第十一章 崩壊

第1話 見て見ぬふり

 一週間後の羽藤が面談に来たのは、十九時だ。

 待合室に呼びに行った麻子は、羽藤の異変を感じ取る。

 名前を呼ばれて立ち上がった羽藤は、珍しくグレーのチェスターコートに、セーターはブラックのハイネック。ブラックのスリムパンツにブラックの革靴を履いている。

 色のバリエーションはあるとはいえ、大抵はダッフルコートを着て来る羽藤ではない。成人した大人の男の雰囲気だ。


「第一面接室にいらして下さい」


 思わず、いつも以上に丁寧語を使ってしまうほど、羽藤ではない誰かが来た。俄かに鼓動が高ぶった。心臓が、どっ、どっ、どっと、音を立てて拍動する。

 

 面接室に入った彼は、クライアントの定位置に腰かける。

 案内されなくても座ったということは、他の交代人格と記憶を共有できる人格なのか。麻子はカウンセラーの定位置に座り、いつものように口火を切る。


「それでは、二十時まで、話したいことを話して下さい」

「先生。いつまで見て見ぬふりを続ける気ですか?」


 麻子の言葉尻をとるようにして彼が言う。我慢の限界を超えたような、怒気をはらんだ言い方だ。


「何のことですか?」

「これですよ」


 彼は、右手の人差し指の吐きダコを突き出した。


「こいつは先生に見られたことを、わかっています。先生にエレベーターで会った時、まさか心療内科の先生だとは思わなかった。自分と同じ患者だと思ってた。だから昇降ボタンを押したんです。それでも、自分のカウンセラーにならなかったら隠せると考えた。なのに、よりにもよって、カウンセラーはあんただった」


 そう言う彼に責められてるのは明白だ。何に対する怒りなのかも漠然とだが、みえてきた。ただ、これは誰に対する怒りなのかが、わからない。麻子は把握しきれない。

 だが、彼が「こいつ」と言った時、彼は自分の胸を、その人差し指で突いたのだ。


「あなたは誰ですか?」

「話をすり替えないで頂きたい」

「誰と話をしているのかが、私にはわかりません」


 麻子は困惑を顕わにした。すると、彼はぎょっとしたかのように眉を上げ、弾丸のような攻撃が休止する。カウンセラーなら何でもわかると、思い込んでいたのだろうか。だとしたら、間違いだ。カウンセラーは人間だ。


「だったら、僕にも名前を下さい」


 ああ、そうか。

 憤怒で口を歪ませた彼は、あの彼だ。新たな交代人格などではなかったようだ。


「私。あなたには何度か会っていますよね?」


 思いがけなく自分の本音を露呈ろていして、急に恥ずかしくなったのか、伏し目になって黙り込む。

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