第4話 翠のまなざしを持つ美男

「ヒメよ、もっと『おとびら』に近寄るんだ」

「いいえ、先代にはもっと手前から開いていたような。近過ぎて開かないのでは?」

「おお。そうか。では此方こなたに来なさい」


 慌てた叔父の指図は声をひそめても仙ノ国側にも丸聞こえなほどだったが、それを指摘する余裕のある者はない。


 叔父の身振り手振りに動かされ、一度は神の国に向けて浮遊していたユメの心も急速にこの世に戻された。

 右往左往する穂高ノ国と、開くことのない『おとびら』に、一の仙と仙ノ国の王は揃って顔を天に向ける。

 焦れた叔父が息子と共に、とうとう『おとびら』を力まかせに開こうとするが、勿論少しも動かない。


 さんざめく場をかき乱す一同の心を引き裂くように、ぎいぎいと鈍音にびおとが覆いかぶさった。それが『おとびら』を向こうがわから龍の爪が削る音だとわかるや否や、誰もが『おとびら』から飛び退いて、黙り込む。

 ひとりユメだけが、『おとびら』の隙間に顔を貼りつけて向こうがわを覗こうとした。光の一筋も見られなかったが。


(どうして開かないの? これじゃあわたくし、御贄みにえになれない……ううん、ならずにいられるのかしら。もしかして、お姉さまがおっしゃっていたのはこのこと?)


 ユメの心に予感がよぎる。

 そして爪音が聴こえなくなるやいなや、叔父の特大の雷が場の神聖さをつんざいた。


「お前は! 御贄みにえから逃れようと、細工をしたのではあるまいな!?」

「そんな大それたこと、わたくしはいたしません」


 こうなっては儀式どころではない。

 ユメの肩に叔父の太い指が食い込み、音を立てて『おとびら』に押し付けられる。

 ユメはすぐさま我が身の潔白を訴えようと、叔父をまっすぐ見据えた。

 忌々しそうに顔を歪めた叔父の手がユメの頬をはる。


「どうだか! でき損ないの巫女が」

「父上、落ち着いてください。ユメにそんな力はありませんよ」


 従兄がふたりの間に割って入り、叔父を引き離した。その目がちらちらと仙ノ国の一行の出方を窺う。

 王と目を見合わせていた一の仙はその視線に気づくと、叔父に歩み寄った。


「私は一ノ仙として、御贄みにえのヒメの意図により『おとびら』を閉ざすことはあたわないと判じます」

「では其方がとちったか、仙の王子よ」

「断じて。穂高の王の代理殿」


 一の仙の濡れそぼつ川底の土のようなくり色の瞳が叔父と視線を切り結んだかと思うと、次いでユメに向けられる。


「原因が何にせよ、これより如何いかがするかは水鏡に問うてみるのがよいでしょう。水盆を此方こなたに」


 まるきり変声前の王子が、場の支配者のように命じる。当然のように仙ノ国の従者により運び込まれたスズの盆に、とくとくと真水がそそがれる。

 ユメは静かに俯いた。


 姉姫との秘めごとは、水鏡に暴かれてしまうのだろうか。


(わたくしは何もせなかった。であれば、お姉さまが……?)


 ごくりと唾をむ。

 心の臓が早鐘を打つ。

 一の仙が水盆の前に座し、ユメにも馴染みの神問いの句を唱える。


「とほかみえみため。退龍の法をただす。こいねがわくば明らかに之を告げよ」


 問いに呼応するように水面みなもに浮かび上がったのは、宝石のような翠。

 翠のまなこ。


 龍のものではない。ひとりの男の眼窩に嵌まったものだ。

 かといって、ただの男ではない。この世の者とも思えないほどうつくしい男だ。


 涼しい目元に見慣れぬ明るい色の睫毛がかかる。

 通った鼻筋は高すぎも低すぎもせず、軽く笑むような唇は胸をくすぐる声を朗々と発するだろうと容易に思わせる。

 日に焼けた肌も丁子で染めた香色のようにちょうどよい塩梅で、極めつけは陽光に照らされたたわわに実る稲穂を思わせるような、黄金色の御髪おぐし。巨万の富を思わせるその髪は首元でひとつに結わえられ、胸元から腰までを錦のように飾っている。


 こんな美丈夫はどこにもいない。

 いいえ、ずっとこの翠のまなこに焦がれていたのではなかったか。

 この目を惹きつけたい。釘づけて、ひとときも逸らされぬようにしたい。手を伸ばし、間近から角度を変えてまじまじと眺めたい。見つめ返されたい――いいえ、この天上の瞳に映されるだなんて耐えられない。


 ユメは、言葉も発せないまま男の姿を胸に焼き付けた。

 ユメだけではない。男が水鏡の中で髪を手で打ち払い、立ち上がるのを見てほうぼうから吐息がこぼれる。

 男が挑戦的な目でまっすぐに手を伸ばし――


 一の仙が水面を手のひらで搔き乱した。


「なんということを。勿体のない……」


 そんな言葉が衝いて出たことを、誰が責められよう。


「いっぱしに干渉しようとしてきた」

「まさか」


 一の仙のぽつりと放った言葉をユメだけが拾った。一の仙の目がユメと交わる。


 この場で神事を司った経験があるのはふたりだけだ。

 だからユメだけが、その異常性を理解できる。垣間見られている者が占われていることに気づくなど、天の視線を感じるようなものだ。ただびとのすることではない。

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