第88話 神託

 オーク材で作られた質素で頑丈そうな椅子に、両手をももの上で重ねて背筋をピンと伸ばして座る、年のころ50歳前後の女性が、今、目の前にいる。

 姿勢もさることながら、その容姿も相まって、神の気配すら感じられる気品に満ちた佇まいである。それは、彼女の身を包んでいるシェスト教の司祭用ローブがまるで本絹ほんけんであると錯覚してしまうほどだ。

 だが、初対面であるはずのこの女性を、俺はなぜか知っている。知っていると認識した。


 シェスト教からの要請でカネウラの教会に赴き、事務所兼教会関係者用宿舎、その3階。6つの神紋が刻まれた木の扉を促されるままに開ける。時間が染み渡った統一されたデザインの家具が、22平方メートルほどの部屋にバランスよく配置されている。

 そして、扉の反対側、窓際にその女性はいた。

 

「初めまして、スヴァンさん。それとも、久しぶりね、シュテファン。と言った方がいいかしら?」


 記憶を探りながら椅子に座って向き合った、第一声がそれだった。途端に目まぐるしく展開されるボクの記憶。ああ、そうだった。間違いなくあの人だ。


「初めまして、エレオノーラ様。……或いは、お久しぶりです、家庭教師の先生?」


「……そこは先生ではなくて『母上』と呼んで欲しかったところだけれど、まあ、いいわ」


 そう言ってにっこり微笑む。


「さてと、あなたをここに呼び出した理由だけど……」


 話し始めたエレオノーラ様こと元・母上の話をさえぎるように手を前で振り、疑問をぶつける。


「あの、エレオノーラ様はどこまで知っているんですか?」


 その質問に元・母上は椅子に座ったまま両手を腰に当て、威張るような姿勢で答え始めた。


「全部よ。……と言いたいところだけれど、そうではないの。でも、私の知っていることであなたに関係することは全部話すわ。そして、少なくとも、あなたの中にシュテファンがいることは間違えなかったでしょう? それから、私にはあなたに嘘を付く理由がないし、話すのは昔のことだけ。その辺りは安心してちょうだい」


 最後にニヤリとしたが答え終わるまでさっきの姿勢のままだった。なかなか洒脱しゃだつなお人柄のようだ。話をしてくれるだけのようだし、警戒など意味がないだろう。


「……心得ました。ところで、突然のことなので少々困惑してますが、内容はさておいて、どうしてお話を聞かせてくれるんですか?」


「久しぶりの母子おやこの再会だというのに、随分とお堅いのね。無理もないけれど」


「すみません。シュテファンの、家庭教師のあのほんの一時いっときの記憶しかないので、どうしていいのか……」


「気にすることはないわ。だって私もどう接していいか分からないもの。うふふふ」


 ボクの母上はよく笑う、表情の柔らかい人だったんだな。


「じゃあ、お互い様ですね」


「そうよ、お互い様なのよ。だいたい、あなたと言ったらシュテファンに全然似てないんだから本当に困るわ。あのまま大人になってたらきっと誰もが見惚れる素敵な男性になっていたのに……」


 いや、それを言われちゃうと俺も困るんですけど。


「なんか、こんな見た目ですみません……」


「なんてね。冗談よ、冗談。落ち込まないでね? でね、質問された件なんだけど、私がそもそも墓場まで秘密を持ち込むことがなんとなくだけど嫌だなって思ってたことと、クリスタさんの死がきっかけね」


 話しながら彼女は上半身を少し右にひねって椅子の背にもたれかかり、遠くを見つめた。自然しぜん、浅く被っていたフードはずり落ち、小鹿色こじかいろのショートボブが流れる。


「へ? マザーとお知合いですか? あと秘密!? 俺が秘密とか聞いて大丈夫なんでしょうか?」


「あ、大丈夫よ。もう全部終わったことだから。彼女、クリスタ・ホルツマンは元々、オダ家に来てからの私の侍女だったのよ。知らなかった?」


「はい、全く……。昔の話はほとんどしてくれなかったですから」


「そう。きっと秘密を漏らさないようにしていたのね。彼女らしいわ。それじゃあ、聖女クリスタの話からしましょうか」


 聖女って付けると全然違うイメージになるなと、関係ないことが頭に浮かんだまま「はい」と返事をした。


「彼女は、16歳で嫁いできた私にオダ家が用意してくれた侍女だったわ。話し好きで、ちょっと前まで敵国にいた私にも気兼ねなく口を開いてくれたの。一人で来てきっと寂しいだろうと思ったらしいわ。夫のロータルも、他の使用人も優しかったし、結婚した翌年にはかわいらしいシュテファンも生まれてきてくれて、私、幸せだったの。ずっと続くと思っていたわ。でもね、彼女、その年に聞いてしまったのよ。……神託を」


 神託。面倒事に巻き込まれなくなかったら、絶対に口外しない方が良いとマザーが言っていた。そういう事か。


「マザーはその神託を教会に報告した、ということですね?」


「ええ、その通りよ。彼女から初めに内容を聞いた私が、当時領主だったゲラルト様と教会へ報告するように促したのだけれどね。結果、彼女は神託を聞いた聖女としてまつり上げられ、半ば強制的にシェスト教の聖職者となってしまった。……私、悪いことをしたなと、それからずっと思っていたんだけど、ほらつい最近、ドロテちゃんと一緒に来たでしょう?」


「……もう15年も前ですね」


「あらやだあ。もうそんなに経ってたの? やだわー。そしたらドロテちゃんも30なの!? 年は取りたくないわねー。あ、そうそう、それでね」


 なぜだろう。この人、マザーにも見えてきた。女性は歳を重ねるとみんなこんな喋り方になるのかな。アルマもこうなるのかな。


「お食事の後に思い切って、あなたの人生を縛ってしまってごめんなさいね、って言ってみたのよ。そしたらね、彼女、『いいえ、私は毎日をとても楽しく過ごせています。寧ろお礼を言わなければなりません』って言ってくれたのよー。そのとき、随分と救われたわ。さすが聖女ね」


 いかん。これは話がれて本筋になかなか戻って来ない挙句に、時間終了で肝心なところが聞けないパターンだ。強制的に戻さなければ。


「それは良かったですね。さすがはマザーです。ところで、神託の内容というのはどんなものだったんですか?」


「あ、その前にもう一つ話しておくわ。あなた、お屋敷にいたときのことを覚えてる?」


「はい、覚えてますよ。3歳くらいから15歳まで伯父さんや従兄妹いとこたちと幸せに暮らした記憶があります」


「やっぱり覚えていないのね」


「? どういうことです?」


「クリスタさんの話によると、スヴァン、あなた小さい頃は屋敷の使用人と一緒に暮らしていたそうよ。お使いの途中で拾って、可愛いからって屋敷まで連れてきちゃったんだって」


 俺は捨てられた仔犬か。


「孤児院が空くまで、っていう条件でゲラルト様の許可を頂いて、3歳まであのお屋敷にいたみたいね」


 マザーが『絶対に私が面倒を見るから飼っていいでしょ?』と言っている光景が目に浮かぶではないか。それにしても、そんなことがあったなんて全然覚えてないし、例の葡萄えび色のノートにも書かれていなかったような気がする。どういうことだ?


「あら? きょとんとしてるわね。3歳前の記憶なんて持ってる人は少ないから気に病む必要はないわ。それにあなたの場合はシュテファンの記憶と混濁しているかも知れないしね」


 ……そういうことか。今の状況としてはエレオノーラ様の言う記憶の混濁の可能性が高い。そしてノートに書かれていなかったことは、あれを受け取ったときに感じた印象が正解だったという事だ。『これまで見知った出来事が全て記録されているようだ』と。


「ここまでは大丈夫かしら?」


 俺は小さく頷く。


「で、クリスタさんから聞いた神託の内容だけど2つ有って、1つ目は拾ったスヴァンベリ、つまりあなたを大切に育てること、生まれたばかりのシュテファンの魂のうつわとなるから。2つ目は、いずれ宰相が王になる、これだけ。これだけだったけど、内容が内容だけに、当時の王様にもすぐに報告されたわ」


「ふーむ。結局、それを聞いてその王様はどうしたんですか?」


「何もしなかったわ」


「それはまたどうして?」


「1つ目は、クリスタさんは聖女に祀り上げられると同時に、神託に従って孤児院の院長に内定してたから。2つ目は、普通だったら宰相って王族から選ばれるでしょ? 当時の宰相は継承順位1位のエン様だったから、恐らく、そんなの当たり前じゃない? って受け止めたんだと思うの。でも」


「でも?」


「王位を継いだエン様がグスタフさんを宰相に任命した後に、偶然、その神託を知ったとしたらどうかしらね?」


 気が気じゃないだろうな。


「何回かお会いしたことがあるのだけど、エン様は知的で優しくて庶民的な、普通の人だったわ。普通に神託を信じ、普通に自尊心があり、普通に権力欲があり、普通に心が弱く、普通に優秀な人間を心のどこかで怖れていた。あくまでも推測の域を出ないけれど、その結果、グスタフさんや家族を殺さなければならないほど壊れてしまったんじゃないかしら? 結局、神託の通りとなったのは何とも言えない皮肉ね」


「家族を殺した!? 王様が!?」


 淡々と語っているから聞き逃しそうになったが、病死じゃなかったっけ?


「あ、そっか。公式発表は病死だものね、驚くのも無理ないわ。王城内の教会を担当していた司祭の報告によれば、エン様は家族に斬りかかった後に自決したそうよ。無理心中、とでも言うべきかしら? まだ幼かった王女様だけが生き残って、詳しいことは分からないけど、今はカズ様の養女になっていたんじゃないかしらね?」


「はぁ……、人間、どうなるか分かりませんね」


 そんなときボクの記憶から1つ、思い出した。


「ところで、グスタフ閣下がロータル様を殺害した理由って、何か聞いてますか? シュテファンには教えてくれなかったんですよ」


「あー、あの話ね」


 途端にエレオノーラ様の顔が不機嫌になる。神々しさはどこへやら。


「今、思い出してもムカつくわ! あの××野郎! ケッ!」


 ……神々しさはどこへやら。この世界の聖職者、大丈夫か?


「あいつね、薄々女好きだなって感じてたんだけど、よりにもよってグスタフさんの奥様のディートリンデさんにちょっかい出してたのよ!」


 なんだって!? それは確かに言えないわー。聞かせたくないし、聞きたくないわー。


「まぁ、ディートリンデさんも軽薄な女性じゃないから相手にしてなかったんだけど、或る日、ロータルが逆ギレして彼女の胸ぐらを掴んで引っぱたこうとしたらしいのよ。で、彼女に普段から相談されてたグスタフさんがたまたまそこに通りかかってね、問答無用で斬ったらしいわ」


「やりすぎなような気もしますけど……」


「それは無理。ディートリンデさんはモウリ家の御息女、ロータルの妻の私は神聖リヒトの大司教アーチビスコプの娘よ? 露見したらただじゃ済まないわ。それにグスタフさんもゲラルト様と相談した上で、何かあったら斬り捨てるつもりだったんでしょうし。ま、そんなわけで、私は、リヒトの強硬派が襲ってくる場合に備えてカネウラでシェスト教の聖職者となり、悲しくもシュテファンと離れ離れになってしまったということよ。あ、長話して悪かったわね。人間、年を取ると昔の話をしたくなるものなのよ」


「は、はぁ……、つい何年か前にもジェカアレスで同じことを言われました」


「ジェカアレスか、懐かしいな……。あ、そうそう、私があなたに話すことはここまでよ。それで、最後にお願いがあるんだけどいいかしら?」


 ムカつく話が終わってすっかり機嫌を取り戻したエレオノーラ様が無邪気な顔で問う。


「ただいま、お母さん、って言ってくれないかしら」


「は、はい。良いですよ。では」


 エレオノーラ様がとてもわくわくしているのが、その表情からも見て取れる。ご期待に応えなければ!


「ただいま、お母さん」


「……」


 あれ?なんか徐々に微妙な表情になって……、いや、眉間にしわ寄せないで。口もとがらせないで。首かしげないで。


「う、嘘よ……、私のかわいいシュテファンがこんな……」


 ご要望にお応えしたのに『こんな』ってなんだ。


「もぅ、そんなに悲しい顔をしないで。冗談よ。そう、これは冗談なのよ。でも、これでよく分かったわ。魂が循環していても、スヴァンはスヴァン、シュテファンはシュテファンなの。だから最後に言わせてちょうだい」


 彼女は入ってきたときと同じように両手をももの上に重ね、背筋をピンと伸ばして言う。


「スヴァンさん、シュテファンを連れてきてくれてありがとう。私、シュテファンを産んで本当に良かったわ」




 だが、目にうっすらと涙を浮かべていた彼女の胸中は如何いかばかりであっただろう。

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