第59話 安寧
美しい。
木の棒で押さえつけられながら見る今日の空も、戦争の不安を忘れさせるくらい、どこまでも天色だ。
「あ、モーリッツさん。行くも何も、ここ集合じゃないっすか」
「おお、そうか。そう言えばそうだったな。訓練場に集合だったな。お前みたいな若い奴がいてくれて助かったぜ」
モーリッツさんの年齢は聞いたことがないが、白髪や顔のしわから思うに50歳手前くらいなんだろう。モーリッツさんほどの達人でも、寄る年波には勝てないのだと思うと、諸行無常の感がある。
「それじゃ、このまま暫く待つとするか」
「いや、その前にそろそろ棒をどけて頂けないでしょうか?」
「お、悪いな。ラッパに夢中で忘れてたぜ。ほれ」
仰向けに寝そべった俺は、おでこの辺りを棒で押さえつけられて立ち上がれないままに、モーリッツさんを見上げて会話していた。その厄介な棒がどけられた今、ようやく立ち上がることができる。
さぁ、勢いよく溌溂と立ち上がるのだ、スヴァン。
「よっこいっしょっと」
無理。急に立ち上がると危険なのを俺は知っている。
「ははははは!お前、俺よりも爺くせぇなぁ。若いんだからもっと若者らしくしろよ」
「い、良いじゃないですか。立ち上がるために重要な儀式なんですよ」
「お?そうかぁ?ま、なんにしても1ヶ月前からしたら、お前、随分まともな顔になったじゃねぇか。あんときは死にそうな顔してたからなぁ」
なんだかんだ言って気にかけてくれているのだ。良い人だ。……良い人か?いや、悪い人じゃない、くらいに訂正しておこう。
和やかに会話をしていると、ラッパを聞いた傭兵と思われる人達が続々と訓練場に入ってきた。たまにバフコートや胸当てなどを身に着けている人はいるが、ほとんどが普段着だ。ちなみに女性は一人もいない。訓練場があっという間に男たちの汗のニオイに満たされていく。
傭兵歴の長いモーリッツさんは知り合いも多いみたいで、結構な人数と「久しぶり」「元気だったか」「まだ死んでなかったのかよ」という、傭兵の定番っぽい挨拶を交わしている。
イヌイ在住の組合員でさえあまり知らない俺は、アニキやバルナバスさんというお馴染みのメンバーといつもの挨拶を交わすくらいだった。
何とはなしに話を聞いてみたら、閣下は生前、紫の芍薬やプレクトランサスを何回か買ったことがあるそうで、そのときの何気ない会話ですっかりファンになってしまった、そんな閣下を卑劣にも待ち伏せして殺害した王軍を許せない、組合に登録したのは随分と昔だが一矢報いてやりたい、とのことだった。
何気ない会話で領民を虜にするとは流石はボクの叔父上、と感心していると、おおよそ町で待機していた傭兵が集まったのか、新しく訓練場に入ってくる人はほとんど見かけなくなっていた。そのタイミングを見計らうように、組合長、続いてニクラウスさんが入ってくる。
自然とできた空いているスペースに組合長が進み、皆を見回してからいつもの大声で話し始めた。
「組合長のペーターだ!今回の招集について説明する!」
300人近く集まった場所でも組合長の大声はとてもよく聞こえる。普段の大声は、必要なときのことを意識して、訓練をしているんじゃないかとも思えてきた。
「お前達に話すことは二つだ!一つ!兵士の徴募はいったん無しだ!」
あれ?1ヶ月何もないとは思ってたけど、王軍側の動きが一向に無いのか、或いは、
「二つ!キンバラ、サコ、ヌマノで別の依頼が出される予定だ!以上だ!ご苦労さん!地元に帰って次に備えろ、野郎ども!」
聞いたことがない地名が二つ……、いや、ヌマノはオータフルスに行くときに泊まったな。イヌイとフタマタの間、ゾンマー川とグリューン川に挟まれた東弓街道沿いの集落だ。キンバラはどこだか分からないが、サコは神聖リヒトに、ヌマノは東のグリューン川を渡ればすぐにウエスギ領のフタマタだ。哨戒任務かな?
……オダにウエスギって戦国時代かよ。戦国時代の織田家と上杉家は川を挟んで合戦をしたことがあったような。確か、その合戦では織田家がボロ負けしたんだった。あれはなんていう合戦だったかな。山や川の名前は違うが、町と集落の名前も日本語にしか聞こえない。あ、でも、神聖リヒトの町は全く日本語には聞こえないな。うーむ。この世界は一体なんなのだろうか?
ところでキンバラだ。キンバラってどこ?
あ、アニキがいるな、アニキに聞いてみよう。
「エトムントのアニキ!キンバラってどこですか?」
「……」
アニキが無言で俺の目を見つめてくる。
いや、待って、まだ心の準備が……。
「お前は俺の弟ではない。名前で呼べ」
「う、うっす。すんませんっした。じゃあ、気を取り直してエトムントさん、さっき組合長が言ってたキンバラってどこにあるんですか?」
「ふむ。キンバラはここから西に80キロ程のところにある大きな町だ。小麦の栽培が盛んで、毎年、夏の収穫の時期には、向こうの傭兵がこっちまで小麦を運ぶ商隊を護衛してきている。お前も護衛依頼を受けることがあるかも知れないから覚えておけ」
「うっす。ありがとっした!」
我ながら小者感が半端ない。
イヌイから西に大きな街道は出ていなかったはずだが、赤鉄街道からどこかで西に分岐でもしているのだろうか?
*
待機終了からの2週間、たまにドミニクさんに声をかけられてボーネン食堂を手伝いながら自室と訓練場で汗を流すという、何事もない、傭兵の仕事もない平穏無事な毎日が過ぎていった。
このまま何事もなく毎日が平和に流れてくれれば良い、と思うときは大体の場合、何か事件が進んでいて、どれだけ隠遁生活を営んでいてもいつも巻き込まれるというのが、前の世界でよく読んでいた異世界モノのお約束なのだ。
「スヴァンさん、良いところに来ましたね。組合長からお話があるみたいです」
ある日、いつものように訓練場を使うために傭兵組合を覗いたら、先にニクラウスさんに声をかけられた。
ほら来た、と思った。
やはり、異世界に転生したら何かと巻き込まれてしまうものなのだ。でも、どうして異世界に転生したら転生者は事件に巻き込まれてしまうのだろう?謎は尽きないが、一つの答えは、それが小説や漫画などの創作物だからだ。事件が無ければ話が成り立たない、創作物の登場人物たちからすれば残酷な現実がある。とすると、今のこの状況は何だろう?俺も、誰も彼も創作物の一部なのだろうか?だとしたら誰の?
「あ、はい。分かりました」
疑問を他所に返事をして、ニクラウスさんに教えてもらった受付の奥にある部屋に入る。以前に入った部屋とは違い、ここは事務仕事を行う部屋のようだ。話があるという組合長は、奥の空いている席に座っていて、俺を見つけるや頷きながら無言で手招きをする。手招きに促されて組合長に近寄りながら、なんとなく部屋の中を観察すると、今まで見かけたことがない女性が1名、仕事を行なっていたので軽く会釈をすると、にこりと会釈を返してくれた。
「悪いな、スヴァン」
今日の組合長はいつもの暴風雨のような大声ではなく、どちらかと言うとひそひそ声だ。もっとも、地声の大きい人はひそひそ声でも普通の声量なのだけれど。
「いえ、仕事が無くて暇を持て余していたところですのでお構いなく」
「そうか。それは頼みやすいな」
「頼みやすいというと、依頼か何かでしょうか?何でもやりますよ」
わざわざ別室に呼び出すということは、もしかしたらやんごとなき身分の御方からのご指名があったのかも知れない。久しぶりに傭兵の仕事にありつけそうだ。
「ああ、依頼の話だ」
「ありがとうございます。やんごとなき身分の御方からの指名依頼ですよね?」
「やんごとなき?いや?指名と言うならやんごとなき俺からの指名依頼だな。感謝しろよ?」
ほら来た。
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