第26話 甘やかな誘い
こんなにきれいなひとと出会い、まるで対等に、親しく口をきけている夢のような今日は、そう続くことなく過去のものになってしまうのだろうか。
ユメはその
「あなたに
「春めいてきたとはいえ、その姿では
くしゃみで肩を震わせたユメに、アラライが腰を浮かせる。
「待って居よ、代わりの着物を取ってくる」
「いいの」
ユメは目の前で翻ろうとする彼の袖を咄嗟に掴んだ。
「いいの。これを着せていただくから」
「もうよいのか?」
「もうよいのです。だって……」
(あなたがいると、あなたしか目に入らなくなってしまうのだもの)
その先の音を
それを正面から受け取ってしまったアラライは、二、三逡巡し、脳内でぬか喜びの可能性を潰し切ってからじんわりと内気に笑った。
静かに、噛みしめるように俯く男の後ろ首の、なだらかな輪郭線が彼の充足感で溶けてゆくようだ。
顔を上げたときには翠の瞳が新芽のようにやわらかな色をしていた。
それにユメが見惚れるうちに、彼はユメの手から衣をさらった。そのまま背後に回り込んで、いそいそと着せ付けてゆく。
直接触れないまでも、アラライの手によって起こる
それを知ってか知らずにか、アラライは正面に戻ると満足げに頷いた。
「思ったとおりだ。色白な其方によく似合う。
言いながらアラライの大きな手がユメの顎を掬い上げるように動くものだから、ユメはその手から逃れるように慌てて顔を上げた。
そんなところに触れられては、とんでもないことになってしまいそうな気がする。
だというのに役目を終えたはずの手はユメの耳の後ろを撫でた。
ぶわりと産毛が逆立つ。
「ひ、卑怯だわ」
「そうであろか」
「そうよ。そういう、
「
「そのような言葉だって」
反論で口をまごつかせるユメだが、まるで自分は思わせぶりなことなど一つもしていないような言い草だ。
「仕草は其方も似寄りだと思うが……」
猫のように毛を逆立てながらも、満更でもないユメの様子にアラライは笑みを抑えず口にした。
「だが、どうあれば誉めずにいられる? 上掛けの
そのにこやかながらも芯のある声に、ユメはびくりと指先を袖に隠した。
(爪!? 爪がなんですって?)
言うまでもないがごく平凡な爪のはずだ。村娘のように畑仕事や水仕事をしない分、まっさらに保たれてはいるが。
「わ、わたくし、髪は黒いけれど巻き毛だし、
「玉の
「それに、それに……」
ちい姫には言えた言葉が、アラライの顔を見ながらでは喉につかえる。
この甘やかな言葉に
けれど。
(お姉さまのお背中が、どうして今浮かぶの?)
使命も国も、投げ出そうと思えばきっと一瞬だ。龍の前に身を投げるのと同じように。
聡いアラライの手は、ユメに伸ばされずトンと床板に着地した。
「なぜ天は其方を私の手中に落としたのであろ。なぜ其方は
アラライの声が夜風にかすれた。
その寂しげな顔に、袖の下で手をぎゅっと握る。
「結びの神は人心に疎いのよ」
「それは困る。世の恋文を集めて献上せしめるべきではないか?」
冗談めかして応じる男の目は、少しばかり本気らしく気色ばんだ。
ユメはちいさく笑った。献上するまでもなく結びの神の元には、想い人を持つ八百万の民からの嘆願の声が集まっていることだろう。
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