第25話 糸よりも月魄よりも

 貰い湯で身を清めると、女房がしずしずと寝巻きの前見頃を合わせ、上から羽織の衣を着せ掛けた。

 衣を替えるとユメも屋敷の女たちの一員に見える。

 羽織の生地は萼ノ国群がくのくにむれから送られたものだろうか。意匠もさることながら、模様の浮かせ方がこの辺りのものではない。


(わたくしの知らない技法だわ。編み方がわかればわたくしのはたでも織れるのではないかしら)


 女房が部屋を辞したのを見るやいなや、ユメはいそいそと袖を持ち上げた。

 経糸たていと緯糸よこいとの重なりをつぶさに観察する。

 紋の始まりはどう織られているのだろう。

 一本の経糸たていとを、緯糸よこいとを、ユメはひたすらに目で追った。

 いいえ、それだけではなく触れたい。この糸のりを、跳ね返りを、指先に覚えさせたい。目は出来上がりを確かめるだけで、創り上げるのはこの指だ。指先が糸の動きを覚えれば、もっと新しいことを試せる。

 ユメはその生地に夢中になって、身から羽織を剥ぎ取った。


 羽織を広げた床につくばい、明るい方へと膝頭でにじり寄る。

 あっという間にしとみを上げ月明を得たユメは、夜風の冷たさを心地よく感じながら布目に指を添わせた。


 こういうことをするから、末姫は変わり者だと言われる。


 穂高の娘たちは多くは家々で稲を育て、菜を摘んで暮らしているが、それが終わると決まったように機殿はたどのに集まった。

 女しか立ち入ることのないそこは、娘たちの仕事場であり、社交場だ。

 気候のよい穂高の娘たちは明るく、また、集団作業に適合するためか性格のまるい者が多く、内輪話を繰り広げながら何刻でもおさを反復させていた。


 その中でユメは、場に溶け込むでもなく黙って糸とはたにだけ向き合い続けた。

 娘たちの織り上げた中で出来のよい反物は交易に出されたが、機殿はたどのの主である巫女姫の織物だけはすべて神へと積まれていた。

 本来、それは出来不出来とは関係のない血筋ゆえのものだったが、ユメの代になってから少しずつ、しかし今では明らかに異質なものになった。

 彼女の織り上げる布はとろりとした光沢を放ち、どの布に混ぜて置いても一目で抜き出すことができる。

 巫女としての異能や才能ゆえではない。

 他の追随を許さぬ深い集中力と探求心が、ユメの立ち位置を一段別のものにした。

 勿論、夏に冬にと間に合わせるよう気働きをする必要のない身分が可能にしたことでもあるのだが。


 ともあれ、ユメはそれを自覚しつつも改めなかった。

 アラライが好奇心旺盛な、ゆかしがる性質たちだとすれば、ユメもまたそうなのだ。

 新たな織りの発想力に感じ入り、脇目も振らずに布地を堪能していると、不意に月明かりがかげった。


「着物に遺漏いろうでもあったか?」

「アラライ」


 しとみの外に立った男の身が、宵闇の中でほのかにかがやいている。

 春の夜の空気が未だ、しんと冷たい中で、外から戻りたての汗と土のにおいがひやりと届いた。

 どうしてか気恥ずかしくなったユメは、はにかんで手元の布を撫でた。


「その反対だわ。あまりにも素晴らしい着物だからとくと見ていたの」

か」


 短く頷くと、アラライは板張りの濡れえんに腰を下ろした。

 格子状のしとみを上げ切っているから、座る場所は違えど、ふたりを隔てるものはなにも無い。

 アラライは頓着しないさまで顔を突き出した。


「ふむ。どの部分を見事と見るのだ?」

「――こなたよ。見て。地の織りもさることながら、お月さまのお姿加減で色変わりする紋様にほれぼれするわ」

「ああ……、玉虫色のかがやきだな」


 見慣れているのだろう。驚くでもなくひょうし、それでもユメと同じく何度も角度を変えて眺めてくれる。そのたび、首元で束ねられた髪が肩にさらさらと擦れ、太腿に波打って広がった。


「でも、あなたのおぐしのほうがきれいよ、月魄げっぱくさま。月の精と呼ぶにはあなたは少々まばゆすぎるけれど」

「見ていて気が休まらない面構えであると苦言されるぞ」

「あなたにそんなことをこぼされるのはちい姫さまね?」

「明察だな。銅鍍金ときん中天なかぞらの日輪よりも慎みの無い男であるらしいぞ、私は」


 たしかに、年若い男を何人並ばせても抜きんでる上背うわぜいとはっきりとした目鼻立ちに、ことな色合いが合わさって、今まで目にした他のどんなものよりも彼のほうが華やかで派手だと感じてしまうところはある。

 中身のほうはむしろ、つつしまやかなほうなのではとさえ思ってしまうが。


「堂々たる美丈夫ですもの。見目がよいのは誇るべきことよ。手に入れた経緯でアラライは複雑かもしれないけれど……、それでも、錦の金糸よりも色濃くつやめいたおぐしまされるものは無いわ」


 ユメはアラライの膝に揺れる髪に手を伸ばすが、さすがに触れるのにはためらった。許可を求めるようにアラライを見上げると、翠の目がぱちりとしてから、さも愉快だというように細められる。


其方そなたげんを聞くと、そう悪くないように思えてしまうな。不思議だ」


 アラライはユメの手をすくい取ると、その手のひらに髪を束にして乗せた。


「この髪をつことが出来得できうれば其方そなたに進ぜよう」

「まるで断てないようにおっしゃるのね」


 そも、それほど豪奢な生活も恰好も好まない男がこれほどまでに――立位でも膝裏に届かんというほどに長く髪を伸ばしているのには、意味があるのではないか。

 疑問満載な顔をアラライに向けると、彼の艶めいた唇が弧を描いた。彼の濡れたような目がうきうきした色を宿しているのを見て、ユメは追及を諦める。


 手の中の髪は猫の毛のようにやわらかく、小鳥の羽のようになめらかな手触りで、一本一本がおそろしくうつくしい。

 切り落とした瞬間から呪物の一種となる人毛は織物には使えないとしても、眺めるだけでしあわせな思い出に浸れるだろうとユメは思った。





※玉虫色=玉虫の羽のように光の干渉によって色調変化をする染めや織りの色。経糸たていと緯糸よこいとの色を違えて織る。

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