第15話 楡芽と荒雷

 いや、ユメの目が曇っていただけで、黄金日子の目は先にもこんな色をしていなかったか。

 口に出さずにいただけで、ほほえんでいただけで、目の奥は気懸かりをこらえてはいなかったか。


(どうして苦慮なさらずにあの場でおいさめにならなかったのかしら。よもや、わたくしが不手際の指摘をお願いしたから口になさったの?)


 その見立てはユメの胃の腑にしっくり落ちた。

 ユメはあまり事をおそれたりはしない。

 ゆえに過分な配慮を必要としていないのだが、黄金日子の翠の瞳は幾度もユメの心のうちを覗きにくる。

 心がってはいないか、張り詰めてはいないか、困ってはいないか。そんな声が聞こえてきそうなほどに、この人は行きる人の心が気になって止まないのだ。


 ユメが織機をときほどいてまた組み上げるときと同じくらい細やかな目が、つぶさにユメの心へと注がれている。

 であれば、上っ面をすべるような返答をするのはあまりに不誠実というものだろう。


如何いかなれば名を隠しましょう。わたくし、名を告げる機会に胸をふくらませているのです。あなたの御名を口に出せずにいるのは、その――わたくし、決めかねてしまったから」

「わかっている。あれほど含むところのある名乗りでは無理からぬ。道理であろ。私が悪かったのだ。私は……そなたが然様に慎重にいずれかの名を選ばんとするとは思い至らなかったのだよ」


 烏羽玉うばたまのごとき黒い硝子玉と翡翠カワセミよりも鮮やかな宝玉眼が一線を結ぶ。

 わかり合えたような安心感にユメは力を抜いた。途端に握り締めた手のぬくもりが胸をくすぐる。そして往来を通る民の日常感と黄金日子の真剣なまなざしとの間の隔たりに、どうしてかとても、とても面白みを感じたのだ。

 くふふとくだけた調子で笑い始めたユメに、黄金日子が目をまるくしたのち、同じような面持ちでふふふふと肩を揺らした。


「もしかして、わたくしたちはどちらもちい姫さまよりご挨拶が下手だったのではないかしら」

「さもあらん」

「ね。もう一度機会をくださいませ。わたくし、あなたの声で呼ばれたい名があるのです」


 距離が縮まったことを確信して、ユメは黄金日子を見上げた。背の高い彼は少し身をかがめてくれている。顔は手の届くほどに近い。

 彫りの深い美貌は彼をとおい人に感じさせるけれど、きっと心映えまでそうではないのだ。その証左に、彼の瞳は終始やわらかく人に寄り添っている。


「よいよ。伺おう」


 目礼を確かめたユメは握り続けていた黄金日子の手を離し、『おとびら』の前でするように身なりを整えた。肩肘を張らずに、背中の一本線を意識する。龍のものと寸分変わらぬ天上のまなざしを感じる。一呼吸を置く。


「わたくしは穂高の王の末娘で、国に残されたただひとりの姫です。国ではもっぱら巫女姫、もしくは御贄みにえの姫と呼ばれているけれど、わたくしは母に賜った楡芽ユメという名で呼ばれるのがいっとう好き。ですから、わたくしのことはユメとお呼びになって」

「わかった、ユメ。私からも改めて名乗ろう。私は萼ノ国群がくのくにむれの皇の一の皇子みこ荒雷アラライ。だがそれは古き名だ。いとけない時分には程よく期待を授かった身なれど、とかくあって斯様な見目になったゆえ父皇を捨て、父皇に捨てられた。かる身の上から、国では捨て皇子みこと呼ばれている」

「そんな呼び方って……」

「よい。事実、私は手にしたものは何でも捨てるとしている。身ひとつで居たいのだ」


 きっぱりと首を振る黄金日子の目に悲壮感はない。ただ、地に足はつかず気持ちも遠くに向いているようだ。

 指先がわずらわしそうに髪飾りを引っ搔いた。彼が身に着ける中でも最も高価であろう、重たげな黄金に大振りの翡翠がはめこまれた装飾品は、意に反して彼が捨てられないものの大きさを思わせる。


「その後うらぶれた身をこの布谷国が引き受けてくれた。その礼に、私を新たなる名――黄金日子くがねひこと呼び縋る者の頼みは、あまねく叶えると決めたのだよ。何をなげうっても宿望しゅくもうがんとしよう。なれば、ユメも私を黄金日子と呼び願うがよい。この名に誓い、必ずや私が手立てを見つけて龍を討つ」

「必ず龍を……」


 たとえばクラであれば、ためらいなく彼を黄金日子と呼ぶのだろう。

 けれどユメの喉はひりついた。彼を黄金日子と呼んで縛り、龍に立ち向かわせるのがほんとうにユメのしたいことなのか。


 ユメがクラから離れたのは賢く生きるためでも、成果を持ち帰るためでもなく――自らの心を解き放つため。なにを成すのがよいのか考え抜き、選んだ答えを成すべく困り果てるまで試みるため。

 黄金日子と呼ぶよう言われて抵抗を感じるのなら、ユメの心は決めているのだ。そう呼びたくはないのだと。

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