第16話 帳を上げて

「……わたくし、あなたのことはアラライと呼ぶわ」


 ユメが小さな唇が、毅然と言い放つ。

 一切媚びず、異論を許さぬ頑迷さに、ゆるやかな弧を描き続けていた黄金日子の口の合わせがふっと解けた。現れた素顔は世慣れぬ少年のようでもある。


「わたくし、あなたをアラライと呼ぶ方をひとりも見ていない。あなたは常日頃からその名を名乗ってはいないのではないかしら」

「ああそうだ。告げぬ――ゆめゆめ」


 低く答えた黄金日子はユメから目を逸らした。

 首の後ろを撫でつけながら、ふわふわと足を進める。


「まいったな、私も浮き足立っているのであろ」


 蘇芳色の衣を纏った背中越しに、自らのひらいた手のひらになにかを見出さんとするなめらかな頬が見える。


「そなたを見かけた民たちからいくつもしらせが上がっていたよ。あてなる姫君が都入りしたようだ、蚕繭のごとく肌の真白き、いと麗しい姫だ、きっと私を訪ねてくると。しかしてすぐに現れたそなたはどんな言の葉よりもずっと……」


 声は消え入るばかりで、それ以上音にならなかった。

 彼は首をゆるく振る。


「ああ、いや。同じ年齢としよわいの姫君と話すのは、私も慣れなくてね――国を出て以来だ。それでどの名を使えばよいのかわからなくなってしまった。私の誤りだ。さりとてそなたは案ぜずとも――」


 やわらかな口ぶり。あたたかみのある声色。

 他人の望みを叶えると言いながらやさしいとばりで願いを覆い隠そうとする彼の言葉を、ユメはそれ以上聞いていられなくなった。


 手の届く範囲で最もやわらかそうな部位――二の腕に狙いを定めて手を添わせる。

 声が途切れ、黄金日子の腕がびくついた。

 振り向いた黄金日子の瞳に映る黒い瞳はとてもつよい。少しは黄金日子のようにやわらかな目をしたいと思いながらも、ユメにはその方法がわからない。


「わたくしが相手だからと教えてくださった名なのでしたら、わたくしに受け取らせて」

「……今は働きの死んだ名であるのにか?」

「名乗った意図にあなたが辿り着かなくとも、わたくしが思い解きます」


 黄金日子は戸惑った顔で首を傾げている。

 しかし、ぱちりとゆっくり瞬いた目はそれと対照的に好奇心を灯らせはじめた。


(門の前で出会ったときにも、目を煌々きらきらさせていたわ。わたくしはこの目を信じたいの)


 彼の腕はほどよくついた筋肉でユメが想像したほどふにゃりとはしなかったが、あたたかだ。


「わたくしはユメと名乗るたびに胸がとくんと高鳴ります。あなたもアラライと口にするとき、期待したのではない?」

「ああ――したぞ。期待した」

「では期待に応えられるわたくしでありたいわ。アラライと呼ばれたら、きっともっとくすぐったい気持ちになってよ」

「そうやもしれぬ」


 大人びたほほえみを手放し破顔した男がとても等身大に思えて、ユメは背伸びして彼の耳元にささやきかけた。


「アラライ」


 黄金日子が身をかがめて打ち笑う。


「アラライ、アラライ」


 繰り返すユメに、顔を腕で隠した黄金日子が弦をはじいたように低く空気を震わせて名を呼んだ。


「ユメ」


 耳に火がついたような心地がして、咄嗟に耳を手のひらで覆う。そんなユメを黄金日子がかろやかに笑いながら眺めている。


「アラライはときどき悪戯をするのが好きね?」

「ユメは愛らしい面立ちなのに情のこわい娘だ」

「褒め言葉と受け取っておきますわ。わたくし、どんなに押さえつけられても決して屈しません。せっかく自由と未来を手に入れたのだもの」

「自由と未来への希望あらましには勝てないな。……真名で呼ばれても私は黄金日子を呼ぶ民の声に目を向けつづける。それでも――ほかから黄金日子が望まれず私の目がそなたを捉えているあいだであれば、ひとりの人間として出来うる限りで応じよう」

「あなたの誠実さを好ましく思います。改めてよろしくお付き合いくださいませ、アラライ」

「ああ。改めて、よしなに頼む――ユメ」


 あたたかな感情を透き通った笑顔に乗せたアラライに向かい合うと、ユメの口元も自然とやわらかく開かれた。頭が触れ合うほど近くで頭を下げ合って、どちらともなく相好を崩す。

 ユメの手をアラライがつよく握った。もう指先をていねいに掬いとるような遠慮はふたりのあいだに存在しない。


「さて。龍をにゆくのであったな。待ちくたびれさせてはいけぬ」

「龍をですか?」

「そうだ。ユメも龍をもくしたろう。語らったことはあるか? 私の見知る龍は心短き神であったぞ」


 無邪気な笑顔を見せるアラライに、通りゆく人が時折珍しげな目を向けてゆく。

 ユメは「語らう……?」と口の中で言葉をまごつかせながら、機嫌よく手を引くアラライについて歩いた。

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