第30話 人の贄

 民は誰もが気圧され、無口に嵐が過ぎ去るのを待った。

 高き人の争いなどは、彼らには地上に降りた神々の喧嘩のように現実味のない、余所事よそごとである。

 彼らにとって、どのような姿かたち、心映えをしていようと生まれたときから王は王、黄金日子くがねひこは王も頭が上がらぬほど高貴な居候。両者の仲がさほどよくないことは周知であったが、距離を保ち不干渉をつらぬく二者はどちらもよき庇護者として民に受け入れられていた。

 その均衡が崩れる気配に身震いしたのは、今はまだごく一部、勘の良い者だけだ。

 王とアラライの姿がまるきり見えなくなって、民のひとりが呟いた。


「黄金日子様であれば御命まで奪われることはないだろう」


 その言葉は甘い毒のように人心に染みた。


「黄金日子様もそう思われたから目論見に乗ってくださったんだ」

「俺たちじゃ幾つ首があっても足りないもんな」

「大体、うちの王が萼ノ国群がくのくにむれ皇子みこ様を害せるわけないじゃないか。国力の差を考えろよ」

 

 自虐した男が空笑いするのを耳にしながら、ユメは恨みがましい目でぐるり見回した。


(今のを見ていて、どうしてそんなに楽観的になれるの?)


 アラライを救おうと、どうにかしなければと思っている顔は一つもない。アラライがどんな些細な頼み事にも真摯に向き合ってきたのと対照的に。


「許せない」


 ユメの腕を強く掴んだままのクラがちらりと目を向けた。

 

「アラライが身を擲って救うような価値が、この場のどこにあるの?」

「ユメは自分の国じゃないからそう言えるんだ」

「でも、アラライの国でもないわ」

「それもそうか」


 クラがようやく手を開いた。ユメの白い手首が指の形に赤くなっている。

 クラは顔を顰めたのちに背けた。


「ぼくたちは龍の贄ならずとも、所詮は人の贄だ」

「人の贄……?」

「ただ期待されるがままに民草を導き、うまくいかなければ当の民に罰される。対価は生まれてこのかたずっと先払いされてるんだから」

「わたくしは、龍の神饌みけではあれ、衆人の供物ではないわ。あなたも、アラライも――なんびとも、誰かの贄になったりなんてしない」


 ユメは漆塗りの鞘をそっと抜いてみた。

 曇りひとつなくつやりとした地金は、角度によって白銀色にも黄金色にも輝いて見える。アラライの髪色に似せたのだと一目で理解した。


「じゃあぼくたちは何なんだ」

「天の下では皆等しくただびとに過ぎない。それ以上は驕りよ」


 クラがどうかなというように肩をすくめる。


「情なき相手に尽くす道理なんてない。わたくしは――決めたわ、クラ」

「うん?」

「わたくし、悪女になります」

「はぁ?」


 短剣は一旦帯にはさみ、取り出してから着物の合わせの内側に差し入れ直した。

 調子をたしかめるように、両の踵でトントンと地を叩く。


「アラライの言うことも、叔父さまのご命令ももうお聞きしません。わたくし、アラライを助けにいきます」

「ぼくはあんたに好きにせよとは言ったけど、今はおとなしくしてろよ。ぼくはあんたがどろ沼に沈みに行くのを静観してるほど無情じゃないんだけど」

「わたくしもアラライが沈むときにおとなしくしているほど冷淡じゃないわ」

「だから! あいつのことならぼくがなんとかするから」


 クラが涼やかな目元をキッと吊り上げる。

 対してユメは足ひとつ分下がって、上から下までクラの姿を眺めた。


「……なんとか?」

「だからユメはあいつの屋敷にでも戻って待ってろ」

「なんとかって、どうやって?」

「ぼくにはぼくのやり方がある。第一、ぼくの目的だってあいつを国に連れ帰ることなんだ。別にユメだけが黄金日子を必要としてるわけじゃないぞ」


 クラはまだ装いだって子どものそれなのに、いつも堂々としてる。

 クラの言葉には反論できるところなんてなくて――それなのに、ユメはクラに対していつも引っ掛かりを覚えるのだ。

 このまま頷いてはいけないという思い。


(わたくしはクラに反発しているだけ? でもどうしてか、どこかがわたくしの意志とはずれていると感じるの。どうして? クラの言うとおりにして、取り返しのつかないことになるのは何?)


 布谷ふや国に入る前に別れたのは、なぜだった?

 自由に歩いてみたかった? それもある。

 クラのものではない、自分の意見を持ちたかった? それもある。そしてそれは叶った。ユメのやりたいことが、少しずつふくらんできている。

 でもそれよりなによりも、この国とアラライに対する考え方が、クラとは相容れなかったからではなかったか。


「わたくしの目的は、アラライを連れ帰ることじゃないわ。わたくしはアラライを助け出したいだけ」

「……途中までは同じじゃないか」

「途中までしか同じじゃないわ。アラライがわたくしたちを助けるかどうかは、アラライが考えることよ。でもクラに助けてもらったら、クラはアラライに恩を売るじゃない」

「当然だろ。何のために助けると思ってる」

「アラライはきっと恩に逆らえないわ。それは助かったことになるのかしら」


 遠くで、柱の下敷きになった男を引っ張り出したと歓声が上がった。だが、あの足はもう手遅れだろうとひそひそ目ばかりされている。


「ぼくだって一日かけて、あいつについて調べた。その上で一番効果的で穏便な方法を選んだんだから、非難されるのは心外だ」


 ユメはまた一歩分、クラから身を離した。

 クラは昨日、今日と何をしていたのだろう。

 ここで何かが起こるのをわかっていたかのように、ちょうどよく独りになったユメの隣にいるのは、どうして?


「クラ。アラライが助けられなきゃいけない状況に追い込んだのは、あなたね?」

「…………そうだよ」


 答えが耳を突くやいなや、ユメは身を翻した。

 クラがユメの袖に手を伸ばし、掴みきれずに追い掛ける。


「ちょっと……! 最後まで聞いてよ」

「聞きたくないわ!」

「穏便な方法を選んだって言っただろ。ぼくにだって色々あったんだって。ねえ、ユメ……!」


 引き止めようとした手は、振り向きもしないユメに打ち払われた。


「クラこそ、おとなしくしていたら? これ以上ないように」


 ユメの走りは決して速くはない。クラにとっては追い越すのもたやすいけれど、もう一度手を伸ばすのは躊躇われた。

 代わりに、このお姫さまが、とぶつぶつと毒づく。


「だから! そっちは布谷王の屋敷の方だろ。行く気か? 乗り込むのか? ねえ、無茶だって! 聞いてる、ユメ!」

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