第17話 賽の川端
三叉路に差し掛かると、奇妙なにおいのする湿った風がもったりと流れてきた。
顔中をへの字にするユメにアラライが涼やかに笑い、「潮風だ。この先は海であるゆえ」と教える。
アラライに手をつながれたユメは仕方なしに路地を曲がった。
すぐにまた横道を選ぶアラライの足取りに迷いはない。
路地を形作っていた長屋の端に辿り着き屋根の切れ目から大きく視界が開けたと思うと、広々とした
アラライが
「やや、
「ああ。丘のほうへと付けてほしい。出せるか?」
「かばかりの波は物にもあらずってもんです。
「では頼もう」
先に船に移ったアラライがユメに手を差し出した。ユメはためらいなくその手を取ってはずむように船底に足をつける。
途端にふわつく足元を物ともせずに口をあけて辺りを見回した。船が川縁に身を打ち付けるたびに
幼な子の面倒を見るようにユメの手を握って放さぬまま、アラライが問うた。
「明日は荒れそうなのか?」
「雲の具合は悪くはないですよ。ただ
「そうか……」
「
アラライの目から見ても水面は日頃よりも高い。波の多少はわからぬが。
「川上に向けては船を出さぬほうがよい。渡し船も取りやめているそうだ」
「そりゃあ良くない話ですな」
「ああ。
「かたじけなきご配慮です。わしら一同黄金日子様には頭が上がりませんな」
屈託なくからりと笑う男の顔に、ユメはふと
アラライは常より、このように都中の民に声を掛けながら信頼を築き上げてきたのだろう。民にとっては王よりも身近で気性の穏やかな黄金日子は重宝されているにちがいない。
語らううちに船から降ろされたユメは、坂道を懸命に歩き、その
途中アラライが足を緩め幾度も窺ってくれたが、ユメにはくじけられない理由があった。
ほとんどアラライに腕の力で引き揚げてもらいながらも立った物見台の柱に手をつき、息を整える。その頭上ではアラライが、ユメの乱れた髪を指先でなだめるように撫でつけていた。くすぐったさに顔を上げると、大きな褐色の手が山藍染めの手拭いを差し出してくる。無垢な顔で布地を見つめるユメに苦笑したアラライが、透けるように白いこめかみからにじみ出した汗粒をちょんちょんと拭った。
「そなたが自力で歩き切るとは思わなかったぞ。疲れたろう」
「だって歩けなければ背負うとおっしゃるんですもの」
「いやか?」
「アラライ、わたくしのことちい姫さまと同じくらいの
「……乙女だと心得えているよ」
すっと目を逸らした件については追い責めぬこととしよう。
「それより、此処が最も遠見に向く。
彼が指差す先には
こうして俯瞰することで、ユメは川縁の広いこの川が、旅の中で常に右手にあった川と同じものなのだと知った。
山奥にあるクラの仙ノ国から平地に広がるユメの穂高ノ国、そして海にほど近いこの
「――龍は居ろうか」
しんとした空気を打つアラライの声に、ユメは物思いから立ち戻った。
川の上、雲の重なる切れ間や影を丹念に見てゆく。
「ええと……いないかしら。いないならそのほうがよいけれど、何処かで暴れているのではないかと案じてもしまうわ。穂高と仙に降りているのなら、わたくし……」
目を彷徨わせながら不安な気持ちで言葉をつないでいると、目の端で光が妙な跳ね返り方をした。すぐさまアラライが鋭く呟く。
「居る」
「見えて?」
「ああ。空の彼方だ。あれは天降山よりも高く巨なるのではないか? ――もっと上、私の指先を見よ」
アラライはユメの体を引き寄せると、胸の前に置いた。手すりに置いた左腕で落ちぬよう器用にユメの体を押さえ、かがんで目の高さを合わせた彼の右腕が、背後からユメの頬に触れんばかりの距離で伸ばされる。
必然、抱きしめられているような体勢になったユメは小さく笑った。
ユメは世間知らずだけれど、男女のことにまでそうではない。父王が臥せって以来、長らく同じ屋敷の中に信用できない叔父や従兄が暮らしている都合上、親密な関係にない男との適切な距離感はユメの中にしっかり根付いている。
(やっぱりアラライはわたくしとちい姫さまのちがいをわかっておられないんだわ)
ユメとしてはこの随一にきれいな男と出会って、こうして対等に話ができることに浮足立つ気持ちがないではないというのに、アラライからはまったく意識されていないのだとがっかりしてしまう。アラライ自身が言葉では満更でもなさそうに言っていたから、尚の事だ。
ユメは振り向いて、少しばかり責めるような顔をした。
するとわずかに寂しそうな目をしたアラライが即座にユメを解放し、体を離す。申し訳なさをにじませながらもにこりと笑って、仕切り直すかのように
予想外の反応に、ユメはまじまじとアラライを見る。
(もしかして、いけないとわかっていながら行ったの? 幼子扱いをしたのではなくて?)
ユメは考える。
普段は殿方に許す距離ではない。ではないが――しなやかな腕はべたべたもねっちょりもしていなくて、好ましかった。包まれたときに立ち昇った慣れない匂いも嫌いではない。それにあたたかかった。
そういえばまだ風が冷たい季節だ。背中が包まれるのはとてもあたたかい。それなら――あたたかいのなら、アラライとの距離がこれで変に離れてしまうよりもずっとよいのではないだろうか。
ユメは離れてしまったアラライの腕を取って、先程のように体に巻き付けた。
「まだ肌寒いものね」
「――ああ。汗が冷えてはいけないな」
背後から応じる声はまるきり棒読みで、その積極的なのかそうでもないのかよくわからない態度にユメはなんだかとびきり安堵した。
「さあアラライ。もう一度教えてくださいませ」
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