第十章 ラスボス
第1話 待つ
第三面接室のドアを開け、中に入る。ドアを閉める。
蛍光灯の無機質で白い明かりが、部屋全体を照らしている。今日は終日、みぞれ交じりの雨だったせいか、ビル周辺の繁華街から流れてきた、泥酔者達のバカ騒ぎなども聞こえない。
静かだった。
カウンセラーの定位置のパイプ椅子に腰かける。
卓上の時計を見ると、十時五十三分だ。通常なら待合室にクライアントを呼びに行く。けれどもそれをしなかった。
ホーストコピーであるのなら、神出鬼没だ。向こうの意思で姿を見せたり、消えたりもする。麻子はもう一度時計を見た。ちょうど十一時を回り始めた。
面談開始だ。
麻子は神経を張り巡らせて、室内の気配を隈なく探る。
喉の渇きを感じたが、面談中に飲食はしない規律のもとに、麻子は
時計の針の動作音が、心音にも似て、息が苦しい。
時計ばかりを麻子は見ている。
十一時十五分を経過した。
面談は、予約時間に一分でも遅刻をすればキャンセルだ。事実上はキャンセル扱いに変わったが、麻子はまだ待つ。
待つことは、何もしないことではない。
全身全霊をかけて待つ。
南野のように、あっけなく離れて行ったり、戻って来たりするような気まぐれなクライアントも同様だ。
来ないかもしれないと予感もどこかで抱きつつ、待つことに意味がある。
クライアントの多くは大人の都合で待たされ続けた。
浮気相手を母親が家に引き入れるたび、ハエでも追い払うようにして、家を出ろといわれる子供。日付が変わる頃までは、帰ってくるなと言いつけられる。
日の高いうちに男が来たら、追われた子供は昼食にも夕食にも、ありつけない。
公園の薄汚い水飲み場で水ばかり飲み、飢えを
友達と遊ぶ余力も気力もない子供。
彼らは泣かない。口をきかない。笑わない。諦めだけが彼らの胸に巣くっている。だから待つ。
胃が捻じりあげられるようにして痛み出す。
出ていけと言われた子供の帰りを待つのだ。麻子は六十分間、黙ったままでカウンセリングを終わらせるクライアントも知っている。
だが、クライアントが黙っているから、何も話そうとしないから、何も起きていないとは言えないことも知っている。
クライアントは、それを人に話していいのかどうかで葛藤する。
今の気持ちを、要求を、聞かれたことがないからだ。
そして、間もなく十二時だ。
やっぱり駄目か。羽藤柚季に近づくことは出来ないのかと、失意の底に蹴り落された気がしたが、その時だ。
フィンランドを思わせる針葉樹の森にも似た、シャープな香りがふわりと漂う。
それはホーストコピーが用いる香水。
残り香が消えると同時に、時計の針は十二時をさしていた。
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