第10話 よく我慢したね

 ナビに住所を入れてくれと言われた麻子は、操作する駒井に住所を告げた。

 ともあれ車は走り出す。

 

 深夜でも車の行き来はそれなりにある。上京してきて、びっくりしたのは『夜でも明るい』。裏通りは別として、どうして午前零時を過ぎたのに、歩道に人が溢れているのか、今でも麻子は謎のまま。


「ホーストコピーとの面談は、どうだった?」


 駒井が運転しながら、さらりと尋ねる。


「私がアメリカで担当した、多重人格障害のクライアントが自殺した件を持ち出して、人殺しだと言われました。そんな奴に多重人格障害者を治せるのかと、ののしられました」

「何て答えたの?」

「今ならそれが出来るかもしれないけれど、あの時は、それが私の精一杯だったんだからと、答えました」


 直線の国道の信号が赤になり、停車する。

 車内はアニメキャラのマスコットが、座席のそこかしこに付けられて、車の振動で揺れていた。後部座席には、ご当地キャラのぬいぐるみなど、子供の可愛いが溢れている。麻子の足元のゴミ箱は、ティッシュやスナック菓子の袋が雑多に詰め込められている。


「よく我慢したね」


 信号が青に代わり、アクセルを踏んだ駒井の横顔を見る。ネオンや車のヘッドライトが交差して、小造りな童顔を照らしている。

 よく我慢したねと言われてようやく、臨戦態勢の緊張が、ほろりと崩れる。同時に涙が一筋流れた。


「はい。……あの。何とかですけど、こらえました」

「誉めてあげるよ。長澤さんは頑張った。自信をくじこうとされたのに、はねのけた」

「でも、本当に、これで良かったんでしょうか」


 一抹の不安が胸に湧く。涙を指で拭いつつ、語尾を弱めた麻子を駒井が一瞥した。


「カウンセリングに正解なんか、ないからね。その時、その時の自分で勝負するしかないんじゃないかな」

「……そうですね」


 駒井の運転はスマートだ。

 ブレーキを踏まれても、左折や右折をされても体が傾かない。

  男女ともに車の運転が合わないと感じたら、性格も合わないことを経験値として持っている。


「院長。お車がすごくファンシーですけど、院長の趣味ですか?」

 

 そうではないと知りつつも、麻子は駒井をからかった。


「二人目の奥さんとこの上の子が、好きなんだよね。こういうの。勝手にいろいろ付けるんだ」

「おいくつですか?」

「九歳だ」


 九歳といえば、羽藤柚季が記憶を無くし始めるようになった頃。

 たとえ別々に暮らしても、愛されることを知っている無邪気な子供の残酷さを知る。


 そのうち国道から脇道に入り、坂を中間地点ほど登ったら、麻子の自宅マンションだ。ここですと、麻子はマンションを指差した。車はマンションの共同玄関前に横付けをされ、麻子はシートベルトを外してバッグを抱え持つ。


「わざわざ、ありがとうございました」

「意外に近かったんだね」

「近いことは近いんですけど。地下鉄を下りてから、ここまで少し歩くんです」


 助手席から下りた麻子が一礼すると、運転席で駒井が片手を上げて答える。引き返す車をしばらく見送り、麻子はヒールの音を響かせながら、マンションのエントランスを横切った。

 そして階段を上り出す。


 ホーストコピーは、分身に対して好戦的だ。

 羽藤柚季の味方のカウンセラーにも、当然攻撃するだろう。それを踏まえて車に乗せて、雑談をしたり、面談の報告などもさせたのだろう。


 いい上司に恵まれたことに、心から感謝する。

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