりとした印象とはかけ離れている。

 耳にした話が本当に彼の身に起きたことなのだと、ユメが理解し咀嚼するより早く、クラがユメの襟を掴んで引き戻した。


「この馬鹿っ」


 クラの端的な罵倒が心に染みる。そのとおりだと思った。

 アラライは一瞬、どうしていいかわからない顔をしてから、曖昧にほほえんだ。とても、気を遣わせた。

 ユメの前をカザハヤが身を低くして横切り、帷をほとんど揺らさずにするりと入ってゆく。腕に抱えた水桶と白布が、彼の任務を知らしめている。

 ユメは、少し離れて、アラライの支度が済むのをじっと待った。





 しばらくの後、カザハヤの手によって帷が除けられた。

 水亭には未だ血のにおいが立ち込めている。

 元通り着付けられたアラライがおっとりと顔を上げ、ユメが躊躇うのを見て手を延べた。


「おいで」

「……はい」


 アラライにほほえまれると、どうしていいかわからなくなる。助けたい一心で来たけれど、彼の忠告は無視してしまったし、ユメはここまで何の役にも立っていない。

 おずおずと手を掴むと、力強く身体ごと引き寄せられた。

 顔面が胸板にぽすりと乗る。


「わぷっ」

「心配をかけた」

「……とても怖かった」

「であろな。すまなかった」


 ひんやりとした手が、なだめるように背中をとんとんと叩いている。

 首がすべて隠れるまで巻かれた包帯を横目にしながら、ユメはアラライの肩に凭れた。


 続いて、クラが踏み入ってくる。

 カザハヤが四方の帷を除け尽くすのを待った彼は、いやそうな顔をしながらも、顔面蒼白なアラライを立ち動かせようとは口にしない。

 代わりに、アラライから離れようとしないユメには「うげ……」とこぼした。


「無事は確認したんだから、感傷にひたるのは後にしろよ。とろとろしてるあいだにこの国に実害が出ても、痛むのはぼくじゃないんだぞ」

「無事とは言えないわ。クラ、アラライに無理をさせないで」

「一考する。だからぼくを悪人のように言うな。腹が立つ」


 むすっとしたクラは床に腰を下ろした。

 身形みなりは元服前の少年なのに、不満を訴えるときでさえ、誰よりも堂々としている。

 アラライが、眩しいものを見たように目を細めた。


「まずは、お目通りが叶ったことに感謝を、黄金日子くがねひこ殿。貴殿の身柄は仙ノ国預かりとなった」

「世話をかける、仙の君」

「代わりと言ってはなんだが――布谷ふや近郊に龍の気色けしきがあることはご存知か。こちらの王と貴殿の国の官人が、龍退治を所望している。貴殿にはこれに関して助力を乞いたい」

「――――私は、助勢に憚るほど僅少な力しか持ち合わせてはいないが、龍を処するは我が望みでもある。あたう限り其方に尽くそう」


 ユメをあいだに挟んだまま、やり取りが矢継ぎ早に交わされている。


(今、ほんの一瞬でアラライの処遇が決まってしまわなかった?)


 どうして彼は、自らの関わりのないところで身の置きどころを他者に決められたことに抗議はおろか、質問さえしないのだろう。どんな助力を引き出されているのか確認もしないまま、承諾してしまうのだろう。

 話の速さについていけないまま、ユメは慌てて話を遮った。


「待って、クラ。龍退治をアラライに押しつけたって、その方法がわからないんだもの。どうにもできないわ」

「ぼくにはわかる」


 クラの迷いのない目の強さに、ユメは息を飲んだ。

 昨日まではクラも打つ手を思いつかないようだったのに、今は違う。御贄の場で水鏡を覗いたときと同じ、確かな答えを得た顔をしている。


「ユメ、彼の髪飾りをよく見たか?」

「ううん。じっくりとは……」

「黄金日子殿。髪飾りを見せてくれないか」

「どうぞ、あい見よ」


 アラライはかしゃりと留金を外し、クラの手に乗せる。クラはユメの目の前まで持ち上げて見せた。

 分厚い黄金の台座に、信じられないほど大振りの翠玉が嵌め込まれた髪飾りは、とても豪奢だ。

 けれど、ユメは合わせの奥に仕舞い込んだ短剣を思い返す。あの繊細な手仕事と比べると、この髪飾りは素朴な細工しかされていない。

 よほど古い時代に作られたか、でなければ、萼ノ国群がくのくにむれよりももっと技術の劣った田舎で作られたのではないか――――ユメはそう考えた。

 ユメの反応をじっと見ていたクラが、眉根を寄せて尋ねる。


「わかるか?」

「アラライらしくはない、かもしれないわ。どこか懐かしい気がする。龍のまなこに似ているからかしら……」

「では裏面を見てみろ」

「裏側?」


 クラが翠玉を手のひらに置いて持ち直すと、留金側が表になった。目を凝らすと、びっしりと模様が刻まれているのが見える。

 ユメの心の臓がどくんと鳴った。


「この彫り……! これは御饌みけ印だわ。穂高の巫女が龍への供物にかならず織り込む紋様よ。それが、どうして!」

「さあどうしてだろう。ただ、これの本来の用途をぼくは知っている。これは、穂高の贄姫が、終身身に付けるべき首飾りだ」

「……どういうこと?」

「役割が入れ替わったんだ。御饌印を身につけ続けた以上、今代の龍の贄はこの男だ。だからユメには『おとびら』は開かなかった」

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