第8話  そこにはいない

 院長の駒井は脳神経外科への受診を勧めてワンクッション置き、心療内科への偏見と抵抗感を、こうして軽減したのだろう。

 麻子は若木の話を聞きつつ思う。

 羽藤も心療内科での受診を前提にして、病院探しをしてくれている若木になら、言い出しやすかったに違いない。


「この子は、これまで本当に辛い思いばっかりしてきたんです。だから、もうこれ以上、この子が苦しまなくても済むように、私にできることは全部しようって思っています」

 

 涙で声を詰まらせながら、若木は決然として言い切った。


「私も全力でサポートしますので」

 

 若木の悲壮な思いに応えるように、麻子も語気を強めて言った。

 とはいえ、若木は芸能人だ。心療内科を訪ねた噂が立つだけで、あることないこと言い立てられる不安もあったに違いない。

 羽藤もそれを恐れて、通院を断念しかけていたのだろう。

 にも関わらず、若木は自分のキャリアより、助けを求めた甥に寄り添う道を選んだのだ。


 若木の決意は、麻子の中でくすぶっていた後ろめたさを吹き飛ばし、麻子に腹をくくらせた。

 

 これまで十年近くカウンセラーをしてきたが、カウンセリングに臨む直前の緊張感と、震えるような恐怖が薄まることは決してない。


 自分は本当にこのクライアントの役に立てるのか。

 力になることができるのか。

 その自問自答は、カウンセリングを重ねるごとに声高になる。クライアントが誰であれ、永遠に自分の中でくり返されていくのだろう。


 だが今、麻子は羽藤と若木の力になりたいと思っていた。

 助けになれると言い切ることはできないが、助けになりたいと思っていると、伝えることはできる気がした。


「ありがとうございます……」


 泣き濡れた若木の顔を覗き込むようにして麻子は告げた。若木はひとまず安堵したかのような溜息をもらし、ただでさえ細い目元を細めている。そうして若木の肩越しに、羽藤の顔も盗み見た。

 

 若木は背中を丸めて目元をハンカチで拭っている。

 羽藤はいつのまにか顔を上げ、背筋をまっすぐ伸ばしていた。

 彼の視線の先にあるのは、午睡の日差しが射し込んでいる腰高の窓。ブラインドは上げられている。

 

 麻子は視線をテーブルの中央に移しつつ、若木のために前のめりになった身体も元に戻した。

 こうして若木が献身的に尽くすと言ってくれたのに、当事者の羽藤はそんな彼女を見ようともしていない。口元には皇族のような微笑みをたたえ、窓の外を眺めている。

 

 叔母の話を聞きながら、何を感じているのかを、訊ねてみたい気もしたが、あえて言葉にしなかった。自分の口調やニュアンス次第で、なぜ他人事ひとごとみたいに涼しい顔をしているのかと、非難しているかのように、聞こえてしまいかねない気がした。

 

 実際、麻子は眉をひそめて羽藤を見た。

 羽藤から、時折見られる『場』にそぐわない表情や反応。それは、目の前の出来事に関わりきれない、または関わることを拒絶している、ある種の乖離かいりだ。



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