第27話 悪意の気配

 世の色恋に少しばかり疎い男は、床板をぎいと鳴らしつつ腰を上げた。


「さて。夜更けに長居をしては迷惑になるな」


 背の高いアラライの影が、部屋の中に伸びる。


文机ふづくえが必要で、取りに来たのであった。この部屋の物を持ち出してもよいか?」

「わたくしにお断りになる必要はないわ。あなたの物ですもの」

「道理だ。部屋に入っても?」

「ええ」


 ユメが許可すると、アラライは迷いなく闊歩し、凝った意匠の彫られた文机に、硯箱を乗せた。螺鈿らでんで菊花を模した漆塗りの箱は、彼の手に馴染んでいる。


「きれいな硯箱ね。文机にも揃いの花が彫ってあるなんて、すてきだわ。運び上げても傷んでしまわない?」

「無論運ばないに越したことはないが――問題なかろう。どちらも以前の住まいから、この国に運び入れた物だ」

「そう……? けれど、天板が折れてしまったらと思うと恐いわ。ここでお使いになって。わたくし、まだ起きていますから」

「そうか? では甘えよう」


 アラライは文机を持ち上げるのをやめ、ここ、続きの間と寝室との間の襖を開けた。

 遅くに帰るアラライを気遣ってなのか、火櫃ひびつでゆるんだ空気と、焼き魚や醤のにおいがほのかに香った。


「夕餉はこれから?」

「ああ。あとでいただく」

「冷えてしまっていない? だれか支度する者を呼びましょうか」

「湯漬けにするから構わない。私は帰りが遅いことが多いから、湯と炭だけ差し入れさせた後は人手を入れぬことにしている」


 木簡と灯明皿を持って戻ったアラライは、それを置くとすぐに踵を返す。

 ユメは背中越しに話しかけた。


「書きものをなさるの? これは供についた門番らが持ってきていたものね」

「上官である書記官が帰った後に、本日の通行者を記した木簡を汚したらしい。明日は王への報告日ゆえ、書記官の出勤前に書き直しがしたいそうだ」

「この国では人の入出を記録するのね。王が気になさるの?」

「王の配下は気にするであろな。徴税に関わる」

「きっちりしているのね」

「思うに、穂高ノ国は田の測量をきっちりしているのではないか? どの王も、なにからどのくらいの富を産み出せるかには敏感になるものだ」

「そう言われると、そうだわ」


 田の隣に住まわない、街の暮らしとはどのようなものなのだろうとユメは不思議に思った。田も畑もなしに人は富を生み出せるのだろうか。


(日がなお魚を獲ってみなで食べているのかしら。街中の人が食べたらお魚が尽きてしまいはしない?)


 とはいえ、夕餉の魚は美味だった。

 戻ってきたアラライは、花鞠のようなものを手にしている。

 興味を惹かれ立って近づこうとすると、長い裾が広がった。踏んでしまわぬよう小股になる。

 慎重に足元を見ながら歩くユメの手に、ぽんと鞠が置かれた。間もなくユメの体が浮く。

 アラライが言葉もなく、ユメの膝裏を掬い持ち上げたのだ。ユメは、目をぱちくりとしているあいだに文机のそばに座らされた。


「あの……アラライ?」


 ユメの投げかけに、アラライはユメの上の鞠――薄く削いだ木を平たい紐状にして作った鞠の中によい匂いの飾りを入れ、菖蒲の花と葉、鮮やかな糸を垂らした飾りをもて遊ぶようにころりと転がした。


「ここに居よ」

「……? きれいな花鞠ね」

「今日届いた荷物に入っていた。薬玉くすだまという。萼ノ国群がくのくにむれでは邪気を払い長命をもたらすと言われているが、どうかな。龍気も退けられぬものか」

「どうかしら。よい香りがするわ」

「布飾りの中に香木を籠めてある。父皇が毎年大層気合を入れていてな、ここに端午たんごまでに届くようにと、早咲きの花を育てさせ、作らしめているらしい。親心だと思うと、ちい姫に気軽に下げ渡せぬ」


 ほほえむアラライの目に、くすぐったい色が走る。


「離れていても、大切に思われているのね」

「父皇は昔から私に甘い。二の皇子みこもじき袴着を迎える年だから、それも目減りするであろうが」

「二の皇子みこ……? 弟君がいらっしゃるの?」

「ああ。私が国を出たあとに生まれているから顔を見たことはないが、すくすく育っていると聞く。年を取ってからの子だ。さぞかわいかろう」


 黒黒とした髪の玉のような御子だそうだ、と彼は付け加えた。


「アラライは、いつか国に戻るの?」

「どうであろな。ちい姫に婿がねを見つけるまではここに居たいものだが、……二の皇子みこの成長と、私たちの後ろ盾の思惑次第では、帰ることも、より遠くに送られることも……覚悟しておかねばな」


 アラライがユメの目から逃れるように机に膝を向け、硯箱を開けた。

 すうすうと静かに墨をる音を聞きながら、ユメは手の中の薬玉を眺めた。


(アラライの行く末がお父君からの愛と無関係なのなら、世継ぎだとか思惑だとか、そんな寂しいものに彼を奪われてしまいたくなんてないわ。アラライも悲しそうな顔をしてるもの)


 彼がこの国を出る日が来るのなら、次は穂高ノ国に住んでくれたらいいのに、とユメは思った。しかしユメには彼を国に引っ張ってくるだけの力も、方策もなく、穂高ノ国自体にも萼ノ国群から皇子を貰い受けるような魅力や政治力はない。

 ユメには、アラライがどんな顔をしようとただ見ているしかできないのだ。


 アラライが慣れた手つきで木簡を削り、書き直してゆく。

 元よりのびのびとした優美な文字で書くものだから、誰の目にもアラライが門番の仕事を手助けしたことは明白に映るだろう。

 けれど、それで困る者もいない。

 なにかの穴埋めに、手助けに、アラライの痕跡があるのはこの街では珍しいことではない。人はそれを自然なこととして受け容れているし、アラライの手を借りることで叱責される者もいない。

 早くアラライの理想が実現したらよいのに、とユメは願う。それが一見馬鹿げているほど夢みがちで困難な理想であっても、不可能だと規定されているわけでないのなら。

 善意が巡り巡った末、アラライの元に、抱えきれないほどの優しさが返ってくるのが見たい。

 少なくとも、そんな優しさはアラライがたった一日でユメに教えてくれた感情だ。


 ユメがアラライの腕に頭をもたれさせ、うつらうつらと船を漕ぎ始めるのにそう時間はかからなかった。

 左腕のぬくさに口許をほころばせたアラライは、愛らしい姫君を起こそうか抱え上げようかと迷って顔を上げたとき、木簡の先にユメの名を見つけた。


楡芽ユメ……春楡ハルニレの芽か。春の生まれかな。雄大でしなやかな気持ちのよい樹だ」


 似合いの名に双眸そうぼうを和ませていると、冠する文字が目に入る。


「仙ノ国の王の家の女……? なぜ穂高ノ国の王の娘と記されていないのだ」


 明らかに奇妙だ。

 ユメの一つ前には、仙ノ国の王の一の子の名がある。

 それに国名を引きずられたとしても、名ある家の未婚の娘には、家の女ではなく父の身分に娘とつけるのがこの国の通行目録の決まりである。


(ユメがそう名乗ったのか? いや、連れがいるのであれば、通常女君おんなぎみに名は問わない)


 連れの男がまとめて答えるものだ。

 アラライは眉間を寄せ、目尻を厳しくした。


「仙ノ国の王の一の子、クラ。連れ立って入ったのは、この者だな」


 身分の虚偽申告は、即座に問題とされるものではないが、王を謀る行為であるほか、とある場合に重大な分岐点となる。

 それは、外から入ってきた者に対して、他国の王から引き渡しを請われた場合。布谷ふや王は謝礼と引き換えに、通行目録に記載された身分によってそれに応えることになるだろう。


 ユメの連れ、仙の王子クラがまだほんの少年であることは聞いていた。

 だが、子どもであることは善良な行いをすることとは結びつかないのだと、他ならぬアラライは知っている。


「其方がユメを脅やかすのであれば、私は……」


 アラライの二の腕にこめかみを乗せて、すよすよと眠るユメを見る。

 左身を動かさないようにしながら、アラライはユメの名までのすべての行を削り取り、迷いのない筆致で何もかもを書き換えた。


 この夜が、アラライにとって布谷国で迎える最後の平穏な夜となった。






火櫃ひびつ・・・木製の火鉢の古い呼称

 灯明皿とうみょうざら・・・素焼きの小皿に油入れ紐を浸した簡易照明

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