第18話 神隠し返しの子

 ユメからの許しに、アラライは再び指先を龍へと向けた。川の上ではなく、陸地の上空をしている。


「ほら、あれだ。遠く霞みたれど、雲というには赤茶けた大綱が泳いでいるように見えるであろ。わかるか?」


 今度はユメの目にも捉えることが出来た。青空の中にありながら、落ちかけた夕日の差した雲のようないで立ちで、不自然に暗く異様に大きい。


「あれはわたくしの見た龍ではないわ」

れば龍は二柱居ることになる。の龍は赤土の色の身衣みごろも鬼灯ほおずきのごと赤い目を持っているが――そなたの見た龍の様容さまかたちはいかがであった?」

「遠見ではあるけれど、澄みし空に溶けるような色の鱗の龍よ」


 クラと見た龍を思い描きながら、姿を言葉に換える。

 龍が複数いる可能性が示されても、ユメは直観的にあの龍をかつて『おとびら』の隙間から見た龍と同じ存在だと感じ取っていた。翠の目のまわりに広がっていた鱗の色と、関越えのとき空に身をよじっていた鱗の色が、そして全体の印象がぴたりと同じであったからだ。


「代々穂高の巫女姫が鎮めている龍なの。以前化現けげんされたとき間近で見たわ。宝玉のような翠のまなこをお持ちで、息の一吹きで人間が吹き飛びそうなほどに大きいの」

「空色の龍。翠のまなこの……」

「あなたのようにうつくしいまなこよ、アラライ」


 手すりの上の腕に手をかけてユメが振り向くと、アラライも目を向けた。

 思いに沈むような深い色のまなこにユメの顔が映り込む。


「八年前に姉姫が御贄みにえとなり鎮めたのに――龍にとっては忘れるほどに古き事とされてしまったのかしら」


 アラライもまた、ユメの目に映るおの眼睛がんせいをつぶさに見つめた。

 ユメの黒々とした玻璃のような目の中では、アラライもかねてのような色を持つ。しかしそれは現実うつつではない。

 高価な銅鏡を覗かずとも水面に反照せし身を目にする機会は万とある。それでも朝夕映る己れの姿を、アラライは信じられぬままでいた。

 ついに向き合わねばならぬときが来たのだと、諦めの思いで眉間の力をほどき切る。


「ご立派な姉上だ。だが、八年前か――連綿とつながるものがあいわかったぞ。の龍も居るのだな、ぐ近くに」

「この川のほとりのいずこかには、未だいるものと思うわ」

「川に棲む龍なのやもしれぬな」


 低く納得したように呟いたアラライは、ユメから身を離すとすとんと腰を落とした。片膝をついた格好で首を垂れ、大きな髪留めを除ける。

 ちらりと見えていたものが、ユメの眼前に改めて曝される。アラライの丹念になめした皮のようにしっとりとした首筋の中で、うなじから首にかけてのみ広がっている蛇のような、蜥蜴のような、龍のような鱗。日の光を受け光彩陸離としている。

 並び立てようもなく絶美にして不吉な姿に、ユメには次の句の予想がついた。


の龍、鱗は斯様な色をしていたのではないか?」

「かほどに玲瓏れいろうたる真珠色ではなく、くすんでいたけれど……よく似てる」


 空のようでもあり、光の加減で色を変えるさまは虹のようでもあるこれは、今しがた思い起こした龍の持つものと瓜二つとさえ言える。


「どういうこと? アラライ」


 アラライが髪留めにかけていた手を離すと、大きな飾りと豊かな髪で首筋が隠れた。わずかに見えている部分も金の彩りによって目立たない。

 アラライは膝をつけたままで、ゆっくりと川の隅々までを眺めてからひとつ頷く。


「我が背の鱗は龍よりたまわった。人ならざるいろの毛並みも眼球めだまも授かり物だ。――八年前、私はこの地でそなたの姉上が鎮めたあとの龍にっている。弱って水蛇ほどになった龍神に、幼な子であった私はわずかひととき隠された。そして少しの問答の末、龍曰く『龍の持つ最もうつくしいもの』と共に還されたのだ。それが何かはわからぬ。わからぬが、その日より私の身は常人からはかけ離れたものとなった」


 ユメを見上げたアラライは、とろけるように頬をやわらげ目を細めた。

 その瞳がどんな感情をたたえているのか、ユメには全く読み取れないでいる中で、アラライがとびきり優しく弧を描いた唇を開く。


「であるから、神意が私を呼ぶのであればの日の龍が清算せしめる向きであろうと思ったのだ。まみえることあたうならば、何もかも返したてまつる覚悟は決めている」


 折しもその場所は、御贄みにえの場の『おとびら』と同じくさいの川に迫り出した高台の端となっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る