第19話 贄と施捨

「……現れぬか」


 川面を横からが照らす頃合いまで粘ったが、その日翠の目の龍の姿は見られなかった。二人は収穫なく物見台を降りた。


「龍にどのように相対あいたいするにしても、近くに顕現するまで手は打てぬと思う。私が幾日も屋敷を空け、どこに居るともわからぬ脅威に漫然と日を費やすことは成し得ぬのだ。わかってくれるな?」

「アラライの立場なら、当然のことだと思うわ」

「その代わり、明日もここに見に来よう。それでも現れなければ見張りを置こう」

「ありがとう」


 答えながらも、ユメの心は先ほどのアラライの言明げんめいからめ取られていた。


(龍に会うことができて、すべてを龍に返したらアラライはどうなってしまうのかしら。龍はそれを供物として受け姿をお隠しになるかしら……? そう? 本当に?)


 だとすると、贄はユメでなくともよかったことになる。


 確証がないのは彼も同様だろう。

 それでもアラライの背中は凛然としている。

 ユメはこの背をよく知っていた。追いつきたくない、辿り着きたくないと思いながらも生きるよすがに追っていた、敬愛する姉の矜持と同じ温度を持つ背中。

 ユメが八年かけても理解出来ずにいたものを、彼は当然のように背負っている。


(わたくしも、彼のようにならなければならないの? わたくしはそれを望むの?)


 すっかり黙り込んでしまったユメの手はアラライに過不足なく引かれている。

 行きとは反対のくだり道だけれど、日が傾く中で、考えに沈み込んだままでも何の問題もなく足を進められているのはなぜか。それが彼の配慮の行き届いた誘導によるものだと気づいたユメは、ふと顔を上げた。


「きゃっ」


 途端に躓いたユメをアラライがちらりと窺い見る。

 その唇はゆったりと弧を描いている。しかし目元は影となりようとしない。

 ユメは足元のそぞろなまま、目の奥まで見通そうとじいと目を見開いた。

 アラライが何ともつかぬ吐息をこぼす。


「何ぞ言いたきことがるのか」

「問いたきことと言い難きことの狭間で迷っているのです」

はばからず申してみよ。どうせ早晩口にすることになる。ユメが疑問を胸の内にしまいおける筋書きが見えぬからな」

「人をおてんばのように言うのね」

「言われぬか?」

「……見てきたように確信をお持ちなのなら、わたくしの口から言わせないでくれます?」


 ユメのつんとした口調にアラライが簡単に「すまない」と謝る。

 その素直な態度に心がほぐれ、ユメは心をそのまま口にした。


「アラライはあなたひとりが何かを手放すことに抵抗はないの?」

「……というと?」

「みんながえていく中で、自身だけがからっぽになっていくようでこわくはない? ぎっしり詰まっていたはずの中身がスカスカになって、誰からも顧みられないようになるのではと恐れはしないの?」

「ユメはそれがこわいのか?」


 川の上を通り過ぎる風が木々の新芽を揺らし、さあさあと音を発して背中を掻き立てる。


「こわいわ。わたくし、龍に命を差し出すのは仕方がないことだと諦めてはいたけれど、心を麻痺させずにはとても耐えられなかった。捧げたあと、お姉さまのようにとうに過ぎ去ったひととして忘れられてゆくのもいや。それから、御贄みにえになるために自室をからにしたときも、愛用の櫛や着物を乳母子めのとご侍女まかたちに下げ渡したときも、心まで龍に蹂躙されたように悔しかったわ」

「其方の心底望むことではなかったゆえ、つらかったのであろ。それなのに龍の御前にまで逃げ出さずにおもむいたのか」

「それがわたくしの使命だから。七人の姉が、みなそうしてきたのだもの」


 七人か。アラライは口の中で繰り返す。


(多すぎる。あまりにも。それを良しとする穂高ノ国とは如何いかなる国なのか。最後に残された姫を単身遣いに出すことからも、健全な国家運営がされているとは考えられぬ)


 慣れない様子で砂利道を歩くユメの姿に、アラライは目を伏せた。


「其方は末の姫であったな。それが余計に心をくじくのやもしれぬ」

「どうして?」

「未来を託す相手がいないからだ」

「よくわからないわ」

「ユメのことはユメにしかわからぬ。私は推し量るだけだ」


 突き放すような言葉にユメは顔を上げるが、前を歩く男の表情は判然としない。


「それなら、アラライは? あなたはどうなの?」

「私は、おのが物など持たぬようにしている。いかに大事に思えるものでも、意固地になって抱え込むほどにそのかたくなさが棘になり、周囲を振り回す。そして見渡したときに気づくのだ。抱えていたものがどれほど取るに足らぬものかと」


 そう話す声は深く、暗い。


「であれば必要とする者の手に渡ったほうがよかろ。さいわい私はひとより多くを授かって生まれている。譲り渡せるものが多いのは僥倖だ」


 ユメは今こそアラライの目が見たいと思った。

 彼の持つ、ひととは異なる翠の瞳は感情を隠すのに向いていない。常におとなびた笑みを浮かべようとする彼の意に反して、喜びにかがやき、憂慮にかげる瞳が最も正直な反応を返す。


 彼の袖を強く引くと、一呼吸置いてから顔が向けられる。

 翠の目は迷いなく澄んでいた。アラライの心からのほほえみに、尚の事ユメの心は釈然としなくなる。


「それでアラライはしあわせなの?」


 ユメの腑に落ちない気持ちがすべて声に乗ってしまったせいだろうか。

 アラライは困った子を見るように小さく笑い、ないしょ話をするように口元に人差し指を立てた。


「ユメ。私は大層傲慢で欲張りなのだ。私は常に幸福だが、それだけでは満ち足りぬ。すべてを抱えて見回したときに他の者が飢え、苦しみ、不幸を嘆いていては私がつらくなる。世に生まれ落ちたすべての民が安らかでなくては。だがな、現実はそうではなく、私が手を尽くしても地の果てまで手を届かせることは到底出来ぬ」


 不可能を口にしながらも、彼の目はきらきらと希望を宿している。


「それでも、私の下げ渡しによって充足した民が己が隣人に目を向け手を差し伸べるようになれば、いずれ理想に近づこう。それが私のしあわせで、何に代えても譲れぬものだ」


 アラライの慈しむような表情に、彼の屋敷への道々に掲げられていた高価な品の持つ本当の意味が浮かび上がった。

 彼が施したいのは富ではなく、善行をよしとする心そのものなのだ。見よう見まねであっても彼と同じ行動を取る民が増える日を夢見ているのだ。


「あなたは高尚なひとだわ。どうして? わたくしには真似できそうにない」

「これは私だけの理想だ。其方が私と同じように考える必要はない」

「そうかしら。ちがうわ。わたくしはその理想と心底向き合わなければならない。だって――失敗はしたけれど、わたくしは御贄みにえになるために生かされてきたの」


 この身のどこまでが我が物でどこからがそうではないのか、それがユメにはわからない。


「あなたと同じ理想を持てないのは、あなたがやさしいひとで、わたくしが心無き女だから?」

「そうではない。私はやさしさゆえに譲り渡すのではない。だれもがずは自らの事情を優先する。当然、私の行動にもそれなりの理由がある」


 薄暗くなった小さな船着き場で、アラライは二人を待っているはずの船頭を探す。見つけえて合図を送るかたわら、低くささやいた。


「それは、おぞましいものかもしれぬぞ」


 アラライは口元さえも笑っていなかった。


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