第3話 『おとびら』

 ひとりで身支度を整えたユメが打ちひしがれるように清めの場を出ると、飾り立てられた馬に乗せられた。


 馬は貴重な存在だ。穂高ノ国では王の館でしか飼育されていない馬は、王族の男と御贄みにえしか乗せることはない。

 今まで経験したことのない揺れと高さにユメは、馬の首にすがりつきたいのを堪える。


 ぐっとお腹に力を入れて、上体をまっすぐに伸ばすと、そこには新しい視座があった。

 腕をいっぱいに伸ばせば枝に届きそうなほどの高さ。追従し馬を引く幼馴染の男を頭を上から見下ろすのは、なんとも新鮮な心地だ。冷たい空気を肺いっぱいに吸いこむ。

 馬の足取りに添うように身体を揺らすのは、存外おもしろい。

 いいや、浮足立つほどだ。


 頭上の高枝から、溶けることなく残る終わりの雪がずり落ちようとしているのが、馬上からはよく見えた。ずざざと近くで物がずり落ちる音に周囲の者たちが肩をびくつかせる。

 雪がなくなり枝間から差し込んだ陽射しに、ユメはふっとつとめを忘れた。


(ああ、春楡ハルニレだわ)


 ユメは春楡ニレの枝先が芽吹いた日に生まれたのだと、乳母めのとが教えてくれた。それを見て天高く枝を広げる春楡ハルニレのように無事大きく育つようにと、母は願ったのだという。


(わたくしは、お母さまの願いのとおりに大きくなることはできなかった)


 馬を引く従者のとなりで母が、ユメの取り分がないほどにさめざめと絶え間なく泣いている。

 七人の娘を見送ってきた母の御髪おぐしは白く、末の姫であるユメなくして支える腕もない。愛情深い母が今まで何度も感じてきたであろう痛みは、我が身よりもなお不憫だ。


(せめてお父さまが回復してくだされば、お母さまもご安心でしょうに)


 詮無いことだ。父王がお倒れになってから六年。健勝なころの影もなく、今はただうなるだけの存在におなりあそばせた。

 叔父が先導する行列は、誰もがみな無口になっていた。



   ************



 川の急流に迫り出す崖に造られた神殿の前で、平地を領土に持つ穂高ノ国の御贄みにえ一向は立ち止まり、対面に並び揃った仙ノ国の仙者一向と顔を合わせる。


 元は同じ国であった穂高と仙の指導者たちは、儀式の間だけ手を取り合うのだ。


 場を設え、朗々と祝詞をうたい上げるのは仙ノ国の王の第一子である一の仙。

 頭から被った美しい織の薄布とゆったりとした衣装で身体の線は見えないが、その背丈はユメよりもこぶしひとつ分は低い。それなのに迷いない動きは堂に入っていて、危うげない。


 ユメは彼の取り仕切る儀式を他人事ひとごとのように眺めていた。


 ユメはおとなになれなかった。

 けれどもうすぐ、再びあのすべてを見透かすような翠の瞳と出会うのだ。

 出会ってどうなるというのだろう。たった一瞬の邂逅ののち命が終わるというのに、心はどんどんと高まっている。


 ――――シャン


 鈴の音を合図に、ユメがすべらかに指先から踏み出す。


「それでは、御贄みにえのヒメよ。今生に別れを告げ、よく龍に仕えよ。いざ去らば」


 声変わりもあやしいような高い声が、おごそかに響く。

 性別さえ見失うような声がいっそ神がかっていて、この場に相応しく思えた。

 記憶の中と同じように、一の仙も含めてすべての者が顔を伏せて祈り始める。


(ごめんなさいお姉さま。お言いつけ、守れなくて……)


 ――シャン、シャン


 鈴の音が震える足を支える。

 背筋だけはあの日の姉のようにと、精一杯に伸ばす。誰も目にすることのない有終をせめて美しいものにしたいと。


 永遠のような数歩が、あっという間に終わりを迎える。

 『おとびら』の前に立ち、すっと息を吸った。

 静寂に包まれた場を吹き飛ばしそうなほどの、龍の鼻息が聴こえる。

 そして――


「――――?」

「まだか?」

「どうした、なぜ開かない!」


 ユメの前で『おとびら』はぴくりとも動かない。

 頭の中でなにかが弾けたように、ユメの視界がまっしろになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る