絵姿女房
ヤチヨリコ
絵姿女房
この町一番の富豪、大竹氏が妾を囲っているという噂は瞬く間に広がった。ただでさえ良い噂の無い男である。けれど、同じくらいに悪い噂も無い男であった。つまり、そんな男の醜聞ともなれば、広まるのも時間の問題だったと言えよう。根も葉もない噂であると大竹夫人は否定したが、この狭く小さい田舎町ではその否定すら噂を広がらせる燃料となった。
大竹氏は冴えない男であった。額は平凡、眉も平凡、眉間の皺も平凡、目も平凡、口も鼻も、頬骨も顎も耳たぶも、何もかもが平凡。印象も無く、特徴も無い。なんの醜聞も無いかわりに、なんの取り柄も無い。つまらない男と一言で表すのは容易い。
実際、そんな男の傍らにいつも静かに寄り添っている夫人のほうが、この町の噂話の中心となることが多かった。良く言えば、問題の無い幸せな結婚をした幸運な女性。悪く言えば、財産目当ての尻軽女。富豪の妻ともなれば、圧倒的に悪く言われることのほうが多かった。けれど、今回ばかりは夫人に同情する声が大きかった。
というのも、それはこういうことだそうで。
とある昼下りに、都会で暮らす大竹氏の弟、治郎氏が大竹氏の屋敷を訪れた。
治郎氏は大竹氏と違い、堂々とした佇まいのいかにも成金といった雰囲気の男であった。見た目通り、都会での会社の経営は順調のようであった。
「兄さん、元気してるかね」
「貴様のせいで元気ではなくなったなあ」
憎々しげに弟をにらみつけた大竹氏は、
「さっさと出ていけ。僕を家族と思うなら」
と言うと、舌打ちをして、嫌悪を隠そうともせずにそっぽを向いた。
治郎氏はそんな兄を軽蔑の表情で見て、連れてきた部下に、屋敷の玄関に微笑む少女の絵を飾らせた。それから、さよならとだけ言って、さっさと車に乗り込み、都会に帰っていった。
「なんと、愛らしい娘だろう」
大竹氏は、少女の絵を一目見て、一言呟いた。
何より、この娘の恰好もいい。額縁に収まった、丸顔の、眠そうな目をした、年の頃は十六、七の市松人形のような娘である。特別美しいわけでもなく、特別可愛らしいわけでもない、そこらにいるような普遍的でつまらない少女が、己の目を見たのが気に入った。
口に出してしまえばもう止まらなかった。ぽつりぽつりと少女への憧憬と慕情が心に募った。つまらぬ男である、しかし、そんな男に微笑みかけてくれる娘など、この十数年いなかった。妻でさえ、己を見れば眉をひそめる。それなのに微笑みをくれるのか、この娘は。
大竹氏は婦人の目に触れぬようにひっそりと自室に運び込むと、その夜は一晩中、絵の中の娘と言葉を交わした。とはいえ、娘が言葉を返すことは無かった。
妻との間に子供がいればこのくらいの年齢でもおかしくないというのに、大竹氏は彼女に夢中になった。
娘と交わす言葉が増えるたび、妻と交わす言葉は減っていった。
妻に小言や文句を言う数も増えた。しかし、娘に言うべき文句は無かった。
娘との逢瀬を重ねるたびに、妻への愛が冷えて消えていった。
「もし、貴方」
夕食の時分に、大竹氏が上の空でいたので、夫人が声をかけると、いかにも忌々しいという光を双眸に浮かべて彼女をじいっと見た。氏の目の中には、夫人を馬鹿にする色があった。この目の前にいる女はどこのどちらさんだろ、とでも言いたそうだった。
「おい、僕の食事を下げてくれ。……ああ、いや、やっぱり、後で僕の部屋に持ってきておくれ。食事のときくらい君の顔を見ていたくないんだ」
人間は二足歩行をする生物であるというように至極当然のことを言うような口調でそう言うと、夫人の顔を見て、顔をしかめた。
夫人は呆れた。呆れて物が言えなかった。何しろ、あの退屈な男がこんな態度で自分を道端に落ちた猫の死骸でも見るような顔で、しかも、それを言葉に出して、自分を拒絶するだなんて、何か悪いことでもあったのかしら、と思った。
夫人が大竹氏の後をこっそりつけて行くと、氏が娘に接吻するのを見た。つがいの小鳥たちのように短いキスを何度もした。夫人は忘れてしまえと目を背けて、物音を立てないようにして自室に籠もり、声を押し殺してぽろぽろ泣いた。
幾日が過ぎたことだろう。夫人が思わず町の婦人たちに打ち明けたのか、あるいは、大竹氏と娘の逢瀬を見た者がいたのか、真実は闇の中であるが、大竹氏の妾は額縁の中にいるというのは公然たる秘密となっていた。
更に時が過ぎると、その噂は都会の治郎氏の耳にも届くこととなった。弟はそれを聞くと、顔を真っ白にして言葉を失って、すぐさま大竹氏の屋敷に駆けつけた。
「兄さんはいるかね! 兄さんはいるかね!」
治郎氏は屋敷に着くや否や、大声を出して、玄関の扉をどんどんと怒り任せに殴った。何事かと夫人が扉を開けると、にこりともせずに、固く歯を食いしばって、肩を怒らせた治郎氏が立っていた。
「夢子さん、兄さんはいるかね」
「旦那様ならいらっしゃいますけれど……。治郎さん、なにか御用ですか?」
怪訝な顔で夫人が答えた。それを聞くと、夫人が止めるのも聞かず、足取り荒く大股でずんずんと歩いて、目を皿にして大竹氏を探し始めた。
氏はすぐに見つかった。いつものように自室で娘と戯れていたから、その声が漏れ聞こえてきていた。
治郎氏には、一方的に少女の絵に話しかける兄の姿は、殺したいほどの不快を感じる、とても不愉快極まりないもののように思えたのだろう。
「兄さん」
治郎氏は兄の背中に向かって、怒鳴りつけた。
「馬鹿野郎」
兄を罵るその声には、失望と怒りが混ざっていた。
振り向いた大竹氏の頬を、力の限り張り倒すと、
「馬鹿野郎」
と繰り返した。
大竹氏は治郎氏を一瞥すると、それだけでむっつりと押し黙った。
「絵の中の娘に惚れるだなんて、どうかしてる」
今度ばかりは軽蔑一色の声だった。治郎氏はそう言うと、大竹氏の答えを待つように沈黙した。
大竹氏は何かを小声でぶつぶつ反論したが、喉に絡んだタンのせいか、何やら不明瞭だった。一つか二つ咳をすると、ガラガラ声で、ははは、と言った。治郎氏は、ため息をつくと、兄の目をまっすぐに見た。大竹氏はその視線を避けるように目を背けた。
「惚れてるだなんて下品なこと言うなよ。僕は彼女を愛しているんだ」
「兄さんには夢子さんがいるだろう」
「あれには愛も恋も残っちゃいない。わずかばかりの情でこの家に置いてやっているがね、何か生意気なことをやったら追い出すさ」
「ろくでなし」
大竹氏は反論もせず、ただ笑った。そんな兄を、治郎氏はもう一度殴った。
「おまえは僕から全て取り上げる気か?」
頬を真っ赤に腫らしても生意気な顔で笑う兄の姿が、治郎氏には異様に思えた。
「おまえが夢子に惚れてるのも知ってるんだぞ。どうせ、夢子もおまえに惚れている。まったく、下品な愛だなあ。そのくせ、おまえらは僕のいないところでこそこそ会っているそうじゃないか」
下品、下品と言うその口は、よだれを蟹のようにぶくぶく泡立たせて、汚らしい。
「それは僕と夢子さんへの侮辱だ。取り消せ」
「取り消すもんか。事実を取り消すなんてこと出来るわけ無いだろ」
大竹氏は、ははは、はは、はと狂ったように笑った。
「僕を家族と思うなら、二度と帰るな。この家の敷居を跨いだ瞬間に殺してやる」
静かに大竹氏はそう言った。二度言わせるなよと言いたげな表情をしていた。
治郎氏は、何も言わずに部屋を出ていき、夫人に訳を話すと、車に乗り込んで、都会の町に帰って、二度と戻らなかった。絵の中の少女は、治郎氏を嘲笑うようにただ笑っていた。
しんしんと雪が降る季節である。暖炉の火が赤々と燃えている。
娘は、毎日微笑みかけてくれる。けれど、大竹氏と夫人の夫婦関係はとうの昔に冷え切っていた。大竹氏が夫人を追い出すか、夫人が実家に帰ると言い出すか、どちらが早いかというほどであった。
夫人の声を聞いたのは、はて、いつのことだか。妻の顔など、忘れてしまった。何より、物言う妻よりも物言わぬ娘のほうが愛おしい。妻などいなくても生きてはいけるのだから、置いてやっているだけ感謝してほしいものだ。
「もし、貴方。お夕食はいかがいたしましょう」
今となっては、お互い顔も見せずに、扉越しに会話するのみ。夫人の方も、退屈な夫なんかの顔を見たくないのだろうと大竹氏は推察していた。
「もし、貴方……」
大竹氏は今度はなんだと扉をにらみつけた。何も言わずにいたら、勝手に扉は開けられた。扉の向こうには妻ではない女が立っていた。丸顔の、眠そうな目をした、年の頃は十六、七の人形のような顔をした女であった。特別なところは何一つない路傍の石のような平凡な女であった。己の知らぬ女であった。
「貴方、いかがですか?」
女から夫人の声がした。
「僕を家族と思うなら、僕に二度とその顔を見せるな!」
そう言ったところで、目が覚めた。
そんな夢を見た。
重たいまぶたを開けると、あの女が顔を覗き込んでいた。男は涙した。
絵姿女房 ヤチヨリコ @ricoyachiyo0
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