第23話 大国のちい姫

 屋敷に長らく間借りしている女たちが日々の飯炊きを担っているらしい。いっとう大きな焼き魚をアラライのために残してから、ふっくらと焼きあがったものをユメの前に置いてくれた。

 ちい姫は少し気落ちした様子ながらも女たちに指示を出し、くるくるとよく働いている。その姿は姫というよりも女房のようだ。

 そんなちい姫の顔に、一転して表情が乗った。奥から出てきた年嵩の女性に駆け寄ってゆく。


「お母さま!」


 明らかにその女性と女性に付き従う女たちは、他の者とは姿が違った。

 重ねた色とりどりのきぬが、立ち歩くときでさえ大きく床に広がり、布地の美しい文様が板目に映える。地の上を歩くことを一切想定しない姿は、未だに彼女たちが萼ノ国群がくのくにむれという大国の貴人であることを感じさせるものだ。

 その胸に飛び込むちい姫のきぬは、全ての裾が床面よりも上にある。


「ちい姫、ふくれっつらでどうしたのです?」

兄上このかみ様はあんなにご立派でおありなのに、わたくしはどうしてもおのれのことばかり贔屓にしてしまうわ。自分がいやたまらないのです」


 背伸びをしても、ちい姫の頭は受け止める母親の肩の上にしか届かない。ちい姫をやさしく見下ろす母の顔立ちは、涼やかな目元もそれを飾り立てるまつ毛の細やかさも、筋のうつくしい鼻の配置さえアラライとよく似ていた。

 ちい姫もアラライと並べると誂えたようにうつくしい一対の兄妹だと思ったが、どちらも母親の血が色濃く表れた結果なのだろう。二つとないほどに人目を惹く、くっきりとした造形の美貌を持つ母と子のあいだには、経てきた年数と色彩の妙しか横たわっていなかった。

 ユメはその事実に、しばし見惚れた。


「民をあつものや豆で満たすならだしも、玉や絹で富ませる必要がどこにあるの? それも、相手は萼ノ国群がくのくにむれではなく布谷ふやの民なのよ」

「おやめなさい、ちい姫」

「皆わたくしたちを嘲笑わらっているわ。財の価値も知らない愚か者だって」

「またお話しが過ぎていますよ」

「お母さま……だって……」

「屋敷に国元から届く品は、すべからく皇子みこに宛てられたものですよ。皇子みこがご自由になさるべきものです。それでも姫が皇子みこにもっとくださいと言えば、皇子みこもお考えくださるでしょう」

「でも、……民の不足を見過ごすことを、兄上このかみさまは悲しまれるわ」

「悲しまれるでしょう。そういうお方です。それがいやなら、皇子みこの顔を立て我慢してさしあげるしかありませんね」

「……はい」


 ユメの座する位置からは、母娘のやりとりがよく見えた。とりわけ、平静な言葉に反して母親の目に娘への憐憫の情が浮かぶのが。


 父皇に捨てられこの地へやって来たとアラライは言っていたが、それでは彼女たちの立ち位置はどう思えばよいのだろう。捨てられた皇子みこと共に国を離れた、側室か正室かはわからないけれど皇の妃と、皇子みこと同母の姫。ちい姫は八つよりは少しばかり年上に見える――国にいる時分に生まれてはいるだろう。

 アラライには頻繁に周囲に下賜するほどの宝物ほうもつが届く。それはアラライのげんに反して、彼が未だ国にとって重要な位置を占めているという事実を感じさせる。


 では、この二人は?

 八年前。いや、国を出たのはより後年かもしれないが、当時アラライが幼かったとしても、母親や妹が付き従うものだろうか。

 通常、妻や娘というものは父が存命である限り、長男ではなく父に属するように思える。

 いささかせない。


 幸いユメの内心の疑義は誰にも気取られることはなかった。

 女房たちがそそくさと膳を整えていく中、ただひとりユメに目を向けたちい姫の母も、ユメのことはちい姫をなだめる材としてのみ意識した。


「それよりも、あなたは皇子みこから穂高の姫君を持て成すよう命じられたのではないのですか? 任せられたつとめを投げ出し我が身に夢中になることこそ、真に愚かなことですよ」

「――! ごめんなさい、ユメさま」


 実に素直にちい姫が振り返る。

 思えばちい姫という名乗りも奇妙だ。呼び名としてはごくありがちなようだが、人前で口には出さないいみなに限らず、通常使われるあざなであっても高位の姫には相応の名がついているものである。いずれ贄になるともくされていたユメだって、母からのたっぷりとした愛情と名を授かってはいるのだ。


「わたくし、ユメさまがお持ちのうつくしい領巾ひれやわたくしの絵巻物のおはなしをしながらたのしい夕餉にしようと考えていたのに、ちっとも出来ていませんわ! でも、ほんとうに楽しみにしていたの。ほんとうよ」


 はじけるような好意を余すことなく顔に乗せてくれるちい姫。

 小さな体の持つ溌溂はつらつとした明るい気は周囲に笑顔の種をくれる。

 けれど、その明るさの隣にはさまざまな思いがうずまいていて当然だ。

 ユメは自分の胸に手を添えた。ちい姫の境遇は厳密にはユメとは異なるけれど、胸の内に持つわだかまりやはがゆさには心当たりがある。そしてそれは、周囲よりも恵まれていると見做みなされる立場ゆえにほど取り合ってはもらえないことを、ユメもよく知っている。


「ちい姫さま。わたくしもこの夕餉がとても楽しみだわ。けれど、おはなしはたのしいことばかりでなくともよいと思うの。わたくしの心には飾ったお話よりも、ちい姫さまの心からの言葉のほうが大きく響くわ。誰の人生も――無論わたくしの生も、ただ楽しいばかりではないもの」


 ユメの言葉に、ちい姫がすっと息を飲んだ。

 泣きたいような、くすぐったいようなしぐさで顔をくしゃりとさせる。


「わたくし、ユメさまのここに至るまでのことをお聞きしたいわ」


 小さな声でそう言った。

 ちい姫の目には、悲しみが先立つほどに深い共感が浮かんでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る