第2話 清めの場にて

 あれから八年。

 幼子であったユメは凍るような水で身を清め、姉姫と同じ衣に袖を通した。


 八年前、この場で姉姫に告げられたお言葉が忘れられない。

 姉姫はこうおっしゃった。


「お前は御贄みにえにはなりません。わたくしがそう決めたの」


 ユメがあまりに情けなく、姉姫にすがったからだろうか。

 驚きのあまり、ユメは姉姫に反論した。


「どうしてお姉さま! わたくしがおとなになりたいと言ったから? でしたら子どもの頑是がんぜない泣き言とお捨てになって。どうかわたくしにもお姉さまがたと同じおつとめをさせてくださいませ」

「いいえ。あなたは小さいころからいつも、耐えがたいときにもじっと黙るから、この子はとてもおとなしいのだと思ったら――大事なことは言葉にせずに、行動で示す子なのだとわかったわ。覚えていて? 織布の出来でおとなたちが揉めているときに小さいあなたがひとり外に出て、鬼気迫る勢いで機織はたおり機を改良していたのが昨日のことのよう」

「今そんなお話を……」

「そんなあなたが言うのだもの。わたくしも、身を捧げる他の選択肢があったのかもしれないと、今になって思います」


 姉の目は、すでに神の国に半ば捧げているかのように澄んでいた。

 ユメの肩を抱く腕がひんやりと冷たい。


「あなたはお母さまとこの国のゆく先を守ってゆきなさい。贄になるよりもつらい道に、今日のわたくしを恨みに思うかもしれない。けれど、あなたにしかできないことよ」

「いやです! いやですお姉さま!」


 あの日、あんなに泣いたのに、お姉さまは撤回なさらなかった。

 そしてお姉さまのおいいつけを守ることもできないまま、ユメはふたたびこの清めの場に立っている。


 清めの場で身支度を手伝うのは、次代の御贄みにえと決められている。

 姉姫――七の姫の支度をしたのは八の姫であるユメであったが、ユメに妹姫はいない。ユメはひとり、最後の身捧げに挑むのだ。


 襟の合わせをととのえ、帯を結んでいると、かじかむ指が震える。そういえば、姉姫の最期の帯結びのときにも指が言うことをきかなかった。


(ごめんなさい、お姉さま。きれいな結びの帯で送り出して差し上げられなくて。それに、お姉さまの最期のお言葉、守れなかった)


 ひとときも忘れたことなどない。

 だけど、ユメはとうとう、それを守ることができなかった。

 ただ静観してこの日を迎えたわけではない。

 末の姫としてときに理路整然と、ときに情に訴えかけるように身捧げ以外の方法を探してきたのだ。

 だけど、結局はいずれ贄になる巫女としてしか、ユメは存在を認められなった。


(わたくしがおとなになって、女王になれていたら少しは違ったのかもしれないけれど)


 現実はそうはならなかった。

 ユメがおとなになる前に、龍は現れてしまった。

 国のゆく先を守り切るには、ユメはおとなになる道を捨てなければならない。国から贄を出す以外に、龍から許されるすべはないのだから。


 御贄みにえになることをいやがるとは姉姫たちと違い冷淡な末の巫女め、とこの八年言われ続けてきた。過去に受けた言葉が、冷えと共に足裏からじんとユメを責める。


(ほんとうに冷たい方々。だけど、冷たいのはわたくしも同じ。お姉さまのおいいつけのとおり贄を退くことも、心から龍に身を捧げようと思うこともできないのだから)


 七人の姉たちが受け入れてきたことを同じようにできないのは、ユメだけが劣っているからなのかもしれない。けれどユメには、ただお姉さまのおいいつけだからというだけではなく、状況に流され型に嵌められるのは間違っているという確信めいた信念があった。


 だからといってどんな信念も現実を曲げることはできない。ユメは今更逃れられないことを知っている。

 裸の足裏で床をキュッと鳴らした。


 姉姫のときは初秋であった身捧げだが、此度こたび龍が現れたのは春のはじめ。山間やまあいは雪解けで足がぐずつく時分である。

 この衣で参道をのぼるのは堪えるけれど、ユメの足元は清らかなまま守られるだろう。御贄みにえにだけは馬が用意されているからだ。


 ユメの心の表層は、既にこの世から遠く離れたように静かだった。内面までそうだとは言わない。

 ユメの心は燃え上がらないよう丹念に水を掛けられ続けた火種そのものだ。


 死ぬのはこわくない。

 御贄みにえにはならないと言った幼い日から監視は厳しくなった。父に、叔父に、従兄あにに代わる代わる巫女のつとめだと言い聞かされながら祭事場の床に押さえつけられるのは、心を殺されているようだった。今度は自ら身骨に同じことをするだけだ。


 むしろユメには、何者にもなれないまま――燃え上がることも、何をする力をつけることも許されないまま、じっと座って外を眺めるだけの人形であり続けるほうがおそろしく感じる。

 そんな恐怖を感じるたび、おとなになりたいという想いとおなじくらい脳裏を強く占めるもの。

 それはあのときの龍のあやしくも生々しいまなざしだった。御贄みにえにならないと決めたのに、ユメはあのとき、この世にあらざる翠玉の瞳に見惚れてしまった。あの瞳にもう一度出会えば、何かが変わるような気がしてしまった。


 あの瞳を目に映したい。

 けれど背反するように、未だにユメの心は御贄みにえという運命を拒むのだ。


 ――このまま朽ちるなんて情けない。いいえ、悔しい。口惜しい。


 ユメは大陸渡りの銅鏡に、無力な女の――まだ蕾がほころぶ前の少女のかんばせを映す。ユメの面立ちはあの日の姉姫よりもまだ幼い。


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