雨とコーヒー

風凛咏

読み切り版

 運命なんてものは、この世に存在しない。

 少なくとも俺は、昨日までそう思っていた。

 そう……昨日までは。


 夏の暑さに頭がおかしくなってしまったのかもしれない。セミは鳴くが、俺は泣き方さえ忘れていた。

 ただ、一杯のコーヒーを運ぶだけの仕事。いつもとなんら変わらない日常。

 ただのワンシーン。


 そんな時、俺は初めて彼女と出会った。

 可憐で清楚な白いワンピースでさえも黒に見えてしまうほどの透き通るような白い肌。その肌を際立たせるような長い黒髪。この人のために存在するのだと思えてしまうほど、白い肌や黒髪のアクセントとなる麦わら帽子とひまわりの髪飾り。

 俺はこの瞬間、コーヒーのような瞳に引き込まれていった。




 両親がいなくなったのは、高校入学が前日に迫った日のことだった。

 残してくれたのはたった一枚の紙切れ。

しゅん

 高校生になったのだから、自分で頑張りなさい』

 たったそれだけしか書かれていなかった。

 それを見て呆然としていると、いつものように借金取りがやってくる。

 俺は両親がいなくなったということを伝えると、いつもは怖くて仕方がなかった借金取りに同情までされた。

 そんな彼を見て、俺はようやく気がついた。

 毎日のように両親を恫喝どうかつして悪い人だと思っていた借金取りは、ただ仕事をしていただけ。悪いのは借金をして返さない両親の方だ。


「俺にはどうすることもできないが、頑張れよ」


 そんな言葉をかけてくれる彼に、『この人は案外悪いやつじゃない』と思った。

 そしていなくなった両親に対して、『どうせ紙切れを残すなら千円札でも置いていけ』と思った。


 それからの毎日は楽しいことなんてなかった。

 せっかく入った高校は、一度も行くことなく退学した。

 寮のある仕事でなければ生きていけないと考えた俺は、とりあえず見つけた寮付きの職場で働き始めた。

 しかしその会社はいわゆるブラック企業というやつで、ワンルームとしては高すぎるほどの家賃として給料のほとんどが引かれ、税金や保険料などで引かれて残ったお金のほとんどは食費に消えた。


 ただ、生きることに精一杯で趣味もなかった俺は、意外にも貯金することができた。食費も削り、毎月二万円も貯金をしていき、俺は一年で会社を辞めた。

 人間関係も休みも給料も、何もかもが耐えられなかった。一年だけ、我慢した。

 仮にも社会人として一年過ごしたことで、少しばかりだが視野が広がった。これなら安いアパートを借りてアルバイトでもした方がマシだということに気がついたのだ。




 退職記念にと、俺は贅沢をすることを決めた。

 たった一杯のコーヒーを飲むために、手頃な喫茶店に入る。子供舌で飲めなかったコーヒーを、一度飲んでみたいと思ったからだ。

 店には五十代後半……もしかしたら六十代かもしれない紳士的なおじさんであるマスターと、同じくらいの歳の愛想の良いおばさんがいた。


 注文したコーヒーは、一番安いホットのブレンドコーヒー。

 ほろ苦い香りを楽しみながら、自分の人生のようだと考えていた。……いや、俺の人生はほろ苦いなんてものじゃ済まないだろうけど。


 コーヒーを飲み終えた俺は、少しだけ余韻に浸ってから会計をするためにレジに向かう。

 たった三百円の出費も俺には痛かった。ただ、一年ぶりの贅沢に、飲んだことを後悔するはずもない。初めて飲むコーヒーに感動までしていた。


 会計を済ませて店を出ようとした時、一枚の貼り紙を見つける。

 そこには『バイト募集』と書かれており、思わず会計をしてくれたおばさんに声をかけた。

 ――どうしても雇って欲しい。

 そのことを伝えると多少なりとも事情を察したのか、マスターはもう一杯コーヒーを出してくれた。


 俺は洗いざらい話をした。

 もしここで働けなかったとしても、ここに来ることは二度とないだろうと考え、思いの丈をぶちまけた。

 ――両親が夜逃げした。

 ――そのせいで高校に行けなかった。

 ――ブラック企業に耐えられなかった。

 その話をすると、二人は俺を優しく迎え入れてくれた。賃貸として出している店舗の二階に、格安で住まわせてもらった。

 実働八時間で時給は千円。休みは月八日程度。

 月給としては十八万円になるかどうかで税金や保険料などを引くともっと少なくなるが、それでも俺は十分だった。

 部屋も厚意で利益が出ないくらいに抑えてくれて、一万円で1DKと、築年数は経っているが十分すぎる広さだ。


 今までの自分の人生は不幸だったと思っている。

 ただ、この時にようやく、少しだけ幸せに触れた気がした。




 喫茶店で働き始めたのは十七歳になる歳。

 それからは少しだけ幸せだが、特に楽しくない日々を過ごしていた。

 お金に不安はあった。だから無駄遣いをせず、一切の娯楽を絶っていた。

 ただただ毎日バイトをして、休日には店に出す料理やコーヒーの勉強をする。マスター夫婦に楽をさせるためにと、経営の勉強まで始めた。


 そんな日々を二年と少し続けたある日、一人の少女と出会った。

 彼女の名前はわからない。俺は店員で、彼女は客という関係だからだ。

 そんな彼女を髪飾りからとって、勝手に『ひまわりさん』と呼んでいた。


 引き込まれるような容姿。恋愛なんて甘いことを経験したことのない俺は、これが恋なのかどうかはわからない。ただ、好意は抱いていた。

 しかし、それと同時に嫌悪感も抱いていた。

 清楚で綺麗なワンピースに麦わら帽子、ひまわりの髪飾り。小綺麗なひまわりさんは、今までの人生で苦労なんてしたことがないのだろうと思い、そんな感情を抱いた。

 もちろんそれも自分の勝手な妄想だということもわかっているため、自分にも嫌悪感を抱いていた。


 彼女は初めて店に来たその日から、毎週水曜日の昼頃に一人でやって来る。

 毎週毎週欠かさずに、毎回同じ白いワンピースを着てくる彼女が注文するのは、決まって一杯のコーヒーだけ。


 流石に秋ともなればノースリーブだったワンピースは長袖に変わっているが、白いワンピースを着てくるのは相変わらず。

 冬になっても上にコートを羽織るだけ。麦わら帽子もいつの間にか深紅のベレー帽に変わっている。


 年末が近づいたある日、ひまわりさんは水色のワンピースを着てきた。

 いつものようにコーヒーを注文する彼女。

 俺は思わず声をかけていた。


「今日は水色なんですね」


 そんなことを言うつもりはなかった。

 つい溢れた言葉に彼女は驚いた表情を浮かべていたが、返事をしてくれた。


「あはは、恥ずかしいですね……。ちょっとダメにしてしまったので、また新しいものを買おうかと思ってます」


 照れ臭そうに笑う彼女。

 よほど白いワンピースが気に入っていたのだろうか。

 ただ、新しいものを買うという言葉で、『やはりこの人は恵まれた環境にいる』のだとも思った。


 一度話しかけてしまったのだから変わらない。

 俺は「そうなんですね」と笑いながら返事をすると、続けて聞いた。


「コーヒー、お好きなんですか?」


 この半年ほど、彼女はコーヒー以外は何も頼んでいない。コーヒーでも様々な種類があれば、ご飯も軽食とある。

 それでも決まって一番安いブレンドコーヒーしか注文しないのだ。


「そう、ですね」


 濁しながら笑う彼女は、「毎週の楽しみなんです」と答えた。


「コーヒーだけだと、迷惑でした?」


「いえ、いつもありがとうございます」


 たった三百円のコーヒー。一日の売り上げで考えればほんの一部だが、彼女が積み重ねてきた『一杯のコーヒー』は大切な売り上げとなっている。

 彼女が来るこの時間は客があまり入らない時間帯のため、長居されたとしても構わない。

 店の特徴なのかもしれないが、食事時の昼頃よりも、学生たちが学校を終えた夕方頃の方が混雑する。

 そのため、こうやって話していても問題なく、客との関係を大切にする店のモットーにも沿っていた。


 ただ、引き際も大切だ。あまりしつこいと嫌がられるだろう。

 俺と彼女の関係は、ただの店員と客だということを忘れてはいけない。半年間、毎週話しているとはいえ、レジ以外の会話はこれが初めてなのだから。




 それから半年経ち、俺と彼女はたまに会話をする関係になっていた。

 主に雑談、短い時間ながら彼女は何回にも分けて話をしてくれた。

 まず、名前は『秋山椿』という。俺が勝手にひまわりさんと呼んでいたことを知ると、「なにそれ」と笑っていた。花の名前ということは変わりないが、季節が違う花だった。

 そして、秋山さんは近くの大学の経営学部に在籍している大学生の十九歳。俺は誕生日が過ぎて二十歳になっているが、秋山さんの誕生日はまだ……つまり同い年だ。


「店員さんの名前はなんて言うんですか?」


 下の名前で呼ばれていたためてっきり名乗ったものだと思っていたが、どうやらマスターに呼ばれていたのを聞いて呼んでいたらしい。


「桜井春です。『はる』と書いて『しゅん』と読みます」


 俺が名乗っても秋山さんは笑わなかった。

 小中学生の頃はよく同年代の子たちに『女の子みたい』と馬鹿にされていたのだ。

 秋山さんは笑わなかったどころか、「良い名前ですね」と微笑んでくれた。

 今まで嫌いだった名前だが、少しだけ好きになることができた。




 それから数日経った月曜日。俺は休日ということもあって出かけていた。

 とは言っても遊びに行くわけではない。さらにマスター夫婦の力になれるように、経営の勉強のために本でも探しに行こうと街に繰り出していた。


 そんな日の帰り道、雨に降られてしまった。

 幸いピンと来る本がなかったこともあって手ぶらだったため、自分が濡れるだけで済んだ。

 近くだったこともあって走って帰宅しようとしていると、ずぶ濡れになって雨宿りをする秋山さんを見かけた。


「秋山さん。どうしたんですか?」


 俺が声をかけると彼女は、「あっ……」と声を上げて戸惑っていた。

 どうやら大学はこの近くのため、それで毎週水曜日の昼休みはうちの店に来ているらしい。ただ、住んでいる家は少し離れており、濡れたまま電車に乗るのも、どこか店に入るのもはばかられ、歩いて帰るにしてもこの雨の中では少し遠い。

 それで途方に暮れていたようだ。


「とりあえず、雨が止むのを待とうと思います」


 そう締め括るが、いつ止むのかもわからない。そして夏の暑い日ではあるが、濡れたまま待ち続けていれば風邪を引いてしまうだろう。もう夕方のため、冷えてくるかもしれない。

 そう考えて、つい提案をした。


「俺の家、来ますか?」


 目と鼻の先にある俺の家。喫茶店の二階にある部屋まで、走れば一分とかからない。濡れてしまうが、すでに濡れているまま、いつ止むのかもわからずに立ち尽くしているよりはマシだろう。


 秋山さんはしばらく考え込むと、決心したように「お願いします」と頷いた。


 言ってから気がついたが、ただの店員と客という関係は変わらない。話すようになったとはいえ、そんな関係でしかも男の家に上がるのは相当勇気のいることだったはずだ。


 ともあれ、家に来ることになった。

 店の裏に回って階段を登ると、そこに俺の部屋がある。

 玄関の扉を開け、ようやく雨を凌ぐことができる。

 濡れたままでいるわけにもいかないため、タオルを何枚か用意して秋山さんに渡し、風呂場に案内する。サイズは大きいかもしれないが、寝巻きにしているジャージを着替えとして適当に渡した。


 俺は髪を拭いて着替えるだけ。どうせ夜には風呂に入るため、今はいいだろうと思ったからだ。

 冷えないようにと、温かいコーヒーを一杯用意して、俺は秋山さんを待っていた。




 しばらくすると、温まったからなのか、恥ずかしいからなのか、頬を赤く染めて上気させた秋山さんもさんが出てくる。


「……ありがとうございます」


 ――彼シャツとはこういうものなのだろうか。


 そんなことを考えながら、コーヒーを差し出す。

 下心があって呼んだわけではないが、自分の服を女性が着ているというのは、男として込み上げるものがあった。


 コーヒーを飲みながらようやく落ち着くことができると、秋山さんはキョロキョロと辺りを見回した。


「広い部屋ですね」


 そう言う彼女だが、三年も住んでいればこの部屋が一般的に狭いと言われる部屋なのは俺も知っていた。以前の会社の寮はワンルームだったため、1DKのこの部屋は十分ではあるが。


「気を遣わなくてもいいですよ。大したものはないので、広く感じるかもしれないですけど」


 家には必要最低限の物しか置いてない。

 冷蔵庫、洗濯機、食卓のテーブル、寝室となる部屋にはベッドと本棚は置いてあるが、本棚以外は必要な物しかなかった。テレビもなければソファもない。


 しかし彼女の言葉はお世辞ではなく、本心からのものだった。


「いえ、うちはもっと狭いので。春さんが羨ましいです」


 そう言う彼女。

 一見恵まれていそうな彼女だったが、詳しい話を聞くとそうではなかった。


 秋山さんも両親はいない。

 俺とは状況が違い、交通事故で他界しており、高校を卒業するまでは親戚の家で育ったようだ。

 しかし、厄介者扱いされていた彼女は、高校を卒業したら家から出るように言われていた。

 どうしても大学に行きたかった彼女は高校在学中にバイトに励み、お金を貯め、奨学金と親の残した遺産を使って現在生活をしている。遺産は緊急事態の際に使うと考えており、大学進学してからもバイトに励み、今までは一度も手を付けてはいなかった。

 今住んでいるのもワンルームの部屋で、俺の部屋よりも狭いと言うのは本当だ。


 そしていつも着ている白いワンピース。

 お気に入りというのもあるが、楽で洗濯物も簡単に済むワンピースを何着か着回していた。

 その中でも一番お気に入りの白いワンピースを着てお気に入りの喫茶店に行くのが、彼女の楽しみだそうだ。


 話を聞き、今度は彼女に俺の話を尋ねられる。

 俺も自分の今までの人生を話すと、「似た境遇ですね」と秋山さんは言った。

 似ているが全く別の方向に歩んでいる。俺はそんな彼女に興味を持った。


「なんで、大学に行きたかったんですか?」


 中卒の俺は、何となく生きながらも目の前のことで精一杯だった。今からでも高校や大学に通うことも可能だが、とにかく今を生きることで必死だったのだ。


 それを彼女は将来的に幅の広がる選択肢を選んだ。

 似たような境遇ながらも全く違う選択をした彼女。

 何故そう考えるのか、俺は単純に興味があったのだ。


「……これがしたいって言うのがあるわけじゃないんです。ただ、少なくともこれからの私が後悔しないためにも、まずは見聞を広げようと思いました」


 彼女はそう言うと、適温になったコーヒーを啜る。


 同じようなことを考えていても、選択したことは真逆。

 彼女は「年齢を重ねれば、大学に行き直すのは難しいと思ったので」とも付け加えた。

 まさに今の俺がそれだった。


 今からでも高校に通えば選択肢は広がる。

 休日に開講される通信高校なら、今の俺でも通おうと思えば通えるのだ。

 ただ、そうしないのは、今のままでも十分なのだと思っているからだった。


 それでも、確実に自分に足りない部分があるというのも事実。

 学がなく、知識が足りない。

 経営の勉強をしているが、勉強を始めるためにはまずは勉強をしなくてはならないということに気がついていた。


 それからも秋山さんは色々と教えてくれた。

 俺と同じように趣味のない彼女は、息抜きとちょっとした贅沢のために立ち寄った喫茶店がうちの店だったということ。コーヒーが気に入ったため、毎週の楽しみということで来るようなったこと。

 他にもあとはちょっとしたどうでもいい話もあるが、そんなことを教えてくれた。


「私、友達いないんですよ」


 そう言った彼女は力のない笑顔を見せる。

 大学生ともなれば、飲み会や合コンが人間関係の中心となるが、秋山さんはそんなことをしている時間や金銭的な余裕がない。必然的に輪から外れると、大学ではいつもひとりぼっちだと言う。

 見た目で寄ってくる男はいるが、秋山さんは断っていた。


「それなら、俺が友達っていうのは、どうですか?」


 店員と客。それでも似た境遇で別の道を歩んでいることで、お互いがお互いに興味があった。だからこそ、お互いがお互いに話をし、知ることができたのだ。


 多分、同年代でお互いに事情を知っている人はいないだろう。

 だからこそ出た言葉だった。


「いいですね」


 彼女は微笑みながら言った。

 信頼関係を築く過程というものはない俺たちだが、何故か信頼することができた。

 この人になら、俺はなんでも話ができる。何故かそんな気がしていた。




 一向に止む気配のない雨の中、今夜は秋山さん……椿さんを家に泊めた。


 翌朝になると雨も止み、椿さんは大学へ、俺は仕事に出かけた。白いワンピースは洗濯していたが、雨もあったため乾かず、俺の私服で着れそうな物を適当に渡した。

 成長して着なくなった二年前の服。そろそろ売ろうかと考えていたため洗濯してあったものだ。

 今の椿さんには多少大きくても着ることができた。


 家を出る前、椿さんに合鍵を渡した。

 大学が終わる頃にはワンピースも乾いているだろう。一度戻って着替えてから、椿さんが帰れるようにするためだ。鍵はポストにでも入れておいてくれればいいと言っておいた。


 しかし、仕事を終えて家に帰ると椿さんがいた。

 お礼に、と料理をしており、部屋はいい匂いで満たされていた。食器は俺の分しかなかったため、近場で適当に揃えたようだ。


 流れでその日も泊まることとなり、翌日は水曜日。

 椿さんは白いワンピースを着て、店にやってきた。


「流石に今日は帰るね」


 コーヒーを注文しながら椿さんはそう言う。

 どこか寂しさを感じてしまっていた。




 それからは、たまにうちに来ては泊まっていく。

 もちろん家に帰るときもあるため、送っていくこともあった。

 依然、うちの合鍵は椿さんが持っていた。


 そんな関係がしばらく続いたある日、春を迎えようとしている頃のことだ。椿さんが来なくなった。

 椿さんが喫茶店に通い始めて今まで、年末年始の休み以外で水曜日に来なかったことは一度もない。


 そして連絡も取れない……と言うよりも、取る手段がなかった。

 俺も彼女も携帯を持っていない。会いたいと思えば次の日に帰宅すると椿さんは家にいるため、特に不便と感じたことはなかったのだ。


 しかし連絡が取れずに時間が過ぎていけば、不安になるのは当然だ。

 彼女の物が増えた自分の部屋で、虚無感を覚えた俺は、次の休みに椿さんの家に向かった。送っていく時に知っていたため、こちらから接触する手段はあったのだ。


 週明け頃から来なかったため、てっきり忙しくなっただけだと思っていた。

 それでも欠かさず来ていた水曜日に来ないということが、何かの事件に巻き込まれたのかもしれないという不安を駆り立てる。


 徒歩三十分の彼女の家まで歩き、玄関のチャイムを鳴らす。

 ゆっくりと中で何かが動く音が聞こえ、五分ほど待つとようやく扉が開いた。


 憔悴しきった椿さんが姿を現した。

 困惑しているのはわかったが、恥ずかしがる力もない彼女を俺は支え、ベッドに運んだ。


 横になった彼女はゆっくりと話し始める。風邪をこじらせて、寝込んでいたのだと。

 基本的に自炊をしている彼女は、カップ麺などの備蓄があまりない。そうでなくとも栄養のためにと、頑張って最初は作っていたようだが、冷蔵庫の中のものもすぐに底を尽きていた。

 買い物に行く元気もない彼女は、唯一残っていたカップ麺を啜り、それが一昨日の話。丸二日は何も食べていないため、風邪と空腹で力が出ないのだ。


 俺は急いで買い物に出かける。

 とりあえずは近くのコンビニでレトルトのお粥とゼリー、スポーツドリンクと風邪薬を買って戻り、今度は夜ご飯のためにスーパーに出かける。

 消化の良いうどんと、栄養のために卵。他にも追加のゼリーやスポーツドリンクを買って帰ると、椿さんは気持ちよさそうに眠っていた。


 夕方になって起きた彼女は少し回復したようで、力はないが笑顔を見せてくれる。

 風邪を引いていても食欲はあり、多めに買ってあったうどんをほとんど平らげていた。


「ありがとうございます。おかげで少し良くなりました」


 椿さんにそう感謝される。


「友達だから、当然ですよ」


 俺が答えると、「友達、か……」と小さく呟いていた。




 翌日は仕事もあるため、俺は家に戻った。

 休もうかとも考えたが、椿さんの様子を見て大丈夫だと判断したことと、椿さんが「自分のせいで休まれると気にしちゃうから」と言ったため、帰ることにしたのだ。


 仕事終わりに少しだけ様子を見に行くと、椿さんはかなり回復していた。

 安心した俺はその日も家に帰り、翌日に仕事を終えて家に帰ると椿さんがいた。


 感謝された俺だが、いつも彼女はバイトがあっても休みの日にはご飯を作って待っていてくれる。普段してくれていることに比べると、感謝してもしきれないほど、俺は椿さんに支えられていた。

 同時に、椿さんと会えなかった数日間、家に椿さんが来なかった一週間、俺の心にポッカリと空いた穴があることに気がついていた。


 この穴は元々あったものだろう。親に捨てられ、必死で生きてきた俺は、そんな穴があることに気がつかなった。

 穴があることが当然だと思っていたから。

 しかし、椿さんと出会い、彼女は俺の心の穴を埋めてくれた。気付かないほどゆっくり、段々と小さくなっていく穴を俺は気付かなかった。


 会えない数日で、俺の心の穴を埋めていた部分が一気になくなった。そんな突然の穴に、俺はようやく気が付いたのだ。


 椿さんにいなくなって欲しくない。

 誰かに対してそんな感情を抱いたのは、これが初めてのことだった。




 関係は相変わらず変わらない。

 以前に比べて椿さんがうちに来ることは増え、俺がご飯を作って椿さんのバイトが終わるのを待つ日も増えた。

 そのまま泊まっていく日も増えて、彼女はほとんど家に帰っていない。

 そのことに気付いていたが、あえて口にはしなかった。


 まだ、だから。


 そして気付けば秋になる。

 いつもと変わり映えしない日々を送り、椿さんのいる生活も日常となっていた。


 そんなある日、俺は決意していた。

 休みを取らせてもらい、その日に休むということは、椿さんも理由はわかっているだろう。

 サプライズなんてするつもりはなかった。だから別に知られていてもよかった。


 九月二十日。それは椿さんの誕生日だった。

 冬のイメージが強い花の『椿』だが、椿さんの母親が秋に咲く椿の『西王母』という品種が特に好きだからという理由でつけられた名前らしい。


 二十一歳になる誕生日。特にこれといって思い入れのある年齢ではないが、このタイミングが一番いいと思っていた。


 俺は一杯のコーヒーと、今日はショートケーキを用意する。


 ご飯を食べ、食後にコーヒーとショートケーキを楽しんだ。

 いつもよりも少しだけ、……ほんの少しだけ特別な時間。

 ここで俺は口を開いた。


「前に、椿さんが風邪を引いた日があったじゃないですか?」


 突然の話に驚きながら、「ありましたね。あの時はありがとうございます」と言う。

 別にお礼を言われたいわけではなかったが、礼儀正しい椿さんらしい。


「その時から思ったんですけど、やっぱり連絡が取れないのは不安になるんですよ」


 今更すぎる話だが、携帯を契約する余裕がなかったため今までその問題を放置していた。

 そんなことが言いたいわけではない。

 椿さんは俺の表情から何かを察したようだ。


「それなら、春さんはどうしたいんですか?」


 どうしたいのか。それは心に決めていた。

 ただ、いつもはつい口から出る言葉も、この時ばかりは出ない。

 そんな俺に勇気をくれるように、椿さんは微笑んだ。


「大丈夫ですよ。私、実はちょっと期待してましたから」


 そう言われ、同じ気持ちなのだと思った。

 だったら嬉しいという気持ちが、確信に近いものに変わっていく。

 手が震え、唇も震え、それでも俺は言葉を絞り出した。


「結婚してください」


 俺はそう言って、ポケットに隠し持っていた指輪を差し出した。

 今まで貯金は溜まっており、買おうと思えばそれなりのものも買えただろう。

 ただ、貯金を使い切ってしまうよりも堅実的に……それでも一般的には安物かもしれない、十万円のものだった。


 俺の差し出した指輪を見て、彼女は驚いた表情だった。


「あの、ごめんなさい」


 血の気が引くというのはこういうことなのだろう。

 ただ、椿さんは続けて言う。


「一緒に住もうとか、そういう話かと思ってました」


 それはそれでおかしな話だ。

 ただの友達が一緒に住む。それ自体はおかしくないが、男女という違いがあった。全くないわけではないにしても、一般的にはあまりないだろう。


 そして、俺が言っているのもおかしな話だ。

 ただの友達にプロポーズをしているのだから。


 でも……、


「でも、嬉しいです」


 彼女は微笑むと、涙を流していた。


「こちらこそ、よろしくお願いします」




 これから、俺の心の穴は二度と空くことはなかった。

 俺の人生を変えた原因は色々ある。その中でも、強いて言うのであれば、


『雨』と『コーヒー』


 その二つが、俺の人生を椿色に変えてくれた。

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雨とコーヒー 風凛咏 @kazari_furin

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