茅蜩
橘暮四
第1話
終わりかけた夏の、乾いた暑さを感じた。首筋がしっとりと汗ばんでいる。僕は砂浜にいた。左隣には君が立っていて、じっと斜め上を見つめている。僕たちは手を繋いでいた。肩が触れ合うほどに近い距離。君はノースリーブの白いワンピースを着ていて、腕は完全に密着している。しかし何の温度も感じられなかった。僕も空を見上げる。花火が上がっていた。「綺麗だね」と僕が呟く。今の僕には、綺麗に見えない。君は「そうだね」と答えると、ふふっと笑ってみせた。脇をくすぐられたときみたいに。
「どうしたの?」
僕が尋ねる。
「ううん。何だか私たちが、在り来りで、どこにでもあるような恋をしているみたいだったから。お互いに幻想を押し付けあって、自分が相手を知らないこと、相手が自分を知らないことを酷く恐れて、そして、お互いの弱さに依存しあうような、そんな普通の恋を」
「もしかして、僕とこうしていることが本当は嫌なのかな?」
「そんなことはないよ。あなたと手を繋いでいるのも、毎年同じ花火を見るのも、とても安心する」
そう、と僕が呟き、僕らは再び前を向く。暫くして、花火が終わる。そのまま立ちつくしていると、君はゆっくり、僕に凭れかかってきた。君は目を瞑っている。ほのかにシャンプーの匂いがした。僕は固まっていたが、そっと君の腰に手を回す。君は目を開くと、僕の顔を見上げる。僕らは数秒間、見つめあっていた。どちらからともなく、二人の顔が近づく。僕は目を閉じる。唇に、何かが触れる。しかしその感触は、僕が予期していたものとは少し違っていた。目を開けると、君は僕の唇に人差し指を当てていた。君は小さい子供をからかうような表情を浮かべると、ぽそりと呟く。
「こういうのはやめておこう」
「どうして?」
「やっぱり私たちは、普通の恋仲ではないから。私と違ってあなたは、とても強い人なんだよ」
君が少し寂しげに笑う。途端、視界が暗転する。
遠くから、茅蜩の鳴く声が聞こえた。眩しい。目を覚ますと、見慣れた天井が視界に映った。そこには花火の破裂音も、夜の藍色も存在していない。…夢か。僕は上体を起こす。身体がじっとりと汗ばんでいることに気がついた。左手の窓の向こうで、高い雲が透き遠い空を貫いている。9月と言えど、夏はまだ終わっていない。僕は寝起き特有のまとわりつく倦怠感を振り払うように伸びをして、リビングへと向かった。そこには誰もいなかった。棚の上にうやうやしく鎮座している時計に目をやると、9時の少し先を指していた。両親は仕事に出かけたのだろう。妹も学校か。9月の平日にこんな時間まで寝ていられるのは大学生の特権だ。こんな素晴らしい特権も来年以降は享受出来なくなるのだと考えると、少し憂鬱になる。僕はキッチンへと向かい、ケトルのスイッチを押す。キャニスター缶の蓋を開けると、コーヒー豆の香りが鼻腔をくすぐった。僕はさっきの夢を思い出そうとする。一人分の豆をはかりとり、ミルに入れる。ゆっくりハンドルを回すと、ゴリゴリと音を立てて、豆が細かく曳かれていった。ほんの5分ほど前に見ていた夢は、もう輪郭が暈されはじめている。お湯が沸いたので、それを別の容器に移し替え、少し冷ます。その間に僕はローテーブルに置いてある木箱から写真を一枚取り出し、それをじっくりと眺めた。それは僕が携帯を持つようになってから初めて君と会った日に、記念に君を撮った写真だった。キッチンへと戻ると、冷ましたお湯をドリッパーに入れたコーヒー豆へとゆっくり流し込んだ。抽出の間にも僕は写真を眺め、夢の輪郭を掴み戻そうとしていた。写真の中の君は、夏空を背景にしてひとり佇んでいる。少しだけ身体を傾けて、微笑を浮かべて。美しいだけの夏を象徴したような光景だった。蒸らしの段階を経て、少しずつコーヒーが出来上がる。少しずつ花火の色や君の表情が思い出される。マグカップにコーヒーが満たされる頃には、夢の輪郭はその形を取り戻していた。僕はローテーブルのそばにある座椅子に腰掛けると、コーヒーをすすった。起きてからのこの一連の行動は、僕のモーニングルーティーンと化していた。実際あの夢も、夏になってから毎日、何十回と見てきたものだ。4年前、君と見た最後の花火。その時の会話。僕の記憶にしがみついて離れないその光景が、夢になって完全に再現されている。毎回、言葉の一文字も違いはない。変に優れた自分の記憶力に辟易する。こんな夢、残酷なだけの箱庭みたいなものだ。それでも僕は毎朝、夢を完全に思い出そうとする。自然に備わった忘却能力に逆らおうとする。それはやっぱり、君の表情も、君の匂いも、君の手の柔らかさも、君の全てを忘れたくないからだ。優しいナイフの刃に、少しだけ傷ついていたいからだ。だから僕は写真を眺める。リビングのテーブルに物を置きっぱなしにするとすぐ怒る母も、写真の入ったこの木箱にだけは口を出さなかった。
僕は熱いコーヒーをちびちびと飲みすすめながら、木箱に入った他の写真も眺める。写真は数十枚もあるけれど、全て君との思い出の写真だ。いちばん古いのはこの写真だろう。僕は少しピントのずれた写真を手に取る。9歳の僕と、8歳の君が並んで写っている。僕は何だかぎこちない顔をしているが、君は文字通りの満面の笑みを浮かべている。そうだ、僕たちが初めて出会った日の写真か。
この年の夏も、例年のように海辺の町に住む祖父母の家に帰省していた。長い電車旅で両親は疲れきっていたので、幼い僕と妹は祖父に連れられて花火を見に行った。他に誰もいない海岸で見る花火は、とても大きく見えたのを覚えている。3人で空を見上げていると、ひとりの少女がこちらへ歩いてくるのが見えた。俯いていたので表情はよく見えなかったが、何だか泣いているように感じた。祖父が少女に話しかけたが、反応はない。ずっと俯いているばかりだ。あるいは迷子かもしれない。祖父が困ったような表情を浮かべた。大人にどうしようもできない問題なら、僕がどうにかできる訳はないだろうと直感的に感じた。しかしそれと同時に、肩を少し震わせ始めたこの少女を、放っておいてはいけないことも直感的に分かっていた。僕はほとんど無意識のまま少女の手を掴んでいた。少女が顔を上げる。はっとして目が合う。やっぱり泣いていた。僕は無理にでも笑顔を作って、「大丈夫だよ」と声をかけた。少女はか細い声で、「どうして?」と呟いた。美しい声だった。僕は返答に迷ったが、真っ直ぐ少女の目を見て言う。
「だってほら、こんなに花火がきれいだ」
そう言った途端、轟音が鳴り響き、夜空がカラフルに染められた。八尺玉の大花火。その花弁はゆっくりと空全体に広がっていき、そして散っていく。こんなに綺麗な花火が咲いている夜に、女の子の涙が止まない訳はないんだ。少女は「そうだね」と呟くと、花が散った夜空をじっと眺めていた。その時間は、幼心にも幸せだと感じた。そのあとは確か、僕たちが手を繋いで空を眺めているうちに祖父が少女の母親を見つけてきてくれたはずだ。この写真は別れ際に撮った写真。もう会えないかもしれないからと記念に撮ったけれど、結局僕たちは毎年夏には二人で花火を見る仲になっていたのだ。あの年の夏まで。4年前の夏、君がいなくなる夏まで。
写真をひとしきり眺め終えると、マグカップが空になっていることに気がついた。時計の針は9時半すぎを示している。そうだ。あまりのんびりとしていられない。今日は4年ぶりに祖父母の家を、あの海辺の街を訪れると、決心をつけていたのだ。その決心が鈍らないように、昨日その準備を済ませておいていた。準備と言っても、リュクサックに多少の着替えと諸々の小物を詰め込んだだけの軽い準備。僕はクローゼットから適当に服を選んで着替えると、歯を磨き、ワックスで寝癖を直した。最後に数枚のお札が入った財布と冷えたペットボトルの水をリュクサックに入れて、最寄りの駅へと出発した。何とか予定通りの電車に乗れたので、とりあえず一安心。ここからは電車を乗り継ぎ乗り継ぎ、4時間ほどであの街へ着くはずだ。着くのは大体2時すぎか。あの街へは幼少の頃から何度も行ったことがあるけれど、一人で行くのは初めてだ。神経質にスマホを確認しながら乗り換えを何とか済ませ、新幹線に乗り込むことができた。新幹線に乗り込んでからは長い。本州を縦断するわけだから、3時間くらいは座ったままだ。上手く乗り継げた安心感から、少し眠たくなってくる。さっきまで寝てたのに馬鹿みたいだな、と思わず自嘲してしまいそうになるが、生憎かばんの中に3時間の暇を潰せる代物もない。僕は眠気のままに目を瞑った。
終わりかけた夏の、乾いた暑さを感じた。首筋がしっとりと汗ばんでいる。僕は砂浜にいた。左隣には君が立っていて、じっと斜め上を見つめている。ここで、あの夢だと気がついた。こう何回も同じ夢を見ていると、流石に分かる。毎回、遅かれ早かれ夢だと気がついて、あとはレプリカだと分かっている君の笑顔を眺めているのだ。夢はつつがなく進行する。僕も君も、つまらない舞台をくるくる回るように同じ台詞を吐いて、同じ行動をする。今回も同じように、君にキスできない。君が意味深なことを言って、視界が暗転した。そして、また違う風景が現れた。レンズを回すみたいに。ここは、君の家の前だ。笑ってしまうくらいそのままの日本家屋。僕は混乱する。こんなの知らない。いや、知っている。君の家も、花火の翌日の肌寒さも、知っているのだ。しかしこんな夢は知らない。顔を上げると、日本家屋を背景に君が立っていた。泣き顔を無理矢理笑顔にしたような、あるいは笑顔を無理矢理泣き顔にしたような、不自然な表情だった。僕はこの顔をはじめて見た。いや、一度見たことがある。4年前、花火が終わった次の日に。これは夢の続きだ。君を最後に見た日のレプリカだ。
「私のお母さんね、昨日死んじゃったの」
君が言う。声は震えていた。それを聞くと、ふっと記憶が頭に浮かぶ。君の母親は一年ほど前、左の肺に末期の癌が見つかったのだった。そして君は、東京の会社に勤めている父親の代わりに彼女を看病していた。ほとんど学校も行かずに。君とのメールのやりとりでしか状況は知ることが出来なかったけれど、それがいかに苦しいことだったのかは容易に想像できた。だって華の高校生活の半分を、病に冒される母親を眺めるのに費やしたのだから。それを聞いて、今年は君に会いに行くのを控えようと思っていたのだが、君の母親は、最近は自身の病状が安定しているからと言って許可を出してくれた。そして僕らは彼女を一人残して花火を見に行った。その間に、彼女は睡眠薬を大量に呑んで亡くなった。僕は娘を遺していなくなることが愛情とは思えない。だけど、自分のために人生を食い潰し続ける娘を見ることがどれだけ辛いかも分からない。だから、君の母親の選択が正しかったかどうかなんて決めようがないけれど、君が今、僕の目の前でこんな顔をしているのが正しい訳はなかった。君は続けて口を開く。
「ねぇ、私どうすればいいんだろう?どうすればよかったんだろう?」
僕は息が詰まる。そして君を抱きしめていた。初めて会った時みたいに、無意識に。あの時と違うのは、君の涙の止め方が分からなかったことだけだった。君は僕の背中に手を回し、数秒間僕らは抱きしめ合っていた。するとおもむろに、君が僕から離れていった。君の顔から不自然さは消えていたけれど、完全な無表情ではなかった。少し怯えが入っているようにも見えた。そして君がつうっと、ひと筋の涙を零した。表情は変わらない。その涙だけが君から独立しているように見えた。その雫が君の顎まで伝い地面に零れ落ちると、アスファルトに消えたそれを君は不思議そうに眺めた。そして顔を上げる。僕と目が合う。その目にもう涙は無かったが、乾いた瞳はより悲しげに見えた。そんな瞳を見続けることが苦しくて、僕は口を開く。
「どうしたの?」
「大したことはないよ。ただ、あなたの身体が、とても温かったから」
君の声は少し、震えていた。
「君だって温かい」
「でもあなたは、泣いていないでしょう?」
君の柔い手が、そっと僕の頬に触れる。くすぐったいほどの優しい手つき。繊細な小動物に触れるように、君は僕の頬を撫でる。
「それが、私とあなたとの違い。つまりあなたは、生きているってことだよ」
また視界が暗転する。
新幹線の座席が見えた。左に目を向けると、窓の向こうで雲が流れていく。息が荒くなっていた。深呼吸しながら息を整えていると、途中で乗ってきたのだろうか、右隣の席の老婦人が心配そうにこちらを見ていた。
「お兄さん、大丈夫?何だかうなされているようだったけれど」
「えぇ、まぁ。大丈夫です」
まだ顔は火照っているし、息も短い。とても大丈夫なようには見えないだろう。あぁ、くそ。なんで今日に限って、こんな心を乱すような夢を見るんだ。せっかく決心が着いたのに。やるせない気持ちで悶々としていると、老婦人が鞄から水筒を取り出して、蓋代わりのコップにお茶を出してくれた。僕は一瞬呆気に取られたが、丁重にお礼を言ってそれを受け取る。少し渋みがあって美味しい。もしかしたらこれが「温かい」ってことなのかもしれない。老婦人は次の停車駅で降りていった。
僕もその次の停車駅で降りて、駅近くでいやに濃いラーメンを食べた。そしてついに、日本海沿岸を渡るローカル線へと乗り込む。これが最後の乗り換えだ。ここまで来るとかなりの田舎になるので、単線の列車に乗っているのは一人二人。ガタンゴトン、と古風な音だけ聞こえる車両の中で、僕は窓の外を眺めていた。透明な空の水色と深い海の藍色が、四角形に区切られた視界を横に二分している。額縁に飾られた絵みたいだ。この絵を買う人はいるのだろうか?少なくとも僕は買わない。窓を開けると、潮の匂いが鼻をくすぐった。否応なしに、この街に来てしまったんだなと思わされる。4年経っても、4年避け続けても、この匂いを身体は覚えていた。そもそもこの街を避けていたのは、君に拒絶されたからだ。君の母親が亡くなった後、僕は東京に帰った。そのあともずっと君にメールを送っていた。しかし何故か、一通も返信はなかった。そして一週間ほど経って、あの木箱が送られてきた。それにはたくさんの君との写真と共に、君の携帯電話が入っていた。それは明確な拒絶の意志だった。自分を、写真と思い出にしてほしいというメッセージ。だから僕は、あの街に行くのが、君に会うのが怖くなったのだ。しかし、どうしても君のことが気になった。僕に会いたくないならそれでいい。だけど、あんな表情をした君を、知らないままで済ませたくなかった。僕は秋が深まったある日、君の父親に会いに行った。彼も東京に住んでいるし、職場はわかっていたから。彼は昼休みに会う約束をしてくれた。ビル街の一角にある、コーヒーチェーンに呼ばれた。約束の時間五分前に店に着くと、彼は店の左端の席でコーヒーを飲んでいた。しっかりとスーツを着込んでいて、清潔感のある男性だった。しかしその顔には年相応の皺と、底の深い絶望が見て取れた。僕が軽く会釈をし、席に座るや否や、彼は小さな声で、しかしはっきりと
「あの娘のことは、もう知らない」
と言った。もう知らない。字面の通り、あれ以来君の状況は把握していないということだろう。しかしその言葉は、拗ねている子どものようにも聞こえた。どちらにしても、納得はできない。
「どういうことですか。もう知らないって」
「そのままだよ。私はあの娘が今どうしているか知らない。毎月生活費は振り込んでいるが、連絡もしていないし、会ってもいない」
「どうしてあの娘を無視するのかって聞いているんですよ。あんた、父親だろ」
語気が強まる。なんで。なんであんな不安定な状態の女の子を、自分の子どもを、放っておけるんだ。理解できない。
「君にはきっと理解できない。君のような子どもには」
すると彼は僕の心を読んだかのように、静かに言った。僕は何も言えない。
「たしかにあの娘は私の子どもで、私は父親だ。そして私の妻も母親だよ。当たり前だ。だけどね、あの人はどうしようもなく、私の恋人なんだよ。最初で最後の。対等に弱さを受け止めあって、対等に愛を捧げることができるのは、あの人しかいなかったんだ。その人がいなくなった。あの娘の不注意で。私はね、こころの大切な部分に穴が空いてしまったんだよ。私だって人間だから。父親である前に人間なんだ。なぁ、君にそれが分かるか。愛の意味も分からないような青二才に。」
じゃあどうして、そんな大切な人をあの娘に任せっきりにしたんですか。
僕はその質問を口にはしなかった。それをする意味は無いし、こんな質問の答えなんて聞きたくはなかった。
だから、僕は君が今日までどう過ごしてきたか知らない。21歳の君が、どんな表情をしているのか分からない。僕の中では、君はずっと17歳でいる。君は今どこにいるのだろうか。そもそも、あの街に行ったところで君に会えるとは限らないのだ。君は大学に通っているかもしれないし、就職していてもおかしくない。とうにあの街を離れて、どこか別の場所で暮らしている可能性は十分にあるのだ。だけど、何となく、君はあの街に留まっている気がする。何の保証もないけれど、それは確信に近かった。
ようやく僕は目的の駅に着いた。4年ぶりにこの街の土を踏む。駅舎をぐるりと回ると、目の前に海が広がった。ああ。あの海だ。君とはじめて出会った、毎年ここで出会っていた、あの海だ。海の青さも、潮の匂いも、何もかもが思い出と変わらない。ひとつだけ違うのは、そこに君がいないということだけだった。
駅から10分ほど歩き、祖父母の家に到着した。古風なチャイムを鳴らすと、祖母が笑って迎えてくれた。
「久しぶりだねえ、本当に。この前高校生だったのが、もう大学卒業かい。ほら、じいさんにも挨拶してきな」
そう言われると、僕は仏壇に手を合わせた。線香の香りが心地良く感じた。
「ほら、じいさん。あんなに小さかった孫が、もう大人になりましたよ。あなたが生きていたら、一緒にお酒を飲みたがっていたでしょうね」
祖母は慈しむような目で仏壇を見つめていた。そこに悲しみの色はなかった。そうだ、僕の祖母も数年前にパートナーを失った身だ。その点では君の父親と同じ。むしろ連れ添ってきた年月はこちらの方が長いのだから、悲しみもずっと大きいはずだ。なのに祖母は今も悲しんでいる様子はない。どうしてだろう。居間に戻って冷たい麦茶を出されたので、思い切って聞いてみることにした。
「ねぇ、ばあちゃんはさ、じいちゃんが死んで悲しくないの?」
祖母は少し驚いた顔をしたが、すぐに表情を柔らかくして言った。
「そりゃあ悲しいに決まっているさ。あんたも覚えているだろ?じいさんが亡くなった時のこと」
僕は頷く。もちろん覚えている。確か僕が中学2年の頃だった。確かに悲しかった。あんなに優しかった祖父がいなくなったのだから。だけど、その悲しみと祖母の悲しみは同じじゃない。祖父と対等な愛を捧げあったのは僕でも僕の父親でもなく、祖母しかいない。
「でも今ばあちゃんは悲しんでいないよね」
「そりゃあそうさ。ずっと悲しんでちゃ何もできないだろ?漬物を作るにも、老人会に参加するにも、4年ぶりに帰ってきた孫を笑顔で出迎えるにもさ、何をするにもまずは涙を拭かなきゃならない」
意外な答えだった。別に返答を予測していたわけではないけれど、上手く言葉が出てこない。
「別にじいさんへの愛がなくなったわけじゃないんだよ。ただね、この年寄りが教えてあげる。愛っていうのは相手がいなくなったら消えるもんじゃないんだ。そうじゃない。愛っていうのはどうしようもなく、自分のためにあるんだよ。相手を正しく愛するということは、自分をまず大事にするということさ。」
「僕にはよくわからない」
声を振り絞って、ようやくその一言だけが口を滑った。何が正しい愛なのか、僕と君と君の両親、誰が正しかったのか、僕にはもうわからなかった。すると祖母は皺枯れた右手を僕の頭に優しく乗せた。温かかった。そして僕の顔を覗き込み、笑顔で言う。
「いいや、きっとあんたもそれをわかっている。ただ知らないだけ」
麦茶の氷が、カランと音を立てた。僕は曖昧に返事をして、君を探しに向かった。
まず君の家に向かった。君はいなかった。
家の見た目はほぼ変わらなかったけれど、もう長らく使われていないのだろう、鉄製の手すりは錆びて変色していた。僕の頭とちょうど同じくらいの高さのところには、蜘蛛がしっかりと巣を張っていた。蜘蛛は巣の真ん中にじっと佇んで、ひたすら獲物を待ち構えていた。きっともうこの家には、誰も訪ねてこないというのに。それから君の通っていた高校に向かった。二人で夕涼みをしていた神社に向かった。海岸沿いの、やけに安い自販機に向かった。そのどこにも、君の実体はなかった。そこには君の影があるばかりだった。自販機の隣にあるベンチに座ってサイダーを飲む、君の幻想だけが夏の陽射しに揺らめいていた。僕はそこにいるのが耐えられなくなって、俯きながら走り去った。この街を行けば行くほど、君の不在が質量を持って僕にのしかかった。僕は君を探しているのだろうか。それとも、君の不在を探しているのだろうか。もう何も分からなかった。何も見たくなかった。ものがより見えない方へ、より暗い方へ、僕は陽の落ちる海辺の街を、止まることなくさ迷い続けた。
気がつくと、太陽はすっかり落ちていた。終わりかけた夏の薄い夜が、視界を黒く染め上げていた。冷たい風がふっと吹いて、途端に体が震える。全身がぐっしょりと汗に濡れていて、背中にシャツがくっついていることに気がついた。僕は走るのをやめて、息を整える。ふと視線を上げると、目の前に岬が映った。街の外れにある岬だ。君がまだ幼い頃に、母親によく連れられて来たと言っていた。ここでようやく僕は気がついた。結局、この街にいる限り、君の影から逃れることはできないのだ。街の隅々にまで、君の思い出はこびりついている。君はここで生きていた。そしてこれからも永遠に生き続けるのだろう。君の母親がそうであったように。僕は深く息をつく。そして頭の中がクリアになると、岬の先に何かあることに気がついた。寄ってみると、それは二つの墓石であると分かった。収まりかけていた鼓動が、再び速くなるのを感じる。僕は恐る恐る、そこに彫られた名前を確認する。分かりきった問題の答えを確認するように。
そこには君の母親と、君の名前があった。
胸が、締め付けられたように苦しくなる。息ができない。こんなこと半ば分かりきっていたのに。いざ君の死が確定すると、もうどうしようもなく苦しい。辛い。辛い。ここには居られない。君の墓の向こう、岬の先の断崖絶壁のさらに向こうには、底の見えない暗闇が広がっていた。それはこの場所よりどんなに安らかな場所だろうと想像した。足を踏み出そうとした。
ぱっ
その時、破裂音と共に、視界が急に明るくなった。冷たい月明かりが照らしていた君の墓が、鮮やかな色の光に染められていく。僕は動揺する。見上げることができない。足に、力が入らなくなってきた。そこにふっと風が吹く。上体のバランスを崩したのか、視界が大きく揺れる。気がつくと、目の前数十センチのところにまで断崖絶壁が迫っていた。
声にならない叫び声を発したと思うと、僕は無理矢理重心を後ろに向け、背中から派手に倒れていた。激しく打った背中の痛みが、それを証明している。右肘に手をやると、擦りむいたのだろうか、触れた指に赤黒い血がゆっくりと流れ落ちている。どろどろとしていて、何だか温い。さっきまで温度も感じていなかった僕の身体が、急速に脈打って熱くなっていくのを感じる。僕は生きている。生きようとしている。あぁ、やっぱり。
僕は、夏が終わっても生きていくしかないんだ。
ゆっくり呼吸を落ち着かせていると、さっきからずっと、頭上で破裂音が続いていることに気がついた。僕はようやく顔を上げる。花が、花火が、咲いている。僕はようやく、4年ぶりに、この花火を美しいと思うことができた。
翌日東京に帰ると、夏はもう終わっていた。茅蜩の一匹も、もはや鳴いていない。
茅蜩 橘暮四 @hosai
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★3 エッセイ・ノンフィクション 連載中 19話
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